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自衛隊伊豆大島災害派遣【Operation TSUBAKI RESCUE】の舞台裏 フォトジャーナリスト・嘉納愛夏が歩いた戦場「そこに、あなたがいた」

2013年12月09日 23時59分 JST | 更新 2013年12月10日 00時32分 JST
嘉納愛夏

■災害派遣に求められる「3要件」

日本の天災に欠かせない自衛隊の災害派遣は、離島の緊急患者搬送を含めて年間600件を超える。そしてこの災害派遣は「災害派遣3要件」に照らし、妥当とされる場合に行われるのをご存知だろうか。公共性(公共の秩序を維持するため、人命又は財産を社会的に保護する必要性があること)、緊急性(差し迫った必要性があること)、非代替性(自衛隊の部隊が派遣される以外に他に適切な手段がないこと)がそれである。

また、要請されてこそ本格的な派遣が可能になる。自衛隊の災害派遣を要請できるのは、都道府県知事がよく知られていると思うが、海上保安庁長官、管区海上保安部長、空港事務所長にも権限がある。彼ら要請者が適確かつ瞬時に現状を把握し、要請を行うことによって自衛隊の早期派遣が可能となる。

なので、繰り返し言われていることだが、阪神大震災における出動の遅れは自衛隊のせいではなく、当時の兵庫県知事が自身のイデオロギーを理由に数時間にわたって派遣要請を出すことを拒んだためという批判がある(本人は否定している)。知事がどのような主義主張・政治観を持っていようが自由だが、第一に考えるべきは民の命を守ることであり、その時ばかりは妙なイデオロギーを捨てなければならないのである。

■猪瀬都知事と記録で食い違う要請の時間

今回の伊豆大島災害派遣はどうだったろうか。東京都知事が要請したのは防衛省の記録によると16日10時20分。その後2時間20分後には現地で捜索を開始している。しかし豪雨による土砂災害が起こったのは未明2時~3時頃だと推測されており、私の感覚では要請が遅い。こんなに遅いのは不思議だと思い、猪瀬知事のツイッターを見てみると16日12時47分に「今朝8時に自衛隊の災害派遣要請を行い…」とある。そして14時30分から都庁で行われた記者会見では「8時に災害派遣要請を決め…」と微妙に文言が変化している。8時という時刻は後付けなのでは、という疑念が浮かんでくる。

そもそも、防衛省の記録と2時間20分も差があるのが妙で、さらに東京都総務局の「平成25年台風26号に伴う被害状況等について」によると、自衛隊に要請したのは防衛省の記録と同じ10時20分となっているのである。うーん。都が出している記録だから間違いはないだろう。最近、徳州会グループからの資金提供5000万円問題も発覚し、旗色が悪い猪瀬知事、彼もまた小さき愚かな人間だったのか。

■災害が起きた時の「初動」体制

この都の記録によると救助活動開始が最も早かったのは警視庁特殊救助隊で、9時26分にはヘリが飛んでいる。警視庁の場合は自衛隊と違って自己決定(警視総監命令)できるので、要請を待つ必要がない。ここで思うのは、誰が見ても明らかな大規模災害に関して「知事等による」派遣要請が必要か、ということだ。

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厳密に言えば必要ない。自衛隊法第83条第2項の後段に「ただし、天災地変その他の災害に際し、その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるときは、同項の要請を待たないで、部隊等を派遣することができる。 」とあり、自主派遣が可能だ。今回がその対象とならなかったことはいささか残念だった(ただ、自主派遣の認識としては「偵察程度」もしくは「今そこにある絶体絶命の危機が見えている緊急事態の場合」のようだから、やはり本格的な派遣は要請が必要。平成7年の阪神大震災を境に見直され、警察消防と同等の権限を持つはずではあるが…)。初動対処部隊FAST-Forceくらいは派遣要請と同時に飛び立ってほしかった、という気はする。そして蓋を開けて見れば「まさかここまで」という被害で、20日には東日本大震災以来2度目となる陸海空統災部隊JTFが編成された。

うっかり猪瀬知事のツイートの時差を見つけてしまい、その流れから派遣時刻が気になり、重箱の隅をつつくような前置きになってしまった。大島町長の対応に関しては、さんざん言われていることであるから割愛したい。自治体側の対応で思うのは、知事なり町長なり、防災や危機管理の専門家でもないわけだから、災害発生時、またはその前には、防災担当の長が権限を持って指揮権を発揮できるようにすればいいのでは?ということ。そもそも知事や町長はほかにもやることがたくさんあってお忙しいのだから、初動をまかせるのは無理なのだと思う。

