ベトナム戦争の韓国軍の虐殺被害者が訪韓 そこで見た「落差」とは

1975年に終結したベトナム戦争に延べ32万人を派遣した韓国軍は、9000人に上るベトナムの民間人を虐殺したと言われる。この虐殺の生存者が戦後70年、ベトナム戦争終結40年となる2015年、初めて韓国を訪れた。

1975年に終結したベトナム戦争に延べ32万人を派遣した韓国軍は、9000人に上るベトナムの民間人を虐殺したと言われる。この虐殺の生存者が戦後70年、ベトナム戦争終結40年となる2015年、初めて韓国を訪れた。滞在中の出来事は、まるで2人の人生のように波乱万丈だった。ハフポスト韓国版に掲載された時事雑誌「ハンギョレ21」のルポを紹介する。

1966年、ベトナム戦争に派兵された韓国軍部隊が、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)とみられる男性を捕らえた場面

4月8日午前、ソウル中心部・鍾路にある社団法人・平和博物館のギャラリー「スペース99」。戦後70年、ベトナム戦争終結40年を機に開かれた「一つの戦争、二つの記憶」写真展に招待されたグエン・トン・ロンさん(64)とグエン・チ・タンさん(55)は複雑な表情だった。写真展のオープニングレセプションが前日、思いがけずキャンセルされたうえ、自分たちの人生を台無しにした戦争が、韓国では「記念」するものとして記憶されていると知ったからだった。

写真展を開いた写真家のイ・ジェガプさんが、2人を展示場の片隅にある小さな部屋に案内した。韓国のあちこちにある戦争記念塔を撮った写真が、プロジェクターから天井に投射されていた。ベトナムのあちこちに韓国軍を忘れない60以上の「憎悪碑」が建っているのとは対照的に、韓国には至る所に100以上の「参戦記念碑」があると説明された。

「韓国ではベトナム戦争を“記念”しています。韓国のこの戦争の記憶と、ベトナムの記憶の違いを示したかったのです」

2人と一緒に訪韓したベトナム・ホーチミン戦争証跡博物館のフェン・グォク・ボン館長(53)は「私たちの博物館にも痛ましい写真を展示している。戦争の話を聞き続けなければならないとは、写真家も心苦しかっただろう。私たちは韓国の軍人も戦争の被害者だと思う。事実を正しく認識して謝罪したとき、彼らの心も楽になるだろう」と述べた。前日、ベトナム戦争に参戦した元軍人の団体「大韓民国枯れ葉剤戦友会」ら、300人以上の退役軍人が、近くを取り囲んで平和博物館の写真展開幕を妨害した。そのことを念頭に置いた言葉だ。軍服とサングラス姿の元軍人たちは3〜4時間の間、軍歌を歌い、叫び声をあげ、「自分たちが罪のない人を虐殺したと罵倒されている」と抗議した。開幕イベントはキャンセルされ、ロンさんとタンさんは近くで開かれた非公開の記者懇談会で「真実を知らせたかっただけなのに、彼らがこの事実を認めないのがとても悲しい」と涙声で話した。

展示場は、ベトナムと韓国に建てられた戦争記念碑、民間人虐殺の状況を証言するベトナム人の写真で埋め尽くされた。人の写真の前には半透明のビニールが日よけのようにかぶせられていた。この作家は「ベトナム戦争当時、アメリカ軍は遺体を処理する際に、主にビニールを使った。ビニールは戦争を連想させるものなんです」とした。半透明のビニールの向こうにある写真には、しわくちゃの、生気のない老婆が、涙があふれんばかりの目で幼い孫の顔と向き合っていた。伝えたいが、伝えられない言葉を噛みしめるように。

グエン・チ・タン(後列左)さんとグエン・トン・ロンさん(後列右)氏が4月8日昼、ソウル中心部の日本大使館前で開かれた元日本軍慰安婦らの「水曜集会」に参加し、元慰安婦らと一緒に立っている。

元慰安婦たちとの出会い

旧日本軍の元慰安婦を支援する民間団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は、毎週水曜日にソウル中心部の日本大使館の前で「水曜集会」(水曜デモ)を開く。この日は、150人の参加者が集まった。 ロンさんとタンさんは写真展の観覧を終えた後、デモの場所まで歩いていって、2人の元慰安婦の後ろに立った。

