「日本で民主主義、そして自由と責任を学んだ」 映画「異国に生きる」の主人公・在日ミャンマー難民が語る祖国への思い

東京に暮らしているミャンマー人の民主活動家チョウチョウソーさんは「早く祖国に戻って国のために役立ちたい」と話す。昨年から上映されているドキュメンタリー映画「異国に生きる」の主人公だ。
Wataru Nakano

ミャンマー(ビルマ)は、2011年に軍事政権から民政に移管し、高度経済成長が見込まれている。その一方で、軍政からの弾圧を逃れて来日したものの、今でも帰国できないミャンマー難民らは少なくない。2013年から上映されているドキュメンタリー映画「異国に生きる 日本の中のビルマ人」の主人公で、東京に暮らしている民主活動家チョウチョウソーさん(50)は「早く戻って国のために役立ちたい」と祖国への思いを話す。

「日本で民主主義、そして自由とそれに伴う責任の大切さを学んだ。この経験と力を祖国の発展に役立てたい。50歳のいまが一番いい」。チョウチョウソー(チョウ)さんはそう語る。

1988年、ミャンマー全土で独裁政権を批判する市民が立ち上がった。ラングーン(現ヤンゴン)では約20万人がデモに参加。広がるデモに軍は発砲し、数千人が殺害されたとされる。軍政による弾圧はその後も続き、危険を感じた多くの人々が、海外に亡命した。

チョウさんもその一人。「軍に捕まえられる直前に逃げた。みんな逃げたけれど、いまでも一人はどこにいったかわからない。殺されたかもしれない」。1991年に来日し、生きるためにレストランで働きながら、祖国で封じられた民主化運動を続けてきた。

1999年に呼び寄せた妻ヌエヌエチョウさん(44)とともにミャンマー料理店を開き、ラジオのミャンマー語アナウンサーや翻訳業で生計を立ててきた。難民として認定を受けるまでは、いつ強制送還されるか不安だった。現在は、1万人近いとされる在住ミャンマー人の約1割が住み、ミャンマー料理店や雑貨店が点在し「リトル・ヤンゴン」とも呼ばれる東京・高田馬場で、レストラン「ルビー」を経営している。しかし、今でも「日本は自分の居場所ではない」と感じることがある。

最大野党・国民民主連盟(NLD)党首のアウンサンスーチー氏が2012年の国会補欠選挙で下院議員に当選して国政参加するなどミャンマーの民主化が進み、日本から祖国へ戻ることを希望する人たちも増えている。しかし、課題は少なくない。

民主化が本物かどうかの見極めがつかないことに加え、帰国するには過去にさかのぼって年12万円の「税金」を払え、と在日ミャンマー大使館が要求していることもある。また、日本に生まれて日本の学校に通う子どもたちがミャンマー語を話せないため、帰国を踏みとどまっているケースも少なくないという。

さらに、反政府活動をした難民には旅券を発給しない場合も多い。チョウさんも、祖国の民主化の様子を確かめようと、昨年7月に旅券を申請した。しかし、現在まで入国の許可が下りていないという。祖国に戻るという願いはかなわないままだ。

しかし、国の民主化については前向きにとらえている。「あかりは見えた。そのあかりが消えないように大切に守らないといけない」。祖国では、人々が以前に比べて意見を自由に述べることができるようになっている。ネット利用者も増え、フェイスブックなどのソーシャルメディアでの意見交換も活発になってきた。チョウさんは、昨年4月から月に数回、母国の新聞に寄稿をするようになった。

スーチー氏が、2013年4月に27年ぶりに来日した際には本人と面会した。「大きなパワーを感じた」と話す。スーチー氏が議員に当選した当初は、物足りなさに不満を抱く国民も少なくなかったが、「(スーチー氏は)徐々に政府にものを言うようになっている。だけど、自分の力だけでなく、もっと周りの人たちと協力して民主化を進めてほしい」と期待を込める。

民主活動をしている人たちはいま、スーチー氏の大統領就任を阻んでいる現憲法の改正を特に求めている。それ以外にも、資源開発をめぐる対立や、民族衝突などが問題となっている。「民主主義に向けて、政府だけでなくみんなで取り組まないといけない」と話す。

東日本大震災の後には、在日ミャンマー難民らでバスを貸し切り、数十人で数回にわたって被災地にボランティアに出かけた。泥をかき出したり、炊き出しをしたり。映画「異国に生きる」の中でも印象的な場面となっている。「困っている人を助けるのは普通のこと。お金を送るのは簡単だけど、被災地まで行って被災者を直接支えるのが一番いい。それが人間関係だ」と話す。

映画「異国に生きる」(土井敏邦監督)の配給元は浦安ドキュメンタリーオフィス。現在も、断続的に各地で自主上映されている。

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