フォトジャーナリスト・嘉納愛夏が歩いた戦場「そこに、あなたがいた」 夏のパレスチナで出会った兵士、実業家、少女

中東へよく行っていた頃、友人知人からよく「いったい何を食べてるの?」と聞かれた。紛争地であってもその地域が戦場になっていなければ、人は普通に暮らし、職場へも出かける。食事だって同じだ。日本にいてそのような状態が想像できないのだろうが、人がいれば店はあるし、ジャーナリスト目当てにレストランを開ける店主も少なくない。時には自炊もし、意外かもしれないがきわめて普通のものを食べていた。第2次インティファーダがアラファト解放でクライマックスを迎えたかに見えた2002年。その夏に私はパレスチナを歩いた。真夏の中東を歩く。クレージーだが、計画立案したのは当時エルサレム近郊に住んでいた日本山妙法寺の僧侶、堀越行清さんだ。行清、というのは言ってみれば坊さんネームで本名は違う。清い行いという名前に反して最高に俗っぽい坊さんで、俗にまみれた私としてはつきあいやすかった。ほかにはシュマーグ(アラブのスカーフ)を巻くと“日本のハマス”と呼ばれたライターの高橋正則さん、さすらいの絵描きの卵のノブくん。この4人でエルサレムのダマスカスゲートから出発して、ジェニンまでおよそ一週間かけて歩いたのだった。
嘉納愛夏

■イスラエルとパレスチナ

中東へよく行っていた頃、友人知人からよく「いったい何を食べてるの?」と聞かれた。紛争地であってもその地域が戦場になっていなければ、人は普通に暮らし、職場へも出かける。食事だって同じだ。日本にいてそのような状態が想像できないのだろうが、人がいれば店はあるし、ジャーナリスト目当てにレストランを開ける店主も少なくない。時には自炊もし、意外かもしれないがきわめて普通のものを食べていた。

第2次インティファーダがアラファト解放でクライマックスを迎えたかに見えた2002年。その夏に私はパレスチナを歩いた。真夏の中東を歩く。クレージーだが、計画立案したのは当時エルサレム近郊に住んでいた日本山妙法寺の僧侶、堀越行清さんだ。行清、というのは言ってみれば坊さんネームで本名は違う。清い行いという名前に反して最高に俗っぽい坊さんで、俗にまみれた私としてはつきあいやすかった。ほかにはシュマーグ(アラブのスカーフ)を巻くと“日本のハマス”と呼ばれたライターの高橋正則さん、さすらいの絵描きの卵のノブくん。この4人でエルサレムのダマスカスゲートから出発して、ジェニンまでおよそ一週間かけて歩いたのだった。

人間、2人集まればコミュニティーができる。4人もいれば小さな村だ。時に楽しく、時に誰かがへそを曲げ、たまに坊さんが切れる。そう、坊さんも切れるのだ。どんな人間関係も修行であり、思いやりや気遣いをすることによって、その関係はいい方向に開かれる。それは近づいてお互いのいいところも悪いところも知って、ようやく得られることであって、国同士も同じだと思うが、残念ながらイスラエルとパレスチナには当てはまらない。過去に幾度も和平への道が話し合われようとしていたが、一度も合意することはなく(いや、合意はしたが実行されたためしはないのか)、民間レベルではほとんどのイスラエルのユダヤ人と自治区のパレスチナ人は近づくこともない。今ではイスラエルはパレスチナ自治区との間に、刑務所の壁よりはるかに高い分離壁まで建ててしまったのだから、物理的にも近づけなくなったと言える。

■チェックポイントとアラブ時間

エルサレム旧市街ダマスカスゲートを出発し北へ。アラームのチェックポイント(検問所)を通過し、ラマラの玄関口であるカランディアチェックポイントを通過する。

西岸(West Bank)、いわゆるヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治区の町をたずねて歩くには、要所要所に設けられたイスラエル軍のチェックポイントで身分証(外国人はパスポート)を見せる必要がある。常態化してしまっているが、これは抑圧にほかならない。ただでさえ働く場所を制限されているパレスチナ人が、エルサレムなどほかの町に仕事場がある場合、時には長い行列を待たなければ自治区から出られない。治安上の理由などでチェックポイントが閉じられた場合、仕事に行くことさえできないのだ。