■「和子先生のピアノ」の鍵盤を外す島民

10月19日に現地入りした私は、町役場に行って小野寺防衛大臣のぶらさがり(会見)を撮影してから現場へ向かった。町役場から被災地区の元町3丁目は目と鼻の先。町役場の駐車場で持ってきたスパイク長靴に履き替えて、歩いて現場へ。しかし想像よりも足元はドロドロしていなかった。発災して4日目、土砂に含まれていた水分が地下に抜けたり蒸発したりして、思ったよりも固く、足が沈まない。これは掘るのも難儀だろう。

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家が全壊した住宅跡にはアップライトのピアノが残されていた。数人の島の住民がピアノに群がっていたので何だろう?と思って近寄ると、鍵盤を取り外し始めたのだった。「ピアノは持って行けないからねぇ…」などと言いながら。問うと「ピアノの和子先生」の物だという。役場の不明者名簿で清水和子さんとわかった。後の報道で、この直前に住民らがピアノを弾いていたことや、島に尽くし島の人や島に来る人を愛し、多くの人に慕われていた方だと知った。縁の人たちは瓦礫の中での小さな演奏会で故人に触れたのだろう。肉体は消えようとも記憶の中にある限りその人は生き続ける。自分では「人間死んだら終わり」といつも思っているが、正確には「バイオグラフィー」がそこで終わるだけで、遺された人々によるスピンオフがその先にある。

伊豆大島は南北に長い楕円形の火山島で、三原山といくつかの山が島のほぼ真ん中から南にあり、山の裾野に張り付くように建物がドーナツ状に建っている。島をぐるっと廻る大島一周道路が海岸からそう遠くない位置にベルト状に通り、これが幹線道路。町役場など主要な建物もこの道沿いだ。町役場のある元町地区がもっとも栄えているのだが、三原山の山頂から空港などと比べて比較的近い位置にある。栄えている場所は便利であるから、自然に人が住み着き、山の中腹にも家が少なくなかったのが頷ける。

■惨状が広がる現場でサルの死骸にも供え物

元町3丁目から山に向かって道路が延びているので、えっほえっほと上に(つまり東に)歩いていくと、やがて椿小学校にぶつかる。椿小学校沿いの道を南に歩くと土砂が氾濫した大金沢(おおがなさわ)があり、それに沿って再び東に歩いた。

すると目の前に広がっていたのは巨人が土砂と流木で泥遊びをして、巨大なお椀に詰め、それをひっくり返してそこ彼処に盛り付けたような惨状…といったらいいのだろうか。なぎ倒された温室、手のひらでバンと潰されたような家屋…とにかくしっちゃかめっちゃかだった。道なき道というより土石流が通った上をガシガシ歩いて行くと、キョンと台湾ザルの死骸が弔うように寝かされていた。サルにはお供え物まで。野生動物でさえ察知できなかった災害だったのだ。

中腹辺りに自衛隊がいて、円匙(エンピ。ショベルのこと)で地面を掘り始めた。静岡からの34連隊だ。小隊が一列になって捜索漏れのないように掘り進めて行く。やはりこれは人数がいないとできない仕事だ。出てきた人工物(服や小物、食器や雑誌に至るまで)は隊員らによって一ヵ所に堆積されていた。東日本大震災の時と同じ細やかな配慮だ。

※被害の状況は国土技術政策総合研究所砂防研究室「台風26号による伊豆大島災害調査結果」がわかりやすい。

■石巻に派遣された福島駐屯地第44普通科連隊も伊豆大島へ

手で捜索が終わったところは重機で瓦礫を撤去して現場ごとの一ヵ所に堆積し、後にトラックに積まれて島が指定した瓦礫置き場へ運ばれる。島の土木建設業の重機を使う場合もあるが、自衛隊は独自に重機やトラックなどの車両を島に運び入れた。海上自衛隊の輸送艦おおすみが横須賀で積んで大島沖まで運び、搭載艦のエアクッション揚陸艇LCACに積み替えて弘法浜に陸揚げ、もしくは航空自衛隊のC-1やC-130などの航空機で本土から大島空港に運んだのだ。これらは矢継ぎ早に行われ、時には夜を徹してのこともあった。

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このような自衛隊の立体的な運用は近年顕著である。陸海空統合幕僚監部が7年前に出来て、陸海空自衛隊を一元的に運用していく体制が強化された。それからいくつかの海外派遣(国際緊急援助隊やPKO)、東日本大震災など大規模な災害派遣を経て、統合運用に関する様々な教訓が蓄積されてきたはずで、時には試行錯誤しながら進化してきたのだ。

 

伊豆大島の災害派遣では、東京に司令部のある陸上自衛隊第1師団の隷下部隊が当たっていたが、元々首都防衛任務があり、ちょうどこの時期に3年に一度の観閲式(10月27日)が控えていたこともあって、人数が足りなかったのだろう。早々に東北方面隊第6師団の隷下部隊が投入されることになった。福島駐屯地の第44普通科連隊を中心におよそ500人。重機・車両も当然東北から陸路で部隊とともに前進し、1師団と同じように横須賀からおおすみ、入間からC-1などで運び込まれた。

