脱北者の生徒たちに聞いた北朝鮮、社会主義、そして統一

「チャンデヒョン学校」は、韓国南部の釜山・慶尚南道地域にある、北朝鮮から脱出してきた脱北者の青少年を対象にしたフリースクールだ。実際には「多国籍学校」の側面もある。

ハフポスト韓国版に掲載された、主に10代の脱北者が通う韓国の学校のルポを紹介する。

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「チャンデヒョン学校」は、韓国南東部の釜山・慶尚南道地域にある、北朝鮮から脱出してきた脱北者の青少年を対象にしたフリースクールだ。年齢は14歳から20代まで。ほぼ全員が寄宿舎で共同生活をしている。

校長のイム・チャンホ高神大教授は、この学校を全寮制にした最大の理由について「脱北者は、家庭での教育が難しいから」と説明する。親との世代間のギャップも、生徒が韓国社会に適応する上で障害となる。「家に帰ると、北朝鮮出身の親や親戚が、北朝鮮の考え方や価値観のままで暮らしているんですよ。家を一歩出ると韓国、帰ると北朝鮮。だから悩みを抱えることになるんです」

実際には「インターナショナル・スクール」の側面もある。全生徒17人のうち6人が中国で生まれ育った中国籍、1人は韓国籍だ。

この学校に通う脱北者の生徒2人、生みの親は中国人だが、脱北者の継母と韓国に移住した中国籍の生徒1人、そして韓国籍の生徒1人にインタビューした。取材相手の要請で、仮名を使ったり、地名を置き換えたり、明記していなかったりした部分がある。

出稼ぎ目的で脱北、ブローカーに売られ…

キム・ヨニ(仮名)25歳、脱北 小・中学校課程

25歳のキム・ヨニ(仮名)は、科目によって小学校課程と中学校課程の授業を受けている。

──どうして、幼い時期に一人で中国に行こうと思ったのですか。

13歳の時でしたが、何も知らなかったんです。私の住んでいたところは脱北する人がとても多かったので。18歳、19歳の女の子が中国に行って、お金をもうけて家計を助けていたのがうらやましかった。山菜を摘んで日銭を稼ぐ暮らしは楽じゃなかった。セリは摘みすぎて家の近所にはもうなくて、5時間も歩いて山深いところに行っていました。午前4時に起きて5時間かけて山に着いて、そこでまた5時間、山菜を掘るとリュックがいっぱいになる。それを担いで家まで歩いて帰って、私が市場に行って売っていました。売ったお金で米や麺を買って帰るんです。そのうち毎日「早く大きくなって中国に行きたい」と思うようになりました。中国に一度行ったらものすごくお金になるって聞いたので。だから、とりあえず行って、お金を稼いで帰ってくるという考えで行きました。ところが、中国に行ったら、ブローカーが私と、一緒に行った8人を売り渡したんです。

──だまされたんですね。

その後も何度か売られました。最初は北朝鮮の軍人が中国人に売って、その中国人がまた別の中国人に、その次に私達を買ったのが再び北朝鮮の人だった。平壌出身の女性でしたけど、その人も売られてきて、中国で暮らしていたんです。その村にほぼ1年住んで、逃げてきました。

──どうやって?

そこに住んでいた時に、故郷の母と連絡が取れました。お母さんから「中朝国境の中国側に親戚がいるから、そこに行け」と言われました。その人が受け入れてくれたので、レストランで住み込みで働きました。ところが、そこも国境地帯で、北朝鮮や中国の秘密警察がいて安全ではないから、2年で仕事を辞めて青島に行きました。そこでまた、4年暮らしました。

──青島には、定着するつもりで行ったんですか?