また、パレスチナ・イスラエル内を移動する時、多くの一般人はバスに乗る。小さな乗り合いバスから、大型ではアラブバスと、イスラエルの路線バスがある。ちなみにアラブバスに時刻表はなく、ほぼ満席にならないと発車しないので時間が読めない。イスラエルのバスは時刻表があるので日本と同じ感覚で乗れるが、ごく稀にパレスチナ武装組織による自爆テロに遭遇する危険性があった(何度も自爆テロの現場にかけつけたことがあるが、半数はバスだった)。アラブ式のバスは客から見るとえらく非効率で、心を大らかに持たないととてもじゃないが我慢できない。待つのが仕事か?と思うほどだ。このように自ら非効率を選択しているパレスチナ人であるから、皮肉にもチェックポイントの行列も黙って耐えることができるのかもしれない。

■水をふるまってくれた若いイスラエル兵

アラームのチェックポイントを過ぎて、なんぼも歩かないうちにさっそくパレスチナ人の家にお茶に呼ばれた。もちろん見ず知らずの人である。虐げられた自分たちのためにわざわざ海外から来てくれる、ということもあるだろうが、旅人に振舞うのは古来からの習慣だそうだ。坊さんによるこの企画は「平和行進」であるから、出会ったパレスチナ人たちに平和のメッセージを書いてもらうことにしていた。どう考えても胡散臭い4人組なのに、旅の最後まで申し出を断る人は皆無。外国からのNGOや国連の支援を常に受けているパレスチナならではだと思う。この日はビール作りで有名な「タイベ」まで行って、坊さんの知り合いの民家に宿泊した。

翌朝はピーカンの中、苦しい行脚が続いた。給水できずヘロヘロになっていると、イスラエル軍のジープが傍らに停まった。後部ハッチから出てきた若いイスラエル兵と「何しているのか?」「平和のために祈りながら歩いている」…とかなんとかやり取りがあって、その後にポリタンクいっぱいの水を飲ませてくれたのであった。

この日の宿は、アクラバ。以前、坊さんと私が一緒にいる時に偶然知り合ったパレスチナ人の青年実業家、アイマンの家に泊まることになっていた。まだ何キロもあるが、途中でベドウィンのテントに呼ばれる。ここでのベドウィンの定義は山に住む半遊牧のアラブ人、ということでほぼ間違いない。そしてほぼイスラエリ・アラブ(イスラエル国籍を持つパレスチナ人)だそうだ。

食事(クレープのように薄くて円いパン、フライドポテト、アラブ風サラダ、ホモス=ひよこ豆のペースト、オリーブオイル)を振舞われ、我々は貪るように食べた。ちなみにこのような場には家族の女性が出てきて食事を共にすることはない。客をもてなすのは男の仕事、というアラブの習慣なのだ。ただし客が女性である場合は彼女らの中に入っていくこともできる。

■痩せているパレスチナ人実業家アイマン

アクラバに到着したのは日没直前であったため、翌日はアクラバの役所やアイマンの経営する工場、オリーブ畑のある山などを見学し隣町まで足を延ばし、再びアイマンの家にお世話になった。彼の家は広く、新しい家も広い敷地内に建設中であった。英語教師の妻と幼い二人の子どもがいた。実業家のパレスチナ人に会ったことがなかったので、その生活ぶりは私の目にとても豊かに映った。本当は普通なのだけれど。ただ、オリーブ畑をいくつも持っているだけあって、食事で出されたオリーブオイルは今まで食べたことのない最上級の物であった。見たことのない透明度の高いきれいな濃いグリーンで、オイルというよりジュース。これを輸出したらと思わずにいられない。

アイマンはパレスチナ人なのにものすごく痩せていて(食事の内容や、日中断食夕食ドカ食いのラマダンの習慣、運動の無習慣から、普通のパレスチナ成人は大体太っている)、時々暗い顔で何かを考え込んでいるようだった。一家の長、地域の長としての悩み事や、会社の社長として多くの従業員の生活を支えていかなければならないプレッシャーなどがあったと思う。陽気で自分勝手で無責任なパレスチナ人男性を多く知っていたので特異に映った。人種がその人の性格を決めるのではなく、立場や環境が人を育て、人格が作られていくのはどこでも一緒なのだった。

