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福島第一原発から16km、東京ではできないビジネスのつくりかた【3.11】

投稿日: 更新:
TOMOYUKI WADA
和田智行さん | The Huffington Post
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福島第一原発から北に16km離れた福島県南相馬市の小高(おだか)区。「避難指示解除準備区域」に指定され、現在も人が住むことを許されていないこの地域に、2014年12月、食堂「おだかのひるごはん」がオープンした。オーナーは和田智行さん(38)。震災後もスマホゲームなどを作っていた元システムエンジニア(SE)だ。

これまで飲食店関係の仕事をしていたわけではない。小さい頃からの夢だったというわけでもない。ずぶの素人が始めたビジネスだ。

和田さん、一体、なぜ? ぶっちゃけ儲かりますか?

3月上旬に、話を聞いた。

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おだかのひるごはん

「居住はできなくても、働く人は多い」

店に着いた月曜日の午後1時23分。閉店まで残り40分を切った店は、28ある席の半分が埋まっていた。「普段はもっと多いんですけどね」と和田さんは照れたように笑う。現在は月・火・木・金の週4回、それも日替わり定食と、うどん・そばだけのメニューでランチタイムのみの営業。大きな利益は出ていないものの、4人の従業員に給料を払える程度の売上はあるという。

和田さんは、「原発20km圏内というと、全く何もできないというイメージを持つ人がいるかもしれませんが、実は結構働いている人は多いんですよ」と話す。

避難指示解除準備区域は早期の住民帰還を目指す地域で、居住こそ許されてはいないものの、昼間は自由に立ち入りができる。ビジネスについても、宿泊業を除いては再開が認められている。

fukushima

小高区は、震災当時は「警戒区域」に指定され全員が避難したが、2012年4月に避難指示解除準備区域に変わった。町は2016年4月の避難指示解除を目指しており、インフラ整備などの一部の業者はビジネスを再開。地震で倒壊した家の建て直しや除染のために働く人がいる。

和田さんもその一人だった。震災後、小高のコミュニティーの再生を目指すNPOに携わるようになり、復興に向けて活動していた。

「この食堂ができるまでは、この地域で働く人たちは、みんな弁当を食べていたんです。店がないですから。

あるときこの近くのコミュニティスペースでNPOの活動をしていた時に、私たちはそこで昼ごはんの豚汁をつくっていたんですが、窓から作業にあたっている人たちが見えて。寒そうにしてたんですよね。そのとき一緒にいたメンバーがつぶやいた、『あの人たちにも、温かいもの食べさせたいね』という一言が、食堂をつくるきっかけになりました」

「素人でも、“ゆるく”はじめることが許される」

ところが、NPOのメンバーで飲食店の経営経験がある人はいなかった。もちろん、和田さんも未経験。それでも「素人でもやれる」と和田さんは考えたという。

「弁当や仕出しばかりの食事に飽きてしまうことは、普通でもありますよね。『たまには、母ちゃんのご飯が食べたい』と思うことが、あると思います。その素人ならではの“強み”が、この食堂の武器になると思いました。プロの味ではなくお母さんの味が、今、ここで求められていると感じたんです。

東京でゼロから起業するのとは違う状態だというのもありました。東京は競合もたくさんありますが、ここはゼロ。サービスそのものが求められている状態だから、応援してもらえるというのもあります。やったことがない素人でも、“ゆるく”はじめられるというのが、今の状況のメリットなんです」

和田さんは、自分と同じように小高区でビジネスをしてみたいと考える人が増えればいいと話した。

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おだかのひるごはんの日替わり定食

「稼いで、早く引退したかった」

和田さんは、震災前から小高に住んでいた。この町で生まれ育ち、大学と社会人になってからの最初の6年は東京にいたが、その後、小高に戻ってきた。戻った時の職業はプログラマー兼、経営者。東京を去る直前の2005年に友人とIT企業を立ち上げ、首都圏での営業を友人に任せて、自分は小高からテレワークでプログラムを書いた。

