マギーズ東京プロジェクトの鈴木美穂さんに聞く「突破力のあるチームの作りかた」(全文)

ハフポスト主催のイベント「未来のつくりかた」が1月28日、開催された。基調講演では、マギーズ東京プロジェクトの共同代表・鈴木美穂さんが「突破力のあるチームのつくりかた」をテーマに講演した。その様子を、全文でレポートする。
The Huffington Post

ハフポスト主催のイベント「未来のつくりかた」が1月28日、開催された。「働きかた」の基調講演では、マギーズ東京プロジェクトの共同代表・鈴木美穂さん(写真)が「突破力のあるチームのつくりかた」をテーマに講演した。

鈴木さんは、24歳でがんを経験した原体験から、マギーズセンターを東京に作るまでのプロジェクトをはじめる経緯や、それぞれ専門分野を持つ運営メンバーのチーム力について熱く語った。その様子を、以下に全文と動画でレポートする。

■24歳で乳がんを経験、「目の前が真っ暗に」

きっかけは、私が24歳のときのことでした。まだ若いですね。胸にしこりを見つけた病院で乳がんを宣告されました。

これは宣告された後に初めて検査を受けたときの動画です。胸に大きながんが2つ。合わせて5センチのがんが見つかりました。

私の家族は誰一人がんと向き合ったことがなく、全く免疫がなかったので、家族で大パニック。私も宣告されて画像を見たときは「あと数カ月(の余命)しかないんじゃないかな」と思いました。このとき、本当に「目の前が真っ暗」って、こういうことをいうんだなと思いました。

このときまでは、結構順風満帆な人生で、すごく楽しく仕事もプライベートも充実していたときに、突然告知をされて。「普通の女の子として生きていくことが許されないんじゃないか」「結婚や出産も、いつかしたい世界一周も出来ないまま、このまま死んでしまうじゃないか」と不安に思った2008年5月のことでした。

手術室に向かうときも「もう麻酔で目覚めることができないんじゃないか」と思って、怖くて仕方がありませんでした。付き添ってくれた家族とも永遠の別れのような気がして、完全に死ぬ覚悟を決めて、手術室に向かっていったのを覚えています。

■闘病より辛いのは、先の将来が全く想像できなかったこと

こうしてはじまった私の闘病ですが、この手術の後、抗癌剤治療、放射線治療、ホルモン治療、分子標的薬と、標準治療のフルコースを受けることになりました。そうした日々のなかで治療よりも、もっと辛かったのは、その先の将来が全く想像できなくなってしまったことでした。

「どうして自分だけ(がんに)」と思うと、お見舞いに来てくれる元気な友人だったり、テレビで笑っている人を見たりするのも辛くなって。眠ったら本当にこのまま死んで起きられないんじゃないかと思って、不安で不安で仕方なくて。いつしか眠れなくなって、うつ状態で闘病していました。

「がん=死」というイメージに悩まされて、死ぬと天国に行く夢ばっかり見るという日々を繰り返していました。天国にそのまま行っちゃいたいと思うくらい闘病が辛くなって、死んでもいいとさえも思ったほどです。こんなに今生きているのが大好きなのに、その前まですごく幸せに生きていたのに。闘病中、本当に死んでもいいと思うほど辛いと感じていた時期がありました。

天国に行く夢を見て起きると、髪の毛も全部なくて。抗癌剤の副作用で、ものすごく体全体がだるくて吐き気もするんですね。「こんな状態がいつまで続くんだろう、いつまでも終わらないんじゃないか」と思う日々もありました。

■がん経験者と出会い、若年性がん患者のためのフリーペーパー発行

数カ月、そんな時期を過ごしていたある日、看護師さんの紹介で、ある女性に出会ったんですね。その女性は、マンションの一室でサロンを開いていました。その方は、乳がんを9年前に経験されていて、自分が経験して欲しかったものを、サロンで闘病する患者さんに提供していたんです。サロンには、いろんな可愛いカツラや帽子が、セレクトショップのように並んでいました

その方に会ったときに、私も「9年後、こうやって生きている可能性もあるかもしれない」と初めて実感として思うことができました。「もし元気になれたら、この女性のように、私も自分の経験を活かして、同じように闘病して辛い思いをしている人たちの希望になれるようになりたいな」と、そのときすごく強く思って。それが私の心が回復していくきっかけになりました。

