「なんでも勉強しておけば、いつか必ず役に立つ」101歳の報道写真家・笹本恒子さんが教えてくれること

現在、101歳の笹本恒子(ささもと・つねこ)さんは、戦中・戦後の日本をカメラで記録し続けてきた日本初の女性報道写真家だ。

1914(大正3)年、東京生まれ。現在、101歳の笹本恒子(ささもと・つねこ)さんは、戦中・戦後の日本をカメラで記録し続けてきた日本初の女性報道写真家だ。

戦前、画家を夢見ていた少女は、絵筆をカメラに持ち替えた。「男性ができる仕事が、女性にできないわけがない」という信念を胸に、笹本さんはめまぐるしく変転する社会情勢の中でもしなやかに、たくましく、自分の居場所を作り出してきた。

現在は緑豊かな鎌倉の住居型老人ホームで暮らす笹本さんに、働く女性のパイオニアとしての歩みについて振り返ってもらった。

■「報道写真家」と聞いてパチパチパチッと頭の中で音がした

――ご自身の来し方を振り返った『好奇心ガール、いま101歳』(小学館文庫)によると、少女時代は画家志望だったそうですね。

そう、本当は絵描きになりたかったの。でも父は「女の絵描きなんてとんでもない。そもそも食べていけるはずがない!」と大反対。仕方なく一度は高等専門学校の家政科に入学したけれど、やっぱり絵は諦めきれずに親に無断で退学届を出してしまいました。そして改めて、洋裁学校に入り直して洋裁の技術を身に付け、親戚の洋裁店を手伝いながら、絵画研究所の夜間部に通いました。父に内緒で母がこっそり通わせくれたのです。それが20代前半の頃。

そんな生活の中で、知り合いだった毎日新聞(当時の東京日日新聞)の社会部長さんが「社会面のカット(挿絵)を描いてみないか」と声をかけてくれました。これは嬉しいと思って張り切って描かせていただいていました。ところが、ある日のこと、私が描いたものじゃないカットが掲載されていて。

それで友達に「私の代わりに、棟方志功っていう人が描いたカットが載っていたのよ」と話したら、「そりゃあ、太刀打ちならないよ。あっちは版画の大家だもの!」と言われてしまって(笑)。

恰好のアルバイトを失ってがっかりしていた矢先、同じ毎日新聞の方が「うちの社会部にいた林謙一というのが、海外に写真を配信する日本初のフォト・エージェントを作ったんだよ。ちょっと事務所を覗いてみれば?」と勧めてくださいました。

――1939(昭和14)年、日中戦争の真っ最中に設立された「財団法人写真協会」ですね。

それで、その足で事務所に伺いました。そうしたら中国戦地での特派員の経験がある林さんが、「戦時下ではいかに情報宣伝が大切か」「報道写真の使命とは」といったことを熱く語ってくださって。

そこで生まれて初めて、六つ切り(254×203ミリ)の写真を見たの。それまでは写真といったらキャビネ判 (127×178ミリ)しか知らなかったから、その迫力にもうびっくり。林さんはムッソリーニやヒトラーが写っている写真を次々と見せてくれて、「これが報道写真というものですよ」「アメリカではマーガレット・バーク=ホワイトという女性の写真家も活躍している。彼女は(写真雑誌)『ライフ』誌の表紙も撮っていますよ」と教えてくださいました。

その言葉を聞いた瞬間、頭の中で"パチパチパチッ!"って音がしたのよ。あんなに大きな写真を、『ライフ』の表紙を女性の写真家が撮ったなんて!と衝撃を受けてしまった。兄がアメリカかぶれだったので、うちにも『ライフ』の雑誌があったんですよ。

さらに林さんはいきなり「日本には報道写真家がまだ少ない。ましてや女性なんて一人もいない。どうですあなた、日本初の女性報道写真家になってみませんか?」と言い出されて。

――写真撮影の経験はあったんですか?

カメラなんてほとんど持ったことがなかったですよ(笑)。こんなこと言ったら失礼ですけど、当時は絵を描いている人たちは、写真のことをバカにしてました。実物そっくりな絵を描いたりしたら、「それじゃあ写真屋の下働きじゃないか」って悪口を言われるくらい。絵というのは自分でデフォルメして描くものですから。

でもマーガレット・バーク=ホワイトの話を聞いた瞬間、自分の中でドキーン! と来るものがあったの。「それならば、わたくしがやってみようか」と決意しました。

■英語も話せるお嬢さんカメラマンとして大活躍

――1939年、財団法人写真協会にカメラマンとして働き始めたとき、笹本さんは25歳の独身。当時「女は結婚して家庭に入るべき」という家族からの重圧はありませんでしたか?

