音を聞くと、色が見える。「共感覚」を持つ人は世界をこう感じている(動画)

「色を聞いた!」と、私はその時思った。

1960年、抽象表現主義者のイブ・クラインがシンフォニー(交響曲)を指揮した。クラインは色を商標登録したり、キャンバスだけでなく被写体女性の体にも色を塗ったりすることで有名だ。

彼が創作したほとんどの作品と同様に、シンフォニーは観客(今回の場合は聴衆) にとって、感覚的な体験ができるように構成された。絵を描くときに青の色合いを使うことで有名なクラインだが、シンフォニーではその青色を音で表現し、聴覚で届けようとした。各パートが音を音を奏でるユニゾンで演奏されるオーケストラを聴くことは、ぞくぞくさせるほど活気に満ちた、まるで深海のような青色を見ることと理論上は同じ効果を持っているはずだ。

2013年の演奏 ”単調と静寂のシンフォニー” が、YouTubeで視聴できる。最初の3分11秒を見れば、趣旨がつかむことができるだろう。本来の演奏はもっと長く、後に静寂の時間が入っている。

開始30秒ほどで、私は頭がぼんやりした。楽器の振動は、まるで背後のノイズの刻みが大きくなったかのように融合して、長く包み込むような低いうなりとなった。私は、音を色として体感すると知っていたので、目を閉じ、頭をすっきりさせた。ところが、私が注意深く聞いていた時に現れた色は、黄色だった。黄色は、私が不快な音を聴くときに思い起こす色である。シンフォニーで意図されていた青色ではなかった。

また「Great Big Story」により製作された新たな動画は、共感覚(ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じる一部の人にみられる特殊な知覚現象)を持つ人の経験を調査した。彼らのほとんどがこの現象に感謝しており、「共感覚が無ければ、人生は“より空虚”なものになっていただろう」と発言した。

この動画は、私たちが、特定の数や色に対して文化的関係性をすぐに想起することと、共感覚との違いを区別することがいかに難しいかを強調した。

例えば、インタビューを受けたある女性は、6という数字を見ると、気のあるそぶりを見せる女性を思い起こすと言った。これは本当に、彼女の感覚を次々に刺激する共感覚の例と言えるだろうか? あるいは、まったく異なる2つのシンボルの間に、素早く関係性を導きだす彼女の能力が影響しているのだろうか?

「シックス」(six) は、子音が1つ変われば不道徳な意味を持つ(sex=セックス)という意味で、文化的関連を持つ数字だ。では、「シックス」を、社会的に嫌われた腹黒い女と似ていると考えるのは、飛躍しすぎだろうか?

「シックス」に対する不道徳なイメージの代わりとして、言外の意味を持つ数字に変えたとしても、「ワン」(1) がにょろにょろと這う蛇、「セブン」 (7)が神聖なもの、という風に、それは共感覚ではなく隠喩的なスピーチの行為だ。

事実、この2つの違いは1698年の時点で混合されており、ジョン・ロックは、緋色はトランペットのような音がすると信じ込む盲目の男性について書いていた。彼は本当に音を通じて色を体験したのだろうか、あるいは“創造的な推定”をしていたのだろうか?

より真実味のある共感覚の体験とは、数字を色で塗り分ける傾向や、形状や色を肉体的苦痛の経験へと関連づける傾向のことだろう。動画の中で何人かは「数字の3は青色だ」や「バンジョーという楽器は、オレオのような味がする」といった考えにふけっていた。

共感覚を持っているいないに関わらず、人は自分自身で音の色を引き出すことができる。私が ”単調と静寂のシンフォニー” を聞いた時にそうしたように。その体験によって、世界が鮮明に感じられるものであることは確かなのだ。

この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。

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