生きられる限り生きてみようと思いました。韓国に行くつもりは全くなかった。でも青島の韓国食堂で働いてたんですけど、韓国人と会うようになって、韓国のことを知りました。そこで出会った脱北者の女性を通じてブローカーも紹介され「君の年齢なら、韓国に行けば家も与えるし勉強もさせてくれる」と言われたんです。最初は怖くて「行かない」って言ったんですが、1年後に考えが変わって、再びそのブローカーを訪ねて行きました。

──ブローカーに払う費用はどうしましたか?

ハナ院(訳注:韓国政府が運営する脱北者の教育・支援施設)から出るときに、定着金として400万ウォンもらえます。それで返済しました。

──最近、メディアでは、北朝鮮で外国の放送や映画をこれまでより簡単に見られるようになったと報じています。USBやSDカードで、以前よりはるかにたくさんの動画ファイルが持ち込まれるようになったと聞きます。一方で、そんな状況は国境に近い咸鏡道と両江道だけだとも聞きました。北朝鮮に住んでたときはどうでした?

私は国境に近いところに住んでいましたが、幼かったので見ていません。近所でこっそり見ている人がいるのは見ていました。近所の人が中国産のCD-Rにドラマや映画を焼き付けてこっそり見ていましたよ。韓国の服はありました。韓国語の商標はすべてはずして着ていました。

──韓国についてどう思っていましたか?

すごく悪く思っていました。 北朝鮮のテレビでは、いつもアナウンサーが「南朝鮮傀儡軍が…」と悪口を言っています。また、アメリカ人は韓国人の味方だから「山犬」と呼んで嫌っていました。 韓国人は北朝鮮の人を見ると、手を切って血を抜いて売り払うと思っていました。中国に行って、嘘だったと知りました。

──北朝鮮にいたときは、国とはどういうものだと思っていましたか?

学校で言われた通りに金正日を崇拝してきました。でも内心では良くない印象を持っていました。街で大人の間で噂が広がったんですよ。「今は統一される直前だ」と。「統一されれば暮らしもよくなるのに、首領様と金正日が反対してできない」と。そして学校に供出するものがあまりに多かった。社会主義国家なんて言葉だけ。無料で病気も治してくれて勉強もさせてくれると言いながら、学校に行くと「トラの皮、ウサギ皮、金属スクラップを出せ」と言われます。そんなもの家にないからどこかで探さなければならない。釘がほしければ「金を払え」と言われます。釘を持っていけなくいて学校に行けなかったこともありました。先生に怒られて、学校でいじめられるんですよ。

今思うと、北朝鮮は、国じゃありません。住民を監視して何もできなくする。幹部たちは食べるものも困らずいい暮らしをしているのに、住民は貧しくて、ちょっと暮らしがよくなるとすぐ奪われる。私が北朝鮮にいる母にお金を送っても、お母さんは好きなように使えない。

──今はどう思いますか?

金正恩が嫌い。金正恩が(国家機関の事実上トップにあたる)国防委員会第一委員長になった時、中国人が「若くして大統領になって、何ができるのか」と、いろいろ話していました。実際、私はその時にこの思ったんです。「若いから、中国や韓国を見れば、他の国と同じような暮らしができるようになる」と。ところが、ますますひどくなる一方です。

──学校に入学するまで、韓国での暮らしはどうでしたか?

ハナ院を出て、一番難しかったのは、韓国人と会話することです。ハナ院でもそう教育されました。北朝鮮の言葉はアクセントが強くて、韓国人と話すときには注意しなければならないと。こう言うと失敗するんじゃないか、この言葉は合っているか、違っているか、とても気を使いました。何か買おうとしても外来語がとても多いし。

──韓国で知り合いの脱北者は多いですか?

私が住む町に、一緒にハナ院を出た4家族が住んでいます。みんな年配の方です。他の場所には、若い女性とか、同じ年頃の人がたくさん行ったのに、私は年齢差があって、他の人たちと話が通じなくて辛かった。あるとき、買い物に近所のおばさんと一緒に行ったんですけど、おばさんの服ばかり見るでしょう? でも私はいいと思わない。それに大人たちは人生経験があるけど、私は経験が浅いから会話が通じない。

──10代が通う学校に入学しようと思ったわけですが、いつからこの学校に通っていますか?

