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ビキニ環礁の水爆実験から60年 今も戻れない住民

2014年02月25日 01時25分 JST | 更新 2014年02月26日 02時58分 JST
Keystone-France via Getty Images
UNITED STATES - JULY 24: On July 24, 1946, The American Army Dropped The 5Th Atomic Bomb Above Bikini Atoll In The Pacific Ocea, Off The Coast Of The Marshall Islands. The Row Of Ships In The Background Was Used To Test Radioactive Fallout. (Photo by Keystone-France/Gamma-Keystone via Getty Images)

核の傷痕、戻れぬビキニ 水爆実験から60年

東京から南東方向へ約4千キロ。太平洋のほぼ真ん中、見渡す限り真っ青な海が広がる眼下に、ビキニ環礁が姿を現した。

サンゴが隆起しててできた23の島が首飾りのように連なる。島々はヤシの木々の緑に覆われている。

その環礁の北西角に、ぽっかりと開いたくぼみが見えた。周りの明るい色と違い、海の青さは濃く深い。

通称「ブラボー・クレーター」。1954年3月1日、米国の水爆「ブラボー」の実験でできた。直径約2キロ、深さ約80メートル。海底にはすり鉢のように筋状の模様があり、中心に向かって深くなる。常夏の海に刻まれた「核の傷痕」だ。

広島原爆の1千倍の威力といわれたこの爆発で、周囲にあった三つの島が吹き飛び、放射性物質が広範囲にまき散らされた。事前に避難しなかった危険区域外の環礁の住民や、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」など周辺で操業中だった船舶が「死の灰」を浴びた。

ビキニ環礁の地方政府によると、核実験前まで住んでいた167人の島民が移住を強いられた。その後、米国とともに88年から着手した除染と再定住計画は、資金面などから宙に浮いたままだ。

国際原子力機関(IAEA)は98年、ビキニの当時の放射線状況と再定住に向けた最終報告書をまとめ、こう結論づけた。「食料を地元にすべて依存するのを前提とすれば、永続的な再定住は勧められない。再定住を可能にするには何らかの改善措置が必要だ」

核実験から60年たった今、ビキニには施設の維持管理などに当たる作業員5人ほどが暮らすだけだ。

除染、そして再定住。ビキニが映し出す現実には、福島が直面する課題が重なって見える。(中崎太郎)

     ◇

〈ビキニの核実験〉 ビキニ環礁が属するマーシャル諸島は日本の敗戦後、米国の信託統治領になった。広島、長崎への原爆投下の翌1946年、米国は住民を強制移住させた上で原水爆実験を開始。ソ連との核開発競争の中で58年まで計23回実施した。中でも54年3月1日の水爆実験は最大規模とされ、大気の放射能汚染は地球規模に及んだ。第五福竜丸の被害は広島・長崎に続く「3度目の核惨事」として衝撃を与え、日本の反核運動のきっかけになった。被爆国・日本が「原子力の平和利用」に踏み出す時期とも重なった。

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(朝日新聞社提供) 


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