そうして作ったものが『STAND UP!!』というフリーペーパーです。これは、闘病中に一番辛かった「がんになった後に生きていることが全く想像できない」ということを解消したくて。当時はSNSのmixi上で、35歳以下で若くしてがんになった闘病している仲間たちを探して全国を訪ねて、実名・顔出しで、がんになった経験を書いてもらいました。

闘病を告知されても、フリーペーパーを見たら、死ぬことを思い浮かべない。体験談を集めて「がんになった後、どう生きていくか」ということだけを書いてもらったフリーペーパーを作って、全国のがん拠点病院に電話をして、3万部刷って置いてもらいました。最初の1号は、本当に手探りで作って大変だったんですけど、すごく反響がありました。今は、若くしてがんになった人たちが300人以上いる団体に育っています。

■8カ月後、仕事に復帰 国際会議で知った「おめでとう」の文化

実は、フリーペーパーの1号は休職中にやっていたんですが、8カ月間の休職を経て復職しました。政治、教育、文部科学省、震災とか、そういう記者をやってきて、2014年の6月に、念願だった医療の取材ができる厚生労働省の担当になりました。がんのことを解説したりとか、そういうことを本業でもできるようになりました。

2013年3月、300人以上が活動している団体「STAND UP!!」の発起人として、「IEEPO」(International Experience Exchange for Patient Organizations)という、患者支援団体の代表者らが世界から集まる国際交流会議に呼んでいただきました。そこである衝撃なことがありました。

ここに来る人たちは医療者が多いんですが、「私はジャーナリストだ」というと、みんなが「どうして患者支援なんてしているの?」と聞いてくるんですね。そこで「私自身がブレスト・キャンサー・サバイバー(乳がんの経験者)だからです」というと、みんな「コングラチュレーションズ!(おめでとう)」といってくれたんです。

日本では、がんになったというと、「かわいそうに」とか「今大丈夫なの?」とか、そういう反応が普通なんですが、ここでは「コングラチュレーションズ!」といってハグされることが多くて。それがすごく温かくて、救われる思いがしました。なぜ「おめでとう」なのかというと、「がんになったことは大変だったかもしれないけれど、大変な思いを乗り越えて、今そこにある命が素晴らしい」と。そんな思いで抱きしめてくれるんですね。

実は欧米では「コングラチュレーションズ」という文化が広まっていて、一般の人でも、がんをカミングアウトしたときに、そういってもらえる文化になりつつあると聞きました。そのときに、私もこういう文化を(日本に)作っていきたいなと思ったんです。

私の問題意識として「がんになった人がなかなか言い出しづらい社会であるほど、自分ががんになったときに、その後のロールモデルが見つからない」と思っていて。だから、がんになった後は死しかないんじゃないか、という「がん=死」のイメージを変えていくには、こういう文化を広めていくことがいいんじゃないかと思いました。

■がん患者の場所を提供する団体「Cue!」をスタート

そう思って帰国して、「Cue!」というプロジェクト団体を立ち上げました。私はテレビ局で働いているので、Q出しする、背中の後押しをするという意味のQにかけて、「Congratulations on your Unique Experience(あなたの特別な経験に、おめでとう)」というのを略した「Cue!」。がん患者さんが閉じこもっているだけでなくて、ヨガやウォーキング、書道だったり、病院以外に行ける場所を提供する団体です。

私も仕事があるので、(活動は)月に1、2回ほど。場所がないので、お寺を借りたり、ヨガのスタジオにがん患者さんのクラスを作ってもらったりして、本当に手作りで1年間やってきました。

前回の国際会議で、患者だけでやるのではなく理解の輪を広げなくてはと思ったので、「Cue!」をやるときは友人に声をかけました。実は私も会議に行くまでは、自分ががんになったことを、こんなふうに公にいわなかったですし、Facebookにも全く公表していなかったんですけど、「コングラッチュレーションズ」を聞いて。そして「あなた自身がカミングアウトしなかったら、全く社会は変わらないよ」ということを海外の人たちにいわれたんですね。

声をかけた友人には、もちろん私の闘病中にお見舞いに来てくれた友たちもいるし、そうじゃない、がんになって数年経ってから出会った友だちもいるんですけど、それぞれ「一緒にこのワークショップをやってもらいたい」と声をかけました。