■会ったことのないパレスチナ人を憎むイスラエル兵士

アクラバを後にして、ナブルスを経てこの日はサバスティア泊。実は近くの町で坊さんが泊めてくれる人を紹介してもらっていたが、その人を探しに探した挙句、約束は反故にされた。おそらく嫁に大反対されたのではないだろうか。陽気で自分勝手で無責任なパレスチナ人男性の典型であった。まあそんなこともある。見ず知らずの他人を泊めることの方が(しかも4人も)変わっている。しかし捨てる神あれば拾う神ありで、この日の午後に出会ったパレスチナ人に相談したら泊めてもらえることになった。どう考えても胡散臭い4人組なのに…以下略。とかく懐の深いパレスチナ人も多いのだ。

この日のトピックスはイスラエル軍の基地に立ち寄ったことだ。周囲をよくある網のフェンスで取り囲んだ、入植地の中の基地。中に入っていいとのことで、若い兵士と少し話した。一人はイスラエル生まれのイスラエル育ち。プロパガンダ純粋培養が功を奏し、パレスチナ人を心底憎んでいた。

「オレがパレスチナの奴らを一人残らず殺してやる」―そんな言葉をためらいなく発するのに驚いたが、「パレスチナに行ったことやパレスチナ人に会ったことはあるの?」と聞くと「ない」と言う。刷り込み(マインド・コントロール)とはかくもおそろしい。パレスチナの自爆テロを実行する若者も、武装組織による刷り込み―イスラエル人を一人でも殺すことが正義、死んだら天国で99人だか100人の処女がお前を待っている、など―が行われるが、身近にある悲劇につけ込むところは両者同じである。

■そして、ジェニンへ

サバスティアの後、似たようなかんじで町から町を歩き民泊した。ある日は民家の屋上に泊めてもらった。そしていよいよジェニン難民キャンプのあるジェニンへ。行脚の終着点だ。この年の冬から春の再占領の際、ジェニン難民キャンプはイスラエル軍に徹底的に破壊された。それがほぼ一人のイスラエル兵が操縦する軍用大型ドーザD9がやってのけたと後にインタビューが出ていたのに驚いた。なぎ倒し、引き倒し、人が居ようと居まいとおかまいなしで邁進したという。

人間とはどこまで悪魔になれるのだろう。イスラエル軍が引いた直後の4月のジェニンに何度か通い、殲滅というのはこういう状態のことを言うのではないかと思うほど、家々は破壊し尽くされ瓦礫の山となっていた。難民キャンプというとテントやトタンなどの簡易住宅かと思うだろうが、パレスチナ難民の歴史は長く、ジェニン難民キャンプの住宅は、コンクリートブロックで形作られた一見普通の恒久住宅のようなものばかりだった。瓦礫の山に混ざって生活の証がそこかしこに散らばっていた。食器、写真、衣服…。日が落ちてもパレスチナ人たちによる不明者捜索は続いていた。

■自由な精神を持った17歳の少女アイア

この時、ジェニンへの抜け道(まだ自由に入ることができなかった)を教えてくれた男性の姪っ子、アイアに出会った。アイアは敬虔なムスリムの父親を持つにもかかわらず、自由な精神を持った美しい17歳の少女だった。私の名前がアイカで、一文字違いだと喜び、すぐに仲良くなった。実は父親がかなり敬虔かつ厳格だと知ったのは、この夏の行脚の時だ。英語が堪能で職業は医師。その父親に「アイアの英語は私を凌ぐ」と言わしめるほど、彼女は英語を自在に操っていた。私は彼女の中に純粋さと、あくなき探究心と好奇心、他者への慈愛を感じていた。

ジェニンではアイアの家に泊まることになったが、再占領中は大学への通学が困難になるため自宅にはいなかった。家は難民キャンプではなくジェニンの町にあった。招き入れられた大きな応接セットが二つも置いてある豪華なリビングで待っていたのは、アイアの父親の長い長~~~いイスラムの説教だった。夏の炎天下を散々歩いてきた身体にイスラムの説教…は睡魔となって我々に挑んできたのであった。