今年3月2日に入学しました。中国に住んでいて、韓国に来ようと思っていなかった時は、また学校に通おうとは全然思っていませんでした。年もとったし。そのうちにブローカーの話を聞いて、また勉強しなきゃと思いました。北朝鮮では小学校も出られなかったから、言葉とか…なんというか、とにかく話すときに、勉強できないのがわかっちゃうんですよ。

初めて韓国に来てアルバイトをしましたが、勉強するにもお金が必要だと思ったから。(韓国政府から脱北者に支給される)基礎生活費だけではきついんです。だけど定着支援の先生が、この学校に来れば無料で勉強させてくれるというので、とても悩みましたが「勉強を始めれば何とかなるだろう」と通い始めました。

──学校生活はどうですか?

ここの子たちはほとんど、ある程度学校に通って脱北した子たちです。私みたいに、中国で売られてきたのでないから、私より勉強がよくできると思います。私は年が上なのに他の子よりも勉強できないから、恥ずかしいことがとても多いです。だけどプライドを忘れて一緒に勉強することにしました。

──それでも中学校過程に通うのは簡単ではないと思います。他の人はすべて寄宿舎で生活していますし。

宿泊行事が難しいんです。北朝鮮の学校ではあまりしないから。今回、済州島に行って、その前は江原道のスキーキャンプに行って来たんです。夜に点呼とかするんですが、適応できないんですよ。私はこの年齢で先生に怒られる。いろいろ悩みましたが、耐えなきゃいけないと思っています。

──学校に通う目標は何ですか?

今は、この学校で3年間勉強すること。そして、すぐに大学に行くつもりです。私は中国語を話せるから、中国や教育を専攻して中国語教師になりたい。 テレビ番組「今、会いに行きます」(訳注:脱北者や南北離散家族の再会を扱ったバラエティー番組)をよく見るんですが、そこに出てくる人を見ると、勉強したくなるんです。みんな大学に通って、韓国に来て適応できている人。韓国で成功した北朝鮮の人には、子供もいるのに大学を卒業した人もいた。私は一人で頑張ればいいんだから。

──お母さんと一緒に住みたいと思わないですか?

絶対に連れて来たい。だけどお母さんは怖くて来たくないそうです。私と電話するときも、10時間かけて山に登って電話するんですよ。家族が2人でどこかに行けば疑いがかかるから、母一人だけで家を出て電話しています。でも、お母さんが来たいと言っても、勧めません。脱北の途中で捕まったりすれば私を恨むでしょうし、むやみに「お母さん、来て」とは言えません。

──北朝鮮は変われると思いますか?

思いません。北朝鮮の人も韓国ドラマを堂々と見るのではなくこっそり見ています。「韓国は本当にこうなのか?」と想像するぐらいです。

──南北統一、できるでしょうか?

絶対に難しいと思います。パズルのように難しいと思います。

──生きている間に統一できますか?

私が生きている間に? うーん…私は6歳の時から、市場のおばさんたちが「来年には統一されるって」と話すのを聞いていました。ところができなかった。統一されるかどうか、確実ではないけど、準備はしているんでしょう。

継母は脱北者。5歳まで北朝鮮を知らなかった

ザオ・ロイ 16歳、中国籍 中学3年課程

ほとんどの生徒が1室3〜4人の寮に住んでいる。

──出身はどこですか?

河北省です。

──どうして韓国に来たんですか?

継母が北朝鮮の人でした。継母と一緒に、11歳のときに来ました。小学5年の時に本当のお母さんと暮らそうと思って1年間中国に行って、6年生の時にまた戻ってきました。

──韓国に来ることになったきっかけは何ですか?

5歳の時に私の家に警察が来て、お母さんを捕まえて行くのを見ました。それまでは北朝鮮という国があることも知らなかった。すごく怖くて泣きました。

──初めて韓国に来た時はどうでしたか?