ひとりは(大学時代の)インターンで出会って、センスが良いとずっと思っていて「いつか一緒に仕事ができたらいいな」と思っていた(コピーライターの)友人です。彼女に突然「実はこういうことをやりたくて」といってネーミングを考えてもらいました。他にも、私は学生時代にママチャリとヒッチハイクで3カ月かけて日本縦断をしたんですが、そのときの相棒が書道家になっていて、彼女に書道のワークショップをやってもらっています。

そういうふうに、本当に自分のまわりの友だちで「コピーを考えてもらいたい」と思ったら、それで(顔が)浮かぶ子に。「ワークショップをやってもらいたい」と思ったら、それで浮かぶ子に、声をかけていきました。

■がん患者と支える人たちの場所、「マギーズセンター」との出会い

そして2014年、また国際会議に行かせていただいたんですね。2年連続でこの会議に行くことになっていたので3月に行って。そのときに出会ったのが「マギーズセンター」です。実はマギーズセンターは1996年からあって、私ががんになったときには、もうイギリスで始まっていたんですね。私はがん患者さんを支援する活動をずっとやってきたのに、なぜかそのときまで知りませんでした。

このときは「Cue!」の活動をやってきて、ニーズがあるので、そろそろ月に1、2回じゃなくて、ちゃんと常設の場所を作りたいと思っていたときだったんですね。お金がないから、自分でローンを組んで家を買って、1階を改築してやろうかなと本気で思って、親と一緒に一軒家を回っていたこともあった時期だったんですね。国際会議で、そういう話をしたら「いやいや、イギリスのマギーズセンター見に行ってきなよ」といろんな人にいわれて、そこで初めて知ったんです。

マギーズセンター(画像集)というのは、がん患者さんと支える人たちが、戸惑ったりとか辛かったりしたときに、いつでも予約なく誰でも訪れることができる場所で、医療者が本当に友だちのように何でも聞いてくれて、くつろげる場所です。

特別なスキルを持っている専門職の医療者だけじゃなくて、相談の傍らで、ワークショップやヨガなどをやっていて、家と病院の間にあって、病院で聞けないことも相談できます。例えば「セカンドオピニオンに行きたいけれど、いいだせない」とか、そういう患者さんの声を聞いて、一緒に病院にまで行ってくれたりするような施設です。

「まさにこれが、私のやりたかったことだ」と出会ったときに思いました。イギリスでは、運営費を全部寄付でまかなっていて、患者さんは一切お金を払わないんですね。これが日本で出来たら、きっとここを拠点に社会が変わっていくに違いない。「これを絶対に東京につくりたい」と思って、2014年の3月に帰国しました。

■訪問看護師の秋山正子さんを突然訪問「一緒にやりましょう」

日本に帰国して、マギーズセンターを日本語で検索してみると、いつもいつも、秋山正子さんという名前が出てきたんですね。その方は、訪問看護師さんで、マギーズセンターを日本に持ってこようと、5年くらい前からシンポジウムや著書で発信されていました。

その方が「暮らしの保健室」という、地域の保健室をやっていることを知って、直接そこに電話をして、「秋山正子さんに会いたいんですけど」とアポをとって、翌月に会いに行きました。

秋山正子という方は、訪問看護師の世界では知らない人はいない“日本のマザー・テレサ”と呼ばれているような方らしいんですが、そんな事も考えずに突然訪ねて、「5年前からマギーズセンターを作りたいとおっしゃっているみたいですけれども、なぜまだできてないんですか?」みたいな感じで、いきなり尋ねて。「もし作っているんだったら一緒にやりたいし、まだだったらこれから一緒にやりましょう」と会った日に伝えました(笑)。

最初はすごく戸惑っていて「不審者が来たんじゃないか」みたいな感じだった秋山さんも、一緒に話をしているうちに「ぜひ」と。秋山さんは、医療者側は、今までの自分のチームもあるけれど、ワークショップや患者側の立場が欠けていて、それが(今までマギーズセンターが日本に)できなかった理由のひとつかも知れないといってくれて。「力を合わせてやってみましょう」という話になりました。

■マギーズ東京、クラウドファンディングで2200万円の寄付金

こうして私は「Cue!」のときに声をかけていたメンバーに、秋山さんはマギーズセンターを視察に行ったときのメンバーに声をかけて、「マギーズ東京」を作るプロジェクトが2014年5月に立ち上がりました。そして9月から、資金がないので、クラウドファンディングで寄付を募ったところ、サイトとFacebookページのシェアだけでしたが、なんと2カ月で、(建築費の)700万円が目標のところ、1100人の方から2200万円ものご支援をいただくことができました。