イスラム社会の結婚の話になったので、父親にアイアの結婚について聞くと、「時期が来れば彼女が選ぶ。彼女はわかっているから。」というようなことを言った。決して親の期待を裏切ることはない、確信に満ちた口調だった。アイアに会いに大学を訪れた際、保守的な家柄にふさわしく、家では被らないヒジャブを外では被っていた。そして傍には幼馴染の同級生の男の子がいて、彼は常にナイトのようにアイアの頼みごとをきいていた。ほほえましい二人。あれだけ英語が堪能で頭がいいなら、いくらでもパレスチナの外に出て行けそうだが、たとえ出て行っても必ず帰ってくるのだろう。自分の幸せがどこにあるか。その答えを彼女は持っている気がした。

■もしも、パレスチナ人としてユダヤ人として生まれていたら?

もしこの地にパレスチナ人として生まれていたらどうしただろう?ユダヤ人として生まれていたら?

ありえないことだが、考えてしまう。私は日本人だから日本が一番美しい国だと信じているが、パレスチナ人にとってはパレスチナが、イスラエル生まれのイスラエル人にとってはイスラエルが一番だろう。古都エルサレムのオリーブ山から見る夕暮れ時の景色、旧市街の街並み、山々が見せる表情、地中海を望むガザやヤッフォの海岸、遊牧の風景。どれもが彼らにとっては郷愁を誘う、富士山のようなあたり前にある景色だ。自分の足で歩いて土地を巡って人に出会って、彼らの日常に触れたことで、彼らの困難のほんの端っこを体験したことで、彼らと私たちは何ひとつ変わらない、との思いを強くした。

アフガニスタン紛争、第2次インティファーダ、イラク戦争と大きな軍事行動が続き、第2次インティファーダ以降、パレスチナ問題はほとんど注目されなくなった。自爆テロの規模もイラクやアフガンとは比べ物にならず、中東紛争トップニュースの座から外れた。この後この地が注目されたのはヤセル・アラファトが亡くなった2004年と、2008年のガザ紛争くらいだ。状況は変わらず悪いのに、ニュースはより大きな不幸を探すのが常だ。何トン爆弾が使われた、何人死んだ、空爆現場に行った、自爆テロの現場に行った…それらのみを追ってみても事の本質は見えてこないだろう。

■「真の国際社会」を実現できるのは、人と人とのつながり

今のビッグニュースはシリアだが、日本の大手メディアの記者が中に入ったという話は聞かない。体力(資金)も経験もある記者がいるはずなのに、やっていることは外通記事の翻訳だ。そして社説なんかでお偉いさんが国際社会がどーの、という話をする。テレビの場合は国境付近、もしくは隣国からの中継。本当に知りたいのは普通の人々が、戦渦の中でどう暮らしているかだ。そうでなければ共感は生まれないと思うのだが。また、仮にフリーランスが取材してきて持ち込んでも、自社の記者が現場に行って使うだろう経費の1/10も支払われないだろう。若いフリーランスが育たない所以だ。種はあっても水をまかないのだから。

常々思うのは、本当は国際社会などない、ということだ。遠くの他人を思いやって、そのために何かしようとする時、人は何かを諦めなければいけない。時間だったり、おしゃれするためのお金だったり、飲み代だったり。しかしそれを犠牲ととらえず「何かしたい」と多くの人が自発的に思うには、悲しいことにあまりにも陳腐な情報しか世の中に出回っていないのだ。正直、わからないし興味ない、という人がほとんどだろう。国際社会の代名詞・国連だって、安保理常任理事国の国益でいろいろ決まる。そこに正義があると考える人は今更いないはずだ。

「真の国際社会」を実現できるのは、人と人との糸がつながって、多くの個人が世界中で連帯できた時だろう。今のところ、それは民主主義というのを始めた我々の幻想でしかないが、今はまだ特権階級にあるメディアがつながるための一翼を担えば、少しは進むのではないか、と性懲りもなく夢想せずにいられない。

■プロフィール

嘉納愛夏(かのう・あいか)

1970年生まれ。神戸芸術工科大学卒業。写真週刊誌の専属カメラマンを経て、2004年からフリーになって以来、ジャカルタ暴動やパレスチナ、ジャワ中部地震など戦場や被災地の過酷な第一線に身を投じてきた。写真集に「中東の戦場スナップ」(アルゴノート刊)。

そこに、あなたがいた

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