マッキンゼーからウズベキスタンに。風変わりな銀行マンの転職物語

2013年11月12日 18時43分 JST | 更新 2014年04月01日 01時03分 JST

世界銀行、という機関を知っているだろうか。188カ国が加盟する、先進国から拠出された資金や市場で調達したファンドを途上国に融資したり、開発のノウハウを提供する国際機関だ。この世界銀行で活躍する日本人がいる。ウズベキスタンのカントリーマネジャーを務める、鎌田卓也さんだ。

銀行、といっても鎌田さんの仕事は、エアコンの効いたオフィスビルで座って一日中パソコンに向かうようなものではない。途上国に飛んで、現場視察から要人との交渉まで行う、タフな仕事だ。

日本の大手銀行員や外資系コンサルタントの職を捨てて途上国の開発に身を投じる鎌田さんに、ハフポスト日本版編集長・松浦茂樹がそのキャリアを聞いた。

■銀行マンからマッキンゼーに

鎌田さんは1983年、大学卒業後に東京銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に入行。海外のインフラ構築などに融資するプロジェクト・ファイナンスに憧れた。

「インドネシアとかラテンアメリカの発展途上国で石油化学プラントなどのプロジェクトに融資するっていうのに夢を感じて入ったのですが、企業留学で2年間、アメリカに行って帰ってきたら、世界の銀行に対する資本規制が強まっていて、リスクの高い融資ができなくなっていたんです。ハイ・リスクのプロジェクトファイナンスをやりたくて入ったのに、と思って、転職を考え始めました」

その頃、30歳手前。当時はインターネットもない。自分のやりたいプロジェクトファイナンスはどこでできるのか。そこで頭に浮かんだのが、世界銀行だ。鎌田さんは世界銀行のオフィスを尋ねた。

「世界銀行の人に、『あなたは若いからまだ専門家じゃない』と言われてしまったんです。そこで、若い人向けのヤング・プロフェッショナル・プログラムっていうのに応募したんです。そしたら、『来てくれ』と。今から考えると、若気の至りですが……」

世界銀行では、財務分析の担当として仕事を始めた。飛んだ先は、アフリカ。電力、港湾、いろいろなインフラの構築を手がけた。

「たとえば、エチオピアの都市に浄水場を作るのに融資する案件では、水道局があって、水道料金を回収して、ローンを返済する、というようなことをやるわけですけど、専門家としてチームに入って、返済は大丈夫だろうか、とか分析するわけです。プロジェクトマネジャーを任されるようになると、専門家6〜7人を率いて、どんどんいろんな国の政府やら、公共事業体と話をして、造って、評価して。あっという間に7年が過ぎていました」

■マッキンゼーに入るも「銀行と同じお客さんだ!」

しかし、世界銀行の組織改革で、多額の予算とスタッフを抱えていても、一時的に仕事が滞ることが多くなった。「気分転換」もしたかった。そこで世界的なコンサルティングファーム、マッキンゼー・カンパニーに転身する。そのとき、年齢は37歳だった。仕事は面白かったが、違和感があった。

「経営コンサルティングのお客様っていうのはほとんどが大企業なんです。そういうところの社長さんとか、常務などの役員さんとかとお話をするんですが、これって……10年前、銀行にいた時と同じだなあと(笑)」

「日本や欧米の場合、大きな組織には意思決定のシステムがきっちり決まっています。スタッフの役割分担も決まっていて、粛々と進んでいきます。かたや私が外国に出て、見てきた世界というのは、まったく逆。特に途上国というのは政府にしても企業体にしても地域にしても、決まらない。技術も能力もないし、非常に“変数”の多い世界でやってきたんですね。

マッキンゼーに入って、うん、これはまた昔の銀行みたいな、きっちりとしたお客さんを相手にする世界に戻ってきたなあと。わけのわからないところを手探りで進むことにスリルを感じて。エチオピアに行って村長さんと水の話をするとか、あるいは終戦後のエリトリアに行って復興の話をするとか、そういうほうがピンと来た」

マッキンゼーに入って1年余り。転職を考えた鎌田さんは再び、世界銀行の門を叩く。「あなたはまだ若いから」と言われた前回とは違う。キャリアを積んだ上での、「出戻り」の決断だった。

■“地球”という土俵で勝負する

戻ってからというものの、中国、ベトナム、モンゴルなどアジアを奔走。今はウズベキスタンでカントリー・マネジャーを務める。世界で仕事をする日々について、「個人戦です。自分のすべてのバックグラウンドを問われる」と鎌田さんは言う。

「外国の政府に『水道料金がちょっと低すぎるので上げたらどうだろう?』と言うと、向こうは『我々が十何年も内戦をやって、人が何十万人も死んで、みんな貧しいのに、君はそういう人から金を取れというのか』と、昔、軍人だった大臣が言うんですよ。すごい目つきで。それを、自分の知識、経験、すべてをつぎ込んで、一生懸命考えながら説得するんです」