これが今日呼んでいただいた理由だと思うんですけれど、ご支援をいただいて、今年に実は「マギーズ東京」に着工できることになったんですね。ちょっと戻りますが、声をかけた「Cue!」のメンバーにプラスして、マギーズセンターは建築が素晴らしいので、建築がわかる友だちを入れたいと思ったんです。そこで友人にURLを送って「私はこれを東京に作りたいんだけど」と声をかけたんですね。

そうしたら彼女がなんと「東京オリンピックまでに、心と体のバリアフリーというようなテーマで何かできないか、と検討されている会社さんがあるよ」と教えてくれて。彼女の尽力で提案が通り、あっという間に5月中に土地の内定をいただきました。

内定をいただいた土地は、本当に破格の待遇で、私たちにも手が出せるようなかたちで2020年の東京オリンピック・パラリンピックまで使わせてもらえるとことになりました。そうしてあっという間に、立ち上げた5月には一応土地が決まって、クラウドファンディングを経て、手が届きそうなところまで今来ています。

■突破力は友だち、「情熱を持って、原体験をもとに、その人に伝える」

このプロジェクトをやっていくなかで、何が突破力になっているんだろうと考えたときに、まずはがんのことを理解してもらって「マギーズセンターのような場所が必要なんだ」と伝えるようにしてきました。がんは2人に1人がなる病気で、しかも1年間に88万人が診断されています。実は、がん完治したとみなされる人の5年生存率は60%にも上っているんですが、やっぱり「がんになったら死ぬ」という社会のイメージがあります。

実は「がんと診断されてから1年間の自殺率が、一般のおよそ23倍にもなる」というデータが2014年、国立がん研究センター等の研究でわかりました。こういうデータで「がんになったときのショックは、これだけ大きい」ということや、「社会的な壁があるんだ」ということは常に伝えるようにしてきました。

でもそれだけじゃなくて、何が突破力かっていうと、実はまわりの友だちです。ともに活動してくれているメンバーは、みんなこのプロジェクトで出会っているんですね。「こういうことをやりたいな」と思ったときに、「あなたのこういうスキルを提供してもらいたいから、一緒に協力してもらえない?」って。本当にただただ話をするというのを、実は「STAND UP!!」を作るときから、「Cue!」のときも今も、全く単純な同じことをくり返して今があります。

■何より大事なのは「楽しむこと」「一緒にみんなで夢を描けること」

全然何のテクニックもなく、ただ情熱を持って、自分の原体験をもとに、その人を説得するつもりでいるので、落ちるまで話すというか(笑)。だけど強制はしない、押しつけないということは、すごく大切にしています。そういうことをしてきて、今のチームがあります。何より大事なのは、やっぱりみんなが楽しんでいることです。大変なときもありますが、みんなが楽しんでくれていたらいいなと思っています。

全員本業を持っているんですが、それぞれ本業のスキルを活かして建物が建ったり、クラウドファンディングのときの商品を開発してもらったり、ネットの戦略を考えてもらったりとか。それぞれ自分の力が社会のために役に立つ、そして一緒にみんなで夢を描ける、夢に向かって歩めるプロジェクトになっているのが、巻き込むことにつながっているのかなと思います。

■一本釣りしながら、1人ひとりと一緒にやることでプロジェクトは育つ

秋山正子さんとの出会いが大きなきっかけとなって、このプロジェクトは始まりました。私は“一本釣りの美穂”と呼ばれていて、秋山さんも“一本釣りの正子さん”だったんですね。すべてプロジェクトに巻き込まれる人は、こういうところで話しかけてきてくれて……そうしたら終わりです。完全に巻き込まれると思って下さい(笑)。

本当にそんな感じで、興味を持ってくれて、何のスキルがあってもなくても、できることって絶対あって。関心を持って下さった方と、1人ひとり丁寧に一緒にやっていくことで、プロジェクトは育っていくのかなと思います。クラウドファンディングも、何でこんなに寄付金が集まったのかって私も驚きました。

最初に「(当初の目標の)700万円を集めるのも結構厳しいんじゃないか」というふうに、クラウドファンディングのサイトの「READYFOR?」の方にもいわれたんですね。このとき実は、最後の3週間くらいは、私は本業以外の予定を一切入れずに、毎日毎日ブログでマギーズ東京への想いを書いたり、本当に協力して下さりそうな方1人ひとりにメールを送ったりとか。本業以外の時間を全て捧げていました。