「孫よ、あなたはこの言葉を覚えておけ。韓国の軍人は私たちを爆弾の穴に追い込んでみんな撃ち殺した。孫よ、大きくなってもこの言葉を覚えておけ」

ロンさんとタンさんが写真展の後で参加した、旧日本軍の元慰安婦や支援団体が日本大使館前で毎週水曜日に開いている「水曜デモ」のプラカードに書かれた文だ。

マスメディアのカメラマンが押しよせ、2人の表情はしばらく固くなった。誰かが「穏やかな表情で」と頼んで、やっとわずかな笑みを浮かべた。挺対協のユン·ミヒャン代表がマイクを握り「二度と、どんな戦争でも、性暴力の被害者や民間人虐殺の犠牲者を出してはなりません」と叫んだ。タンさんは「元慰安婦の方々と韓国の友人にあいさつします。私の名前はグエン・チ・タン、韓国軍による民間人虐殺の生存者です。虐殺のとき8歳でした」と話した。タンさんが発言するたびに、デモの参加者たちからため息が漏れた。

ロンさんとタンさんが旧日本軍の元慰安婦たちと会ったのは、この日が初めてではなかった。訪韓初日の4月4日、宿に荷物を置いてすぐに向かったのが、元慰安婦たちの共同生活施設「ナヌムの家」だった。

ロンさんは1966年2〜3月、計1004人が死亡したタイヴィン虐殺の生存者だ。虐殺で母と妹を失い、孤児となった。タンさんは1968年2月12日、住民74人が犠牲になったフォンニィ・フォンニャットの虐殺で生き残った。母と弟、姉、叔母、甥など5人の家族を失った。これらの事情を聞いた元慰安婦のユ・フイナムさん(87)は「戦争被害者の苦しみと悲しみを本当に理解できる人はあまりいない。同じ被害者に会うと本当にうれしい」と語った。加害者が韓国軍か日本軍かの違いだけで、被害者は簡単に共感して悲しみを分かち合った。

最初の記者会見とインタビュー

訪韓3日目の4月6日、ロンさんとタンさんは韓国の国会を訪れた。

「50年近い月日が流れたが、残酷な虐殺と苦痛に満ちた悲鳴は生々しく頭の中に残っています。あの日の記憶が呼び起こされると、半月は眠れず、体が痛みます。しかし、あの日を記憶し続け、伝えていくことが私の人生最後の任務と考えています」

国会議事堂の政論館でロンさんとタンさんは、これまで数百回繰り返し話してきた虐殺当時の様子を証言した。 韓国で、それも公開の場で話すのは初めてだった。 痛みを伴う証言への反応は、翌日に伝わった。

7日午後、写真展の開幕イベントはキャンセルされた。代わりに、宿泊していたホテルの小さな部屋で非公開の記者会見を開いた。ベッドを外に出し、他の部屋から椅子を借りて、わずか約10人の記者と2人のベトナム人、1人の通訳が座る席を用意した。記者の質問が始まる前にロンさんは「外に出て、あの人たちに話をしたい。記者たちに話して伝わるだろうか」と焦った。窓の外から、「枯れ葉剤戦友会」が歌う国歌が聞こえてきた。

ロンさんは「元軍人たちに会って、丁寧に挨拶をしようと思います。私がここにいるとは思っていないでしょう。韓国の国民に、韓国の軍人がベトナムにいたとき何が起きたのか、率直な私の心情を打ち明けたい」と言った。

窓の外からまた「ワーッ」という叫び声が聞こえてきた。ロンさんは「彼らを許す」とも述べた。「皆さんが過ちを犯したのは過去の旧制度で起きたことです。皆さんを許す心を十分に持っています。もし皆さんが過去の過ちを直視し、過ちを正す気持ちを持っているなら、私たちは皆さんを十分に理解できます」

「枯れ葉剤戦友会」の叫び声と喚声は続いた。ロンさんとタンさんのインタビューは、2人が経験した虐殺の状況について、具体的な証言に入った。

「銃声がより近くなり、住民の悲鳴と叫び、大声が一緒に聞こえてきました。やがて音は遠ざかりましたが、妹と私の間にいた母は、私たちに手拭いをかけていました。母の手拭いのぬくもりで、お腹が空いたことも、のどが乾いたことも忘れていました」

ロンさんの母は、虐殺が起きた日は一日中、ロンさんと妹を抱いて防空壕の中に隠れていたが、遅くに韓国軍に見つかった。よその村の住民と一緒に連行され、銃と手榴弾を乱射された。母は下半身がほぼなくなった状態で発見された。妹は頭がめちゃくちゃに壊れていた。母の話をするとき、ロンさんは目を赤くして言葉を詰まらせた。見守っていたタンさんが腕をさすり、何とか証言を続けた。証言が具体的になればなるほど、頰が震えて涙が浮かんだ。窓の外から、マイクを握った人々の叫びが聞こえてきた。

タンさんも証言を続けた。「まだら模様の服を着た韓国の軍人が、子供たちが入っていた防空壕に手榴弾を入れるふりをしながら『出てこい』と言いました。出てこなければ投げるということでした。あまりにも怖くて出て行くと、一人ずつ銃で撃たれました」