最初は韓国語も「こんにちは」「ありがとうございます」しか知らなかった。小学校は普通の学校に通っていましたが、友達に「ありがとうございます」と言ったら、とても変な顔をされた。「先生、この子が『ありがとうございます』って言ってる」と。4年生の時は外国人に韓国語を教える授業があって、そこで勉強しました。数人しかいなかったけど、日本人、ロシア人、アメリカ人、ウズベキスタン人がいたと思います。外国人が多くて適応しやすい教室でした。

ところが、6年生になって他の学校に行ったんですが、全然違った。悪口もたくさん言われた。私は韓国語ができないので、喧嘩もできなかった。全校で外国人は私一人。だからより大変だったと思います。韓国語も下手だったからでしょうね。親しい友だちもあまりいませんでした。

──この学校に通うことになったのはどうしてですか?

お母さんに連れられて、脱北者の通う教会に通ったんですが、そこで教えてくれました。脱北者の学校と思われているけど、韓国人の生徒もいて、6人は中国生まれ。中国籍だけど、両親が脱北者という友達もいますよ。

──周りに中国人の知り合いはいますか?

韓国にいる中国人の友人はいます。お父さんの友達も中国人です。お父さんの友達が普段話すのを聞いていると、会社では「中国人だから仕事ができない」と見られているようです。特に男だから余計そう見られるようです。子供は、今から頑張って勉強して韓国の子供に勝てばいいけど、大人はそうはいかないでしょう。

──中国に住みたいと思いますか?

別に。中国は、大学に行くのが難しいんですよ。学校で1番になっても入れないこともあります。入っても、科学の授業は英語だし。韓国の大学に行って、中国に1年ぐらい留学したい。大学に行くなら韓国籍があればいいけど、もし必要ないなら、将来、北朝鮮に行ってみたい。友達の故郷に行ってみたいです。

──南北統一はできるでしょうか?

私は、できると思う。私が若いうちに早く統一されればいいですね。北朝鮮に行って働きたい。夢はカウンセラーです。私みたいに両親が離婚した子や、外国の子もカウンセリングしたい。そういう子供たちの心を深く理解できると思います。私が北朝鮮の学校ではなく、統一を準備する学校に通っていると知ってもらえればありがたいです。

「10代の脱北者が感じる疎外感は大きい」

イム・チャンホ校長

ここの生徒は韓国籍の1人を除いて、全員が寄付金で勉強している。常駐して共同生活する教師5人以外、教師はすべて無給で授業をする。韓国政府からは中学校課程の学力水準を認定されており、教師はすべて教員資格を持っている。韓国社会への定着を目指しているので、ここでの授業はほとんどが、検定試験の準備に焦点が当てられる。生徒たちが英語とともに最も苦手な現代社会は、近所で中学校教師を務めて退職したド・サンウク氏が担当する。「授業ではテレビに出てくる銀行の名前を使って『信用を高めて、闇金融でなく銀行を使いなさい』と刺激すると、覚えが早い」という。生徒が苦手なのは生活経済だけではない。「北朝鮮では歴史も金日成中心に習い、古代史も高句麗しか教えない。世界史も知らず、名誉革命が何なのかも聞いたことがない」。

イム・チャンホ校長は「今、10代の脱北者が感じる疎外感は、上の世代よりも大きい」と言う。学校で会う同世代との言語格差が大きいからだ。外来語もそうだが「カムノル」(超ビックリ)「ペブク」(Facebook)のような略語はもっと大変だ。一方で韓国の10代が持つ北朝鮮への固定観念は、親の世代と比較して改善されたわけでもない。イム校長が会ったある脱北者の生徒は、学校で「北朝鮮ではネズミを生け捕りにして食べるのか」と質問された。聞く側は一生に一度の質問かもしれないが、同じ質問を繰り返し受ける脱北者にはストレスとなる。子供たちは口ごもり、自然といじめられることになる。