■プロジェクトに巻き込む以上、一番コミットする「覚悟」は大切

プロジェクトをやるうえで、私がもうひとつすごく大切にしていることは、やっぱり「覚悟」かなと思っていて。自分が巻き込んでしまっている以上、どんなに仕事が忙しかったとしても一番コミットしているのは私じゃないといけないと思っています。

もしみんなが何かの事情があって離れてしまっても「私は絶対、最後までやるぞ」と思ったからこそ始めているというのがあります。それがなくなると、やっぱり巻き込むことだってできないし、突破も出来ないんじゃないかなと思って。それは常に、仕事が忙しすぎて倒れそうで挫けそうなときも、そう思って始めたじゃないかというのは常に思っています。

■辛いがん経験、突破力のあるチームを作る原体験に

すごく原稿を書いたのに、何も見ないまま(笑)。最後になってしまいましたが、こんなふうに私は偉そうに今お話していますけれども、このプロジェクトは、全くまだ実現していなくて、マギーズ東京をこれから建てて運営していくためには、まだまだご協力いただかないと成立しません。

一緒に夢に向かって歩んでいただく方も大募集していますし、NPO法人の申請をしたところなので、会員様も募集しています。単発のご寄付だったり、Facebookでこういうプロジェクトがあることをシェアしていただいたり、見守っていただくだけでも。押しつけるつもりはありません。でも、できることをお手伝いいただけたらうれしいです。

生きていると、本当に思いがけない困難や壁にぶち当たることが、誰でもあると思います。そのときに悲しみに打ちひしがれる日々があっても良いと、私は思っています。私も半年くらいは、本当に暗闇から抜けずにうつ状態で、毎日泣いていたような時期がありました。

でも、そういう日々って決して無駄ではなくて。自分が悲しんだことはきっと原体験になって、その後の人生の大きな糧になると今では思っています。そして実は、大きな挫折だったり苦しみだったりピンチっていうのは、突破力のあるチームを作る、課題や原体験が潜んでいるのかもしれないなと思います。

本当に今日は、まだまだ始まったばかりのプロジェクトで何も達成していないのに、突破力のあるチームのつくりかたなんて偉そうに、本当に失礼しました。でも私は本当にこのチームに自信を持っていて、本当にみんなが大好きで。その大好きな仲間に囲まれて一緒に夢を目指せている今は、それだけで本当に幸せです。

今のプロジェクトやチームで、友だち同士が繋がったりするすべてのきっかけが、がんになったことで、辛かった経験から使命のようなものを見つけて、今こうやって生きているということ。それだけで私は本当に幸せです。二度と嫌ですけれども、恐れずにいうと、がんになった辛い経験に、今ではすごく感謝しています。

そして、今日こうして皆様の前でお話できたこと。また、こうしてたくさんの方々と出会えたことにも感謝しています。ものすごく拙い講演で申し訳ありませんでしたが、ご静聴ありがとうございました。

【質疑応答】

■復帰後の働きかたについて

質問:がんを経験されたわけですけれど、治療の後、元の全く同じ働きかたに戻ることに対して、自分の中で迷いは? 記者というのは大変なお仕事だと思うんですが、それに挑もうと思ったのはなぜでしょうか。

私は入社3年目でがんになりましたが、テレビニュースの現場で働きたいというのは、小学校5年生のときからの夢でした。やっと、というところで、がんになってしまったので。休職中も、実は闘病している病院の窓から会社が見えたんですけど、それを見ながら「絶対早くあそこに復帰したい」と思ってました。

元気じゃないときはうつ状態ですけど、ちょっと元気が出ると、会社を見ながら「早くあそこに復帰したい」と毎日思っていて、働くことが「元気になりたい」と思う大きな部分を占めていたんですね。復職するときも「バックオフィスに異動することもできるよ」といわれましたが、「絶対、私は現場に戻りたい」といって、最初から現場に戻らせていただきました。

最初はきつかったときもあったんですけど、会社にも理解してもらって、ちょっとずつ短時間労働から増やしていって、泊まり勤務もするようになって。体力的に辛かったときもありますけど、がんになったからこそ、それまではわかろうとしていなかったことを伝えたいと思いました。それまでは、本当に弱っている人の気持ちがわかっていなかったのかもしれないなと。

今はそれがどういう状態か私の中でわかって、より寄り添ったものだったりとか、前よりもためになる放送ができるようになったと私は思っています。ちょっと体力的に他の人より劣ることがあったとしても、私は私なりに絶対にやると思って、現場にまた戻って仕事をしたいと思って、復帰しました。

■がん経験者の仕事復帰について

質問:その一方で、新聞などによると、がんを経験した方で元通り復職できる人と、なかなか難しい人がいるそうです。これはどういったところに問題があるとお考えですか?