タンさんの兄は、その場で片方の尻が吹っ飛び、一緒にいた叔母は、韓国軍の銃剣に突かれて死んだ。姉と弟、甥もみんな銃で撃たれて死んだ。話が進むにつれ、タンさんの嗚咽はすすり泣きに変わった。「あのときは8歳だったが、今でもあの日のことを生々しく、鮮明に覚えている」と語った。

その日の夕方、2人を慰労する会が催された。2人に縁のある韓国人が一堂に集まった。ベトナムとの友好を目指す若い作家たち、ベトナム平和医療連帯、保健医療労組、挺対協、アジアフェアトレードネットワークなどの100人余りが招待された。ベトナム戦争に参戦した人もいた。

写真家のイ・ジェガプさんはこの席で「2人に申し訳ないという言葉を、このような場でできるようになってよかったと思う。韓国人にも良心的な人がたくさんいることを知ってほしい」とあいさつした。ロンさんは「韓国に来たのは、ただ共感と平和を分かち合うためです」と答えた。通訳の韓国人は「ロンさんは足に残っていた手榴弾の破片を取り除いたが、ずっと足がしびれていた。でも韓国に来てからは痛くないとおっしゃっています。タンさんはもう韓国人が怖くないとおっしゃいました」と紹介した。集まった人々が立ち上がって拍手した。

4月9日午後、「大韓民国枯れ葉剤戦友会」大邱支部の会員が大邱・慶北大学のキャンパスで集会を開いた。チョン・チュングァン大邱支部長(73、左から2番目)は「どこの国の戦争でも、少数の民間人が被害に遭うのは仕方がない」と述べた。

枯れ葉剤戦友会「突撃、前へ」

ロンさんとタンさん一行は4月8日、水曜デモの後、釜山に向かった。この日の夕方、釜山市の公園で、翌日には大邱の慶北大学で講演することになっていた。「枯れ葉剤戦友会」が行く先々で2人を出迎えた。8日の懇談会場となっていた釜山の公園の入り口で「枯れ葉剤戦友会」釜山支部の会員約170人が反対集会を開いた。

9日には大邱・慶北大学のキャンパス内で、「枯れ葉剤戦友会大邱支部」の会員40〜50人がデモをした。

「通訳の韓国人を殺せ!」

「こんな行事を許可した総長は辞任しろ!」

夕方、キャンパスに下品な言葉がこだました。見物していた大学生と教職員が呆れた表情を浮かべた。「学校の中でこんなの許可していいのか」「学生会は何をしている」。「枯れ葉剤戦友会」のチョン・チュングァン大邱支部長(73)は「どこの国の戦争でも、少数の民間人が被害に遭うのは仕方がない。でも私たちはあの時、民間人は撤退するようにビラをまいたし放送もした。残っていたのはみんなベトコンだ」と言った。ある記者が尋ねた。「赤ちゃんも死んでいる。それはどう説明するんでしょうか?」。戦友会のメンバーがざわめいた。「事情も知らないくせに何を言う!」「子供がベトコンのいる防空壕にいたんだ」。戦友会会員のキム・テボン氏が「行くぞ。俺たちが入れないように、わざと記者が邪魔しているんだ」と会場に向かおうとした。チョン支部長が「ちょっと待て」と立ちふさがった。記者を取り囲んだ戦友会のメンバーはうろたえた。ときどき「突撃、前へ!」「自由大韓!」といった叫び声が上がった。いつの間にか日が暮れていた。

会場になった講堂には200人ほど聴衆が集まっていた。4箇所の出入口のうち3つは閉められていた。予定時間から15分ほど遅れてロンさんとタンさん一行が入ってきた。司会者は「外にいる『枯れ葉剤戦友会』のメンバーが『自分たちも撤収するから大義名分がほしい。記者を撤収させろ』と言ってきた。だからお願いします。記者さん外に出てください。私は言いましたからね」と冗談を言った。聴衆が笑った。参加者の紹介が終わり、ロンさんが話し始めた。

「私はベトナムから来たグエン・トン・ロンです。始める前に、まず一言申し上げます。今日、私が話そうとしていることは、私の目で見て、耳で聞いて、体で体験したことです」

拍手が沸き起こった。ロンさんとタンさんが韓国で過ごす最後の夜だった。会場の外にいた「枯れ葉剤戦友会」のメンバーは、いつの間にかいなくなっていた。ロンさんとタンさんがすでに数百回繰り返した話に、人々は耳を傾けていた。

「私は心臓で話をしています。歴史の真実を聞いてもらうためです。怨恨や憎悪をあおるつもりもありません。韓国軍の民間人虐殺の生存者です」。ロンさんはこの日も、母の死のところで涙声になり、言葉を詰まらせた。

(翻訳:吉野太一郎)

この記事はハフポスト韓国版に掲載されたものを翻訳しました。

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