44連隊は東日本大震災の際、被害のとくにひどかった場所のひとつ、石巻に派遣され、石巻から撤収命令が出た後は地元福島で原発周辺の捜索、除染作業も行った部隊だ。当時彼らが行方不明者の捜索を行った石巻市門脇地区周辺で、ご遺体を収容するのを幾度も見た。今回派遣された様子を見ていても、活動する姿に余裕があり頼もしく映った。やはり人の死に嫌というほど向き合った経験は伊達ではない。過酷な現実は人を鍛え強くする。対して1師団はそこまでご遺体に対面する機会はなかったはず。大島の現場で彼らから漂ってくる緊張感が不思議であったが、そう考えると合点がいくのだった。ある自衛官は「言ってみればプロと素人の違い」と表現した。

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考えてみると、同じ自衛隊でも災害派遣要請の多い自然が過酷な地域と、東京のようにたまに不発弾が出るくらいの地域では、経験値にずいぶんの差が出る。幹部は平均2年ほどで転勤があるが、実際に捜索や救助に多くあたる曹士は、基本的に入った部隊の周辺で定年まで勤める。経験を積ませるために交換留学生ならぬ出向隊員制度でもあればいいとは思うが、そのための予算など課題は多いだろう。

■大部隊の洗濯物はヘリで輸送

こうして大島には1000人以上の自衛隊が活動していたわけだが、ほかに警察消防が数百人。まず一般の人が考えるのが、これだけの人数がどこで寝泊りしているのか、食事はどうしているのか、ということ。

東日本大震災では自衛隊の場合、10万人規模の派遣であったから、演習場や運動公園などで天幕を張ったり、被災県にある駐屯地に宿泊したり(外来宿舎もあるが足りないため天幕を多く使う)、役所の対策本部のような場所で床に毛布を敷いて寝袋で寝たりと、フレキシブルにやっていた。後方支援部隊もあり、衣食住を自前でまかなえる組織になっている。これを「自己完結」できる、という。

食事は当初は缶メシと呼ばれる文字通り缶入りの、おかずやごはん。またはパックメシと呼ばれる戦闘用糧食でレトルトパックになっているもの。巷ではミリメシとしてブームになっていたからご存知の方も多いだろう。そして後方支援の部隊が炊事車を携えて前進して来たなら、食材を調達しての温メシと呼ばれる自炊が始まるのである。

大島の場合は短期の災害派遣が見えていたので、また、小さな島ということもあり、体育館や公民館など公共の施設になんとか宿泊したそうだ。食事は最初はパックメシ、数日で自炊が運動公園で始まった。洗濯は洗濯車というのもあるにはあるが、大部隊なのでまかないきれない。チヌーク(CH-47J輸送ヘリ)で練馬駐屯地まで運び、通称・洗濯工場で洗濯していたという(スケールの大きい洗濯である)。風呂は島内の温泉施設が救援部隊のために貸切となっていたが、11月に入ると野外入浴セットを設営した。これは温泉施設の営業が始まるからだった。

■難しい災害派遣の「引き際」

 

11月1日は発災から2週間を過ぎており、島民側の、そろそろ普通の生活に戻りたい、という意思表示だったのかもしれない。隊員からも「被災地域はほとんど更地になって掘るところがもうない」という声が聞こえた。私が島を後にしたのは10月24日だったので実際には見ていないが、大雑把に言って1000人(自衛隊)と数百人(警察消防)で被災地域を2週間掘り続けたら、きっとそうなるだろうと想像できる。海上でもご遺体が見つかっており、流されてしまった可能性もある。自衛隊災害派遣3要件である「公共性・緊急性・非代替性」はすでに失われていた。公共性はともかく、緊急性と非代替性はない。それでも引き際はやはり難しく、東北からの増強部隊は11月6日に、最後の部隊は11月8日に撤収した。

言うまでもないことだが、自衛隊の第一の任務は国防であって、そのための訓練を日々計画的に行っている。領空や領海を監視する実任務もある。災害派遣が入れば訓練計画を延期したり変更したりする必要があり、予定が狂う。実任務であれば派遣された隊員の代わりに誰かが肩代わりするのである。もちろん災害派遣は大事な仕事の一つであるから大いにやっていただきたいのだが、3要件が失われた後も、要請した側がいつまでも撤収を言い出さないのは困るのである。

■プロフィール 

嘉納愛夏(かのう・あいか) 

1970年生まれ。神戸芸術工科大学卒業。写真週刊誌の専属カメラマンを経て、2004年からフリーになって以来、ジャカルタ暴動やパレスチナ、ジャワ中部地震など戦場や被災地の過酷な第一線に身を投じてきた。写真集に「中東の戦場スナップ」(アルゴノート刊)。