しかし一方では「年齢が若いほど、文化の違いをすぐに乗り越えられる」と、教師たちは言う。「勉強せずにテレビのお笑い番組を見たがり、スマートフォンに触りたがる子供たちの行動は全く同じです。十数年の『差』を数年以内に追いつかないと、大学に行くこともできない。韓国の子供たちみたいに勉強する習慣がないのが一番大変です。食料の調達や、工事の動員に追われて学校に行けなかったから」

北朝鮮の友達にインターネットを教えたい

イ・ハンチョル(仮名)15歳、脱北 中学3年課程

電算部の部長を務めるハンチョル。このコンピューター室の外に自分用のパソコン部屋が別にある。ハンチョルが持っている円筒は工芸の授業中に作ったもので、裏面には北朝鮮で親しかった友人の名前がぎっしり刻まれている。

──どうやって脱北したのですか?

母は宗教上の問題で、私より2年前に脱北しました。実父が大酒飲みで、私が5歳の時に離婚して、その後再婚したんですが、母が中国に行って、新しいお父さんと住んでいたんです。母は心配だったみたいで、僕と仲の良かった友達の家に人をよこして来たんです。私の家は、母が脱北したために監視されていて、友達に「自分の家に遊びに来い」と言われました。行くと「母の使いだ」という人がいるんです。母だけが知っている決定的な証拠を持っていたけど、それでも信じられなかった。ところが、その時、友達のお母さんが「行きなさい」と言いました。「あなたはここで暮らしても夢もない。未来のために行きなさい」と。その友達のお母さんは自分にとって母親代わりだったので、信じて行くことにしました。

──それでも不安だったでしょう。

そのとき、脱北したのは私だけだと思っていました。僕の町は小さいから、すぐ噂になって全部分かるんですよ。国境を越えると親戚が迎えに来ました。親戚が延吉(中国・吉林省の延辺朝鮮族自治州の都市)の近くに住んでいて、他の人よりはるかに楽でした。

──中国からラオスの韓国大使館まで行ったそうですが?

金をもらって脱北者を運ぶ中国の警察のような人がいます。だから検問されずに公安の車で瀋陽まで行きました。私が北朝鮮で中国語を教える学校に通っていたので、中国語も話しました。今では全部忘れたけど。とにかく中国人のふりをして、何も問題ありませんでした。今思えば想像できないことだけど、そこで朝鮮族(中国籍の朝鮮民族)たちと韓国語で話して遊びました。脱北した人は普通、中国にいるときは、家の中にひっそり閉じこもっているんです。密告されたら捕まってしまうから。ところが、道で子供が遊ぶのを見たら、自分も遊びたいと思うでしょ? 朝鮮族の言葉は北朝鮮の言葉と同じだから、朝鮮族の子の家に行って、パソコンもゲームもインターネットもしました。

すると、私の母をラオスまで連れて行ってくれた人が来て、中国の車に乗って私もラオス国境まで行きました。9人乗りの車に私だけ乗って、安宿に泊まって、山を越えたんですが、そこが国境なのに監視も別にいなかったそうです。人が怖いのではなく足元にヘビが出るのがちょっと怖かった。

ラオスに行って韓国の永住権を持つ母と会いました。2日間、夜行バスに乗って首都ビエンチャンまで行って、韓国大使館に行くために三輪タクシーに乗りました。事前に調べた英単語で「サウスコリア」と告げました。朝5時半でまだ薄暗かったんですが、降りてみると、金日成、金正日の写真が見えるんです。間違えて北朝鮮大使館に連れてこられたんです。ちょうど雨が降ってきて、検問所に人がいなかった。警察の目に留まるだけでも危険なのに…急いで他のホテルに行きました。そこでちょっと仮眠して、朝7時半に韓国大使館に電話しました。ホテルのオーナーと大使館に電話して、ホテルで用意してくれたタクシーに乗って大使館に行きました。タクシーが大使館の中に入って「助かった」と思った。雨が降らなかったら、北朝鮮大使館に捕まっていたかもしれません。連れ戻されたら終わってた。

──北朝鮮の記憶はどんなものですか?

