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波乱の人生で見つけた「大切なもの」福知山線脱線事故から10年へ、生存者が手記募る

2014年04月28日 21時42分 JST
Taichiro Yoshino/時事通信社

2005年に乗客ら107人が死亡、562人が重軽傷を負ったJR福知山線脱線事故から9年がたった。2015年4月25日には10年を迎える。あの出来事は、関わった人たちの人生、そして人生観をどう変えたのだろう。事故から生き残った負傷者らは、10年の節目に向けて原点を見つめ直そうと、手記を集め、シンポジウムを開催する。

中心になるのは、兵庫県多可町のイラストレーター、小椋聡(おぐら・さとし)さん。自身も波瀾万丈の9年だった。

2005年の4月25日、当時住んでいた兵庫県西宮市の自宅から、勤めていた大阪の出版社に向かうため、最寄りだった生瀬駅から乗り込んだ。事故の瞬間を、次のように振り返っている。

もの凄い衝撃で、私を含む座っている乗客が飛ばされて行きました。そのときは、マンションにぶつかった事など想像もしていませんでしたが、車体が何かに蹴つまづいたような印象を受けました。1秒ほどの記憶でしょうが、空中を飛ばされている記憶があり、自分の下にも同じように飛ばされている人がいたのを覚えています。まるでプラスチックの卵パックを手で握りつぶす様に、飛ばされている空間が一気にメチャクチャに壊れていきました。

(中略)

足が挟まった状態で回りを確認すると、私の回りの殆どの方が血まみれになっていました。私の左足の下にも血だらけの人が横たわっていました。

(2005年6月18日の小椋聡さんの手記より)

自力ではい出て、奇跡的に右足骨折で助かったものの、最も死者の多かった2両目から生還したことで、遺族の心情を他人事とは思えなくなった。自分が生き延びたのはまったくの偶然。悲嘆にくれる遺族は、ひょっとしたら自分の妻だったかもしれない。

「せめて最期にどこにいたのか知りたい」という遺族の願いを受け、事故直後から、犠牲者が何両目のどの位置にいたのかを同乗者から聞き取る活動を続けた。「会議室ではなくアットホームな雰囲気で話そう」と、活動の中心になった遺族を連日自宅に招き、集まって相談した。

乗車位置の調査で死傷者128人の位置がわかり、2007年2月には国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(当時)の意見聴取会にも呼ばれて「サバイバルファクター」(生死を分けた要素)の調査を充実させるよう訴え、同年6月の最終報告書にも反映された。

意義ある活動だったが、ともに遺族の悲しみを受け止め続けた妻・朋子さんはその直後に体調を崩した。うつ病と診断され、2カ月入院したが、退院後も症状は思うように改善しなかった。

妻がいつ自殺するかもしれないと気が気でなかった日々。それでなくても事故後、体調がすぐれず、仕事に身が入らなくなっていた。

大切なこととは何なのか。会社をやめて自宅でデザイン事務所を立ち上げた。

収入は安定しないものの、仕事を通じて、自身のライフワークでもある動物の殺処分を減らすための啓蒙活動にも取り組む日々だ。

小椋さんは事故2年後の2007年4月にも、負傷者とその家族に呼びかけて、29人の手記集「JR福知山線脱線事故 2005年4月25日の記憶」(神戸新聞総合出版センター)にまとめた。今回は当事者だけでなく、救助に携わった人や取材で関わった報道関係者らからも原稿を募ろうと準備を進めている。

「きっとそれぞれ、いろんな波瀾万丈の歩みがあった」。まだ事故の傷が癒えず苦闘を続ける重傷者もいる。親交のあった遺族、負傷者には自殺した人もいた。年間3万人に達する自殺者も、きっと抱えきれない苦悩があったのだろう。「ここまで歩いてきたんだという歩みを見せることで、生きてみようというメッセージを伝えたい」と考えている。

「私たちの10年、そしてこれから〜JR福知山線脱線事故から10年」と題する予定の手記を出し、2015年4月にはシンポジウムも兵庫県三田市で開催する予定だ。

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