「小さい頃から両親に、『東京で勉強してこい。そして、必ず戻って家を継げ』って言われ続けてきたんですよ。ある意味、刷り込みですね。それが当たり前だと思って育ったので、小高に戻ることに抵抗はありませんでした。

でも、震災前から仕事が無い地域だったので、戻ってからも食べていけるような仕事をと思って、大学卒業後はプログラマーの仕事に就きました。一人で食べられるようになったので、小高に戻ってきたんです」

両親は小高で織物工場を営んでいたが、和田さんが大学を卒業する頃には、家業を継げとは言わなくなった。ただ、小高に戻るようにとだけしか、言わなかった。

「震災前は早くお金を稼いで引退したいと考えていました。引退したら、地元の実業高校の子供たちに、ネットを使って自分の手で稼ぐということを教える寺子屋みたいなのをやりたいと思っていたんです。

仕事がないから、子供たちは就職先が選べない状態だった。それでも、仕事は自分の手で作ればいいんだというのを、教えたいと思っていたんです。リーマン・ショックがあったりして引退とまでは行かなかったけれど、とにかく金を稼ぐんだという思いは強かったですね」

「震災後、スマホゲームをつくるのはしんどかった」

そんなある日、震災が起こった。福島第一原発が危ないとわかり避難した。避難先を3カ所、家族とともに点々としたあと、2012年4月に埼玉県の川越市に落ち着き、そこから元々東京にある自分の会社に通った。

しかし、2012年の4月には再び福島に引っ越すことになる。家族が福島に戻りたがっていたことに加え、震災報道が減って川越では福島の状況がわからない状態になっていたという焦りもあった。

ところが、戻りたいと思っても小高の自宅は依然として人が住めない。そこで福島県の会津若松市に家を借り、そこでSEを続けた。

「それも2012年12月に辞めたんです。しんどくて。会津ではスマホゲームもつくっていたんですけどね、精神的にしんどかったんです。

立ち入りが許可されて、小高の自宅に戻ることがあったんですが、誰もいませんから家は荒れ放題。道路には動物の死体がゴロゴロ転がっていました。除染も行われていない事態でしたから、防護服を着て、線量計をつけて入るんです。自宅にも靴カバーをして、土足で自宅に上がらなきゃいけなかった。

そして戻ってくると、ゲームをつくるでしょう。小高には津波で家が流されたり、行方不明になったりした人もまだいたのに、自分はガチャのようなソーシャルゲームをつくる世界に戻る。マトリックスのように、どちらがリアルの世界なのかわからなくなってきたんです。会社には本当に申し訳なかったけれど」

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警戒区域から避難指示解除準備区域となった2012年04月16日の南相馬市小高区のJR小高駅周辺

「思った以上に、小高に人がやってきた」

どうせやるなら、小高に戻ることにつながる仕事にしようと考えた和田さんは、会津で起業支援の相談員の見習いのような仕事に就いた。「小高にビジネスをやりたい人がやってきた時に、少しでも相談に乗れるように」との思いもあって、選んだのだという。

そして2014年5月、いよいよ小高で和田さんのビジネスが始まった。「小高ワーカーズベース」。原発事故で時が止まった町でも、事業を生み出す人が拠点とできるようなシェアオフィスだ。立ち上げのきっかけとなったのは、思った以上に小高に人がやってきたことだという。

2012年4月、小高区は警戒区域から避難準備区域に代わり、帰還を目指すことになった。人が立ち入れるようになり、復興に向けた視察やスタディーツアーも始まった。小高の案内係を頼まれるようになった和田さんは、「通常であれば考えられない有名人にも会った」と話す。

「たくさんの人が、小高を見に来てくれましたが、『この状態を何とかしなくては』という課題意識だけを持たれて帰られ、現場には何にも残らなかったんです。支援のリソースを、なんとかここに定着させなければいけないと思いました。それがワーカーズベースに繋がったんです」