7歳ぐらいから覚えています。私たちの集落は国境近くで、幼かったからよく分からないけど、私が知る限りでは、飢えて死ぬことはありませんでしたよ。飢えた子供はいたかもしれませんが、餓え死にすることはありませんでした。私の生まれる前もそうだったと聞きました。私は1カ月ほど、他の地域に住んだこともありますけど、そこでは草粥を食べていたし、農業もできませんでした。食糧のない季節がありました。秋が一番良くて、冬もまあまあ。春にも山菜が少し生えるからいいけど、夏は草粥を食べるしかないんです。

──生まれる前の話を聞いたことがありますか?

人々は過ぎ去ったことを振り返らないのです。人がたくさん死んだ。いいことじゃないでしょう。思い出すのが嫌なのです。「苦難の行軍」(訳注:1990年代後半に北朝鮮で食糧難だったとされる時期)もここに来て知りました。

──韓国や外国については何を知っていましたか?

北朝鮮の人は中国が経済発展しているとみんな知っている。ところが無視して「昔は北朝鮮より貧しかった」と言っている。それでも心の中では経済を認めている。昔は、アメリカも金持ちだと認めませんでした。ところが、今は韓国も経済発展していると認めている人が多いです。口に出して言えないだけ。私の場合は、韓国ドラマをたくさん見ました。

──韓国ドラマはどうやって見ましたか?

母が中国で外付けハードディスクを買ってくれました。私はコンピューターに興味があったので、自分用のパソコンも持っていました。中国の遠い親戚が、土地をいっぱい持っていて金持ちなんだそうです。壊れるとまた買ってくれました。USBは韓国製を使っていました。中国でインターネットからダウンロードしたものをみました。「木蘭ビデオ」とロゴが入ったもの。

北朝鮮製のOS「赤い星」では、韓国のCDやUSBはブロックされて使えない。だからWindows XPを使っていました。ノートパソコンも韓国製だから、CDもUSBも使えました。外付けハードディスクにも「宮廷女官チャングムの誓い」「朱蒙」「怪物」などをダウンロードして3年間見ていましたけど、ばれませんでした。ノートパソコンがなぜいいかというと、パッと閉じてUSBを抜いて布団をかければいいから。近所の人はみんな顔見知りだから、布団まで引っ剥がされることはないですし。

──北朝鮮では、外国のドラマや映画を一番たくさん見るのが保衛部員という話も聞きました。没収したものをすべて見るから、と。

そうです。保衛部が悪いこと、いちばんやってますよ。

──韓国の音楽も聞きましたか?

音楽はあまり聞いたことがないんです。小さい子たちは、音楽をあまり聞かないでしょう。 北朝鮮の子供たちは音楽にあまり興味がない。中国ドラマに出てくる歌をたくさん聞きました。北朝鮮で歌を聞く場合、テレビにCDを入れて聞くんです。MP3プレーヤーは大きな男の子が持っていますが、パソコンと一緒です。中国製はすごく小さいのに、北朝鮮製はすごく大きくて、イヤホン差し込むだけでノイズが大きくて「ブブブ」とゲーム機の音が鳴ります。歌が聞こえなくて、最悪ですよ。

平壌にも住んでいたことがありますが、韓国の歌を聞いたことがあります。ユン・ドヒョンの「私は蝶」とアン・ジェウクの「友達」。老人がチャン・ユンジョンの歌を聴くのも見ました。あるとき、道で若者が携帯電話で音楽を聴いていましたけど、韓国語が出てきました。平壌のその若者はアン・ジェウクの「友達」を聴いていたんです。また、少し前に(合同修学旅行に行った)高校の先輩が歌を歌ったんですが、私が北朝鮮で何も知らずに聴いていた歌だったんです。歌詞をインターネットで調べたら「私は蝶」でした。

──知らずに見聞きしていたものが多かったのでは?