それは母の存在が大きいわね。うちの母は、おおらかさで抜きん出た人だったの。親戚からお見合い写真が送られて来ても、「別にお見合いなんてしなくていい」と突き返していたし、「好きなようにしなさい。絵を描きたいなら描けばいいし、いい人がいたら結婚すればいい」と言ってくれて。当時としてはものすごく進んだ考え方をしている女性でしたね。一体どこで身に付けたのかしら?(笑)

そうは言っても「報道写真家」なんて未知の仕事を父や兄が許してくれるはずありませんから、「写真整理のお手伝いに行く」という名目で両親の許可を得て、こっそり報道写真家としての道を歩み始めたんです。

――最大の味方だったお母様は?

私が写真協会に通い始めて数カ月後、母は心臓喘息という病気で逝ってしまいました。私もいったん休職して、つきっきりで看病していたんですけど、毎晩毎晩、夜の10時、11時頃になってくると苦しがって、お医者さんを電話で呼んで注射してもらっての繰り返しで......。片時も目が離せませんでしたね。時々、逃げ出したくなったりもしましたよ。やっぱりね。

――休職の後、1940年から本格的に仕事をするようになった日々について本に描かれています。絵画で養った美的センスと生来の度胸を武器に、写真家として成長していく過程はとても痛快です。海外使節団の撮影も多かったそうですね。

そうそう、海外使節団の撮影で、男の人がカメラを持って大勢集まっているのに、シャッターチャンスを逃しても誰も口を開かない。それで私が思い切って偉い人のところへ行って、「エクスキューズミー」と下手な英語で、もう一回撮らせてくれないか、とお願いしたら、その噂が広がってしまって。「あのお嬢さんは英語が喋れるぞ」「外人さんの撮影はあの子に任せよう」ってことになったというわけです。

下手ながらも英語が話せるようになったのは、女学校時代の英語の先生のおかげ。私が通っていた女学校にはイギリスと日本のハーフの英語の先生がいらして、先生がとても熱心に「生きた英会話」を教えてくださったの。駆け出し時代はもちろん、戦争が終わってまたたくさん海外から人が来日したときは、それが役に立ちましたね。

人間っていうのは無理をしてでもなんでも勉強しておけば、いつか必ず役に立つものです。

部屋に飾られた絵画

——日本初の女性報道写真家として、注目された部分もありましたか?

あるとき『婦人公論』という雑誌が「日本初の女性報道写真家を撮らせてほしい」と取材に来ました。上司に何度も断ってもらいましたが、どうしてもと粘られて、仕方がないから撮影することになったんですけど、私は顔を見せたくないから必死でカメラで顔を隠したりして(笑)。もちろん「それじゃ駄目です」と怒られて、顔を出して雑誌に掲載されてしまって。

掲載誌は、父に見つからないように戸棚の奥に隠したのだけれど、親戚から「つねちゃん、すごい仕事してるねえ!」って電話がかかってきて。写真に添えられた文章がまた大仰で、「内閣情報部写真部の一員として、その敏腕を馳せている......」なんて。叔父たち、面食らってたわ(笑)。当然、父や兄にも知られてしまって「何してるんだ!」って大騒ぎに。

結局は家族の猛反対に抗えず、涙をこらえて写真協会に退職届を出しました。

報道写真家としてスタートを切ってわずか1年あまり。素晴らしい仲間にも恵まれた、本当に濃密な1年でした。もっと撮りたいという気持ちは、強くありましたから断腸の思いでしたね。また撮れるようになるのはそれから約6年後、戦争が終わってからのことです。

千葉新聞の記者、婦人民主新聞の嘱託職員といった助走期間を経て、1947年からようやくフリーで活動を始めました。

(後編は、1月4日に掲載予定です)

笹本恒子(ささもと・つねこ)

1914年東京都生まれ。40年、財団法人写真協会に入社、日本初の女性報道写真家としての道を歩み始める。戦後はフリーのフォトジャーナリストとして活躍。一時現場を離れるが、85年、写真展開催を機に71歳で復帰。2011年、吉川英治文化賞、日本写真協会賞功労賞、2014年ベストドレッサー賞特別賞を受賞。

笹本さんの最新刊、波乱万丈の半生と100歳を迎えてから入居した老人ホームでの日々を綴った『好奇心ガール、いま101歳 しあわせな長生きのヒント』(小学館刊)が発売中。

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(取材・文 阿部花恵)

撮影協力/株式会社学研ココファン

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