まずは、小高で何かをやろうと考える人が、この地で作業できる場所を物理的につくる。人が集まれば、そこから勝手にビジネスが展開するかもしれない。電源とインターネットをつなぎ、コピー機を置いた。「原発から20km圏内でWi-Fiが掴めるのは、ここしかないですよ」と和田さんは笑った。

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JR小高駅すぐそばにある「小高ワーカーズベース」。

複数のビジネス、たくさんの依存。

「おだかのひるごはん」に「小高ワーカーズベース」。これにもう一つの「小高天織」という養蚕・シルク織物ビジネスの3つが、和田さんが現在進めているプロジェクトだ。

「もともと小高は、養蚕が盛んな土地でした。それがいつの間にか、蚕を飼う家がなくなった。小高だけでなく、日本中から蚕がいなくなりました。今、国産として売られているシルクは、織りや縫製は日本でも、糸のほとんどは中国やブラジルからの輸入なんです。

シルク産業一つとってみても、効率化が求められて分業化が進み、今の日本には何も残っていない状態。それでいいのかという思いもあるんです。生産は地方で、消費は都会でという考えが、地方に原発をつくってきました。原発事故で学んだように、それではどちらかが壊れたらおしまいなんです」

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「小高天織」プロジェクトで機を織る人。

和田さんは震災を経験して、頼れるものは少しでも多いほうがいいと考えるようになったという。

「原発事故のとき、僕はお金はちょっとだけ持ってたんです。でも、全く役に立たなかった。避難所も人が多くて入れないのに、ガソリンも買えなくて逃げることもできなかった。食料も手に入らなくて、子供に飯も食べさせえてやれないという体たらくでした。

結局、周りの人たちに助けられて脱出できました。そのとき、『お金という、一つの指標だけじゃだめだ』と思ったんです。それまで僕は、お金を稼ぐことを第一にしてきたけど、セーフティーネットというか、頼れるものがいっぱいあったほうが安心できると思いました。

大儲けしなくてもいい。1つの仕事だけに頼るのではなくて、ちっちゃくても、いろいろ仕事をやるのも新しい形で楽しいと思えた。だから、今やっている3つも、自分がやっているビジネスのうちの1つという考え方なんです。そういう複数のビジネスを同時にやることが許されるのも、今の状況の強みなんですよ。

とはいえ、僕は一人しかいないので、やりたくても体が回りません。最近では、いろいろビジネスのお話を頂いても断ることが多くなって、僕に頼むのではなくて、誰かここに来てやってくれる人がいたらと思います」

tomohiro wada

故郷を見つめる優しい表情の和田さん。しかし、そこにはビジネスマンの厳しい顔を持つ和田さんも同居している。

「だってかっこ悪いじゃないですか。『和田は福島で頑張ってるみたいだけど、食えてないよね』って言われるの。食えないって思ったら、人はやってこないと思いますよ。だから周りの人には言うんです。俺たちが稼がなくてどうすんだって」

それでも今の「稼ぐ」は震災前の「稼ぐ」とは、全く別の意味を持つ言葉になった。和田さんはゲームに例えて「ここはリアルシムシティができる町」と表現する。これまでの価値観の延長線上で復興を行うのではなく、何もないゼロのところから、新しい価値観で町の再興を行うことができるというのだ。

「小高に来れば、ゼロから新しい町を作るというプロセスに関わることができます。普段、社会に行き詰まりを感じていたり、自分の生きたいコミュニティではないと感じていたり、チャレンジしたいという人は、ぜひ町に来てもらいたいと思います。他の地域にはない、金銭的にではなく精神的に豊かな町を、自分たちの手で作ることができるんですから」

odaka workers base
おだかのひるごはん、働く人たちと

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南相馬市小高区 震災直後〜2015年(画像集)
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