母が「チャングム」を見せてくれた時は、北朝鮮の映画と思っていました。北朝鮮は時代劇をたくさん作っていますから。時代劇の言葉は北朝鮮の標準語に似ています。だから全く韓国ドラマだと思わなかったんです。

北朝鮮にいる時は、学校に行けばみんな北朝鮮人だけど、帰宅したら韓国ドラマを見る韓国人になりました。だからといって韓国に行きたいと思ったことはありません。家が貧しかったわけでもないし「映画、とてもよくできている。いいな」と思うことはありましたが、だから北朝鮮が悪いとは思いませんでした。北朝鮮は映画のセットだけは上手ですから。だから韓国ドラマもうまく作ったんだろうと思っていましたが、どうやら現実もそうだったみたい。

──韓国に来てから、どのように暮らしていましたか?

ハナ院を出てここに来る前に、別の学校に通っていました。英語で授業する学校でしたが、その時、中1でしたが、未来について全然考えなかった。授業もすべて英語だったからストレスがたまって、今だったらお金を払ってでも勉強しようと思っただろうから、あと2年通っておけば、と後悔もしています。同級生も差別ではないけど無視されたりもして大変でした。この学校で一番良いのは友達。同じ故郷の友達が何人かいます。

──今、学校生活はどうですか?

授業や宿泊行事が気に入ってます。普通の学校とは違って生徒が北朝鮮人だから、親近感もあります。中国の子も韓国の子も初めはみんな辛かったんですよ。中国の子たちは、自分たちだけ中国語で喋る。生活でもぶつかることがあったけど。北朝鮮の子は、洗濯が嫌いなんです。僕も嫌いだったけどそこは改めました。中国の子たちは、中国でたくさん洗濯をしているから、ずっと僕らを「汚い」と言っていました。

──夢は何ですか?

今はコンピューターのエンジニアだけど、北朝鮮の子供たちも助けたい。まずは一生懸命勉強して、大学に行ってコンピューターをやるか、芸術をやるか考えればいいと思っています。北朝鮮にはインターネットがないから、LANケーブルが敷かれたら、たくさん仕事があると思う。故郷の友達にコンピューターを教えてあげて、故郷で3Dを作成したい。故郷の地図を描く脱北者がいるらしいです。私は3Dで描いてみたい。自分の家もデザインしました。学校で電算部長なので誕生日の動画を作りましたが、今まで学んだ技術を忘れないようにしないと。今、緊急の課題は検定試験だから。

──韓国に住んでいる脱北者ともたくさん付き合いがあると思いますが、大人たちが覚えている北朝鮮と、自分が覚えている北朝鮮は、どう違うのですか?

大人たちが覚えているのは昔の北朝鮮です。私と一緒にハナ院を出た人の中に、「苦難の行軍」時にロシアに材木の伐採に出ていて脱出した50〜60代の方がいますが、私や他の人の話を「嘘だ」と言う。テレビもビデオレコーダーもあると。ロシアで隠れて暮らしていたから、北朝鮮のことをよく知らないんですよ。それに私が知っていることも、もう北朝鮮の最新情報ではない。ここに来て2年になるから「私のときはこうだった」と言わないと、後輩たちに悪口を言われます。テレビの「今、会いに行きます」に出てくる人は韓国に来て5年、10年以上たっている人ですよね。正しいことも言っているけど、間違っていることも多いですね。私が思うに90%は昔の話をしています。北朝鮮は変化が速く、共産主義は半分ぐらいで、実態は資本主義です。農村に行けば個人所有の田畑を持っていない家はありません。ない家は飢え死にする家。

──統一されると思います?