私も、今まで多分1000人くらいがんになった人に会って、相談にも乗ってきましたが、やっぱりまわりの理解が足りないということだったり、がんになって無理だと思って、先走って(会社を)辞めちゃう方が多かったりとか。自分ではできないと思っちゃうことと、周りにできないと思われてしまうこと、その両方があると思います。

だけど、がんになった患者さんは、決してみんなが同じわけじゃなくて。その人その人で全然違うわけです。私なんかは宣告されたときは、本当に絶望的で、5年後あるのかな、みたいな状態だったんですけど、今は7年目。どこも異常なく、周りの誰よりも働いている自信があります(笑)。しかも他のこともやっている状態に戻れているわけですね。ステレオタイプで決めつけないで、その人にあった働きかたができる社会になっていけたらと。マギーズ東京ができたら、そういうサポートもしていきたいなと思っています。

■プロジェクトメンバーの熱意、ビジョンの共有について

質問:このクラウドファンディング、個人的に微力ながらお手伝いさせていただきました。久々に連絡をとった友だちが手伝っていると聞いて、その話がすごく熱っぽくて、負けてしまったところがありました。ビジョンの共有の仕方や、心がけられたことなど、もし何かあれば教えていただきたいです。それが突破力に繋がったんじゃないかなと思うんですけど。

はい、どうもありがとうございます。それは多分、今の私を見ていると、7年前に、がんになって、髪の毛がなくなって、歩けなくて、ずっと伏せっていたなんて、誰も想像できないというんですけど、でも本当にどん底だったんですね。本当に、生きる希望が持てなかったです。

それは、やっぱり社会が「がんになったら死ぬ」というイメージを作ってきちゃったことが大きくて。なおかつ、みんなが(がんと)いえなくて。だから「いえない社会を変えていかないといけない」と、本当に辛かった自分の経験を、情熱を込めて語ります。

がんは実はものすごく身近で、2人に1人がかかる。家族を含めたら、75%の人が関わる病気といわれています。そういう大きな課題がある。それを知ってしまった以上は、どうしてもやらなきゃいけないっていうのを、本当に1人ひとりに、この人と一緒にやりたいと思ったら丁寧に話します。その人に「ぜひ一緒に社会を変えていきたいね」と思ってもらえるように。

でも、そんなに頑張らなくても、みんなすごく自分事として捉えてくれるのは何でなんでしょう。原体験を元に情熱を持って、しかも腹をくくって「あなたがやらなくても絶対やるけれど、やるから出来るから、せっかくだったら一緒に立てるところまでやったら、楽しくない?」みたいな。楽しいことも含めて一緒にやりたいな、ということを伝えているというのもあるのかもしれません。

今でも会議は夜8時から12時とか、そんな感じでやっているんですけど、みんな来て、熱く語って、ものすごい達成感を持って帰っていると感じています。

■一緒にやりたい人の共通点とは

質問:巻き込まれる方の共通項みたいなものはありますか? 一本釣りしたいと思う方に、こういう共通項があるから巻き込まれる、というのはあるのでしょうか。

仕事が出来て、心が優しい人(笑)。

みんなすごく輝いていて。私はテレビ局に入りながらも「いつか自分がこれまで出会ってきた良いなと思う人と仕事をしたいな」と昔から思っていて。そういう話を学生時代にしていた子と「あのとき話してたのが、今実現してるね」と話しています。学生時代のインターンとか、こういうイベントとかで挨拶をして「あっ」と思う、その直感。

質問:嗅覚ですね?

嗅覚(笑)。みんな、私がいなくても遊びに行ったりする仲になっているんです。そう、人として魅力的で、やっぱりそれぞれできる事があって、社会に何か活かしたいと思っていて、温かい人ですね(笑)。

———

以下は、講演のダイジェスト動画。1つひとつのエピソードから、鈴木さんの「突破力」が伝わってくる。

【関連記事】

ハフィントンポスト日本版はFacebook ページでも情報発信しています