コスモポリタン――。自分の働き方を鎌田さんはこの言葉で表現する。

「日本の国とか会社とか、組織を背負ってやるんじゃない。相手には、『人類普遍の良いことなんでやってください』と言わなくちゃいけないんです。これって、コスモポリタンっていうんですかね。自分を取り巻いている日常の枠を取り払って“地球”という土俵でやる。個人の力で勝負する。そういうイメージなんです」

今、鎌田さんはウズベキスタンでインフラ開発に奔走する毎日だ。今後は、温暖化や格差、グローバル化に取り組みたいのだという。

「地球の温暖化と気候変動がまずあります。日本でこんなに竜巻が起こるとか、自分が子供の頃はありえなかったですし。実際に研究する、対策を取る、ということは世界の専門家の方々がやることだと思うのですが、温暖化が止まらなかった時に、世界の人たちがどうやって暮らしていくのか。それがひとつ。

もうひとつは、格差問題とグローバル化です。格差がなく、閉ざされた社会であれば、治安維持も簡単ですが、二極化し、モノも人も動く世界になってくるとコントロールが効かなくなります。どういう社会に自分が住みたいのかをあらためて考えますね」

「農業排水・湿地管理改善プロジェクト」で建設されたウズベキスタンの南カラカルパクスタン地方、ブストニ市近郊の排水路。高い塩分を含んだ綿花・小麦畑からの農業排水による、アム川の水質汚染を防ぐため、旧アラル海地域に放流する。400キロメートルの排水路が建設された。これにより、消失した旧アラル海東部に小さな湖が復活した

タリマルジャン発電所周辺。ウズベキスタン南部のカシュカダリア州の同発電所で発電出力を増強し、新たな高圧送電線の建設に世界銀行が融資している。アジア開発銀行と日本のJICAとの共同プロジェクトで行われた

フェルガナ州・マルギラン市の絹センター。絹織物や絹の絨毯などを作っており、トルコやヨーロッパに輸出するほど、品質の良さで知られている。世界銀行のプロジェクトでウズベキスタン北西部のカラカルパクスタンで絹織物の生産を目指しているNGOに技術支援をしている

■グローバル・スタンダードに価値はない。すり合わせこそが付加価値

銀行という典型的な日本の大企業、そしてアメリカ式経営の最高峰とも言えるマッキンゼー、そして世界中を飛び回る世界銀行。いくつものビジネス文化を渡り歩いた鎌田さん。文化の差をどうやって乗り越えてきたのか。

「国が違っても、参加する人間、組織がまったくバラバラでも、なにか目的があったら、そのためにはこういうことが必要です、と作業していくしかないんですよね。文化の違いをどう管理していくのか、そういう考え方をするだけです。

世界でこれをやればうまくいく、っていうのは事例を集めてそれを当てはめるだけなら、誰でもできるし、インターネットにも載ってるんです。簡単なんです。逆に、『いや、自分のところはこうだから、できない』とローカルにこだわるのもまた、誰にでも言える。

そうではなくて、グローバルなやり方をどこかに持って行って、厳しいローカルの現実とすり合わせて解決策を生み出す、そして実際に試してみるってことがものすごく価値を生むことなんです。それ自体が素晴らしい作業だと思うんですよ。難しいものを組み合わせて新しい価値を生む、っていうのは一番、大切なことだと思いますね」

■日本人に足りないのは“発信力”

今、鎌田さんが赴任しているウズベキスタンの若者は、どんどん外国語を学んで、国を出て働いているという。日本人に足りないのは、発信能力だと痛感している。

「発信能力ですが、価値観や文化を共有していない外国人と仕事をするには、明文化して、言葉にして、コミュニケーションして、伝えていかないと物事ははじまらないわけです。今まで、モノを作っている時代は、『これは素晴らしい製品だ』と『安いし、壊れないし』ということ自体がすごく伝わりやすい発信、メッセージだったわけです。

でも、これからの時代はサービスとか、議論とか、提言とかになると、これはまったく違うコミュニケーションになるんですよね。明文化する力、アイデアをコンセプトにする力。言葉だけじゃなく、論理だけでもなく、どうやって伝えるんですか、というところだと思います」

■「自分たちがこうするんだ!という意思を持って、発言していこう」

鎌田さんがマッキンゼーから世界銀行へ戻ったのは39歳のときのこと。当時の自分とほぼ同世代となり、人口構成比も多い団塊ジュニア世代に対して、鎌田さんはこんなメッセージを残してくれた。

「団塊ジュニア世代の方はもう、中堅ですよね。世の中を引っ張っている存在です。それぞれ経験を積んで、その仕事のプロになっていると思うんです。その長時間、働いて身につけたことを組織の中だけで使うより、組織の外に出したときに、もっといろんなことが生まれるのかなと思います。

もう30代も半ばを超えれば、社会的責任もあります。自分の住みたい社会を作るために、世の中がこうなる、という受動的な姿勢じゃなくて、自分たちがこうするんだ、という意思を持って、議論を重ねて、行動や発信ができる存在になってほしいなと思います」