統一されるでしょう。北朝鮮から来た人はみんな「来年」「来年」と言うけど、私はまだ準備ができていないと思う。早ければ2、3年で、遅くても10年以内には統一するでしょう。私が大学を卒業して、結婚する前に絶対に統一されています。私は平壌で、国境地帯でも聴けない韓国の歌を聴きました。平壌の人の方がより資本主義に染まっているんです。取り締まる側も市民のお金を奪って暮らしているから、(商売をする人々と)共生関係を維持しているんです。脱北したのは自分だけだと思って来てみたら、韓国に2万8千人もいました。北朝鮮が滅ぶ時が来た。地方の境界に見張り小屋を建てて往来を妨害しているけど、歩けばいくらでも他の地方に行ける。国民を止められないんです。僕は最初、脱北して中国にいたときも金正恩を支持していた。母に言われて行くんだから、国を裏切ったわけではない。そう思って来てみたら悪い奴だった。僕みたいな15歳に悪口を言われる大人がどこにいますか。単純に統一されると、僕は思っています。

韓国は北朝鮮に興味がないでしょう。自分の暮らしに忙しくて、北朝鮮について考えるのはニュースを見たときだけ。教会の友人も北朝鮮について考えるのは祈るときだけみたいで寂しかった。ところが私も韓国に長く住むと、北朝鮮を忘れてしまう。だからここ(写真で持っている円筒)に友達の名前を書いておきました。忘れてしまいそうで。

「私たちは違う」と認めれば、同じ部分も見えてくる

キム・イェリン 18歳、韓国籍 高校2年

生徒総会のような全校行事があると、イェリンが国歌、校歌の伴奏を務める。

──どうして脱北者の学校に通っているんですか?

お父さんが「統一について勉強してみないか」と言ったので。私は最初、絶対に嫌だと思いました。全く考えたことのないテーマだったので。ところが、考えてみると、まったく遠い問題ではなかった。私は海外に行くことが多かったけど、そのたびに「韓国はまだ分断国家だろう」と質問されました。ところが、この学校に来るまでは、統一について具体的な情報もなくて、ただ「そう、分断国家です」とだけ答えていました。

私が外国で会った友人は、言葉も通じなくて、髪の色も違い、肌の色も違うのに、とても仲良くなれたんです。だからこの学校に来たときも、ある程度覚悟はしていましたが、違わないと思っていたのに、会ってみると壁を感じるんです。あまりに大変で先生をつかまえて泣いたりもしました。でも「私たちは違う」と認めれば、同じ部分も見えてくるんですよ。

──どのようなことが?

細かいことですよ。お手玉とか、韓国人がするもの。

──学校を卒業したあとの目標は何ですか?

留学を準備していますが、韓国の大学より、アメリカの大学で正しい考え方を学びたいと思います。特に大きな研究をするためにアメリカに行くのではないんです。大学を卒業してからはNGOの仕事をしたい。ネパールのような地震の救援に行ったり、誤った教育を正したりしたい。教育は人を成功させる重要な仕事ですが、韓国では考える人ではなく、ただ勉強する機械を造っているだけなので。

──統一はできるでしょうか?

はい、ぜひできればいいですね。漠然と考えていたけど、できると思います。誰もわからないことだから。私は、すべて混ぜこぜにするのでなければ統一しても何の意味ないと思うんですよ。北朝鮮の子が韓国の学校に行くことは多くても、韓国の子が北朝鮮の学校に行くことはほとんどないでしょう。多くの人は「私が勉強できなくてここに来た」と思っていますが、私はここの勉強は本当に価値があると思いますよ。私が生きている時代に解決する問題なので、自ら飛び込まなければ解決できないと思います。

──統一されれば何をしたいですか?

──友人の故郷にある百貨店に行ってみたい。そこの服はすごく高いそうです。ハンチョルが田舎に住んでいたそうなので、そこも行ってみたい。平壌が一番気になります。

この記事はハフポスト韓国版に掲載されたものを翻訳しました。

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