3分で分かるキューバの歴史 アメリカ大統領が88年ぶり訪問へ

なぜ88年ぶりなのか。その歴史的な背景を4つのキーワードで探ってみた。

アメリカのオバマ大統領は2月19日、国交を回復したキューバを訪れ、ラウル・カストロ国家評議会議長と会談すると発表した。日程は3月21日から2日間で、ミシェル夫人も同行する予定。BBCによるとアメリカの大統領がキューバを訪問するのは史上2回目で、1928年のクーリッジ大統領以来88年ぶりとなる。

オバマ大統領はTwitterで、「来月キューバを訪問する。キューバ国民の生活向上を目指す努力をさらに推し進めるためだ」と投稿した。ホワイトハウスは今回の訪問が、オバマ外交の最大実績の一つに数えるべき、「ベルリンの壁」崩壊に匹敵するような瞬間になるとしている。

なぜ88年間も大統領訪問がなかったのか。その歴史的な背景を探ってみた。

■アメリカの保護国としての「キューバ独立」

中央の青色がキューバ。アメリカの裏庭のような位置にあることが分かる

キューバは東西の長さが1200キロほどキューバ島を主な国土とした島国だ。面積は約11万平方キロなので本州の半分程度。アメリカのフロリダ半島とは150キロほどしか離れていない。2014年時点の人口は約1126万人で、東京都よりちょっと少ないくらいだ。公用語はスペイン語で、全住民の約60%がスペイン系白人と黒人が混血した「ムラトー」と言われている。

日本大百科全書によると1492年にクリストファー・コロンブスが「発見」して以降、スペインの植民地となった。苛酷な強制労働とスペイン人が持ち込んだ未体験の病気のために、先住民は急激に人口を減らし、労働力としてアフリカから黒人奴隷が導入された。

植民地生まれのスペイン系白人「クリオーリョ」たちは、19世紀になるとスペインに対して独立運動を展開した。1898年の米西戦争でスペインがアメリカに敗北したことで、キューバは1902年にスペインから悲願の独立を達成したが、それはアメリカの保護国としてだった。キューバ南東部にあるグアンタナモは、現在に至るまでアメリカ海軍の基地として租借されることになった。

莫大なアメリカ資本の投下によって鉄道と道路が建設され、キューバ経済の中心であったサトウキビの生産が拡大し、砂糖のモノカルチャーでアメリカ市場に依存した経済構造ができあがった。同時にアメリカ資本と結び付いた一部勢力が富を独占する、貧富の格差の大きい社会となっていた。

■社会主義国となった「キューバ革命」

1960年5月5日に首都ハバナを行進するフィデル・カストロ(左端)と、チェ・ゲバラ(中央)

第二次大戦後の1952年に軍事クーデターによって政権に復帰したフルヘンシオ・バティスタは、これまでの政権同様に親米政策をとり、アメリカからの援助をうけつつ独裁体制の強化を図っていた。

これに対してフィデル・カストロとラウル・カストロの兄弟や、アルゼンチン生まれの医者チェ・ゲバラらが中心になって武装闘争を起こした。1959年1月1日にバチスタ政権を打倒した。これが、キューバ革命だ。

フィデル・カストロ首相も当初は、訪米してニクソン副大統領と会談するなど、アメリカと友好的な関係を求めていた。しかし、農地改革の過程でキューバの大半を占めていたアメリカ系企業の土地を接収したため激しく対立。アメリカはキューバの主要産業である砂糖の輸入を停止し、キューバはアメリカ系企業の国有化で対抗した。

当時は米ソ冷戦のさなかだったため、キューバを取り込もうとしたソ連は砂糖の買い付けなど経済協力を申し出た。キューバが急速にソ連に接近したため、アメリカは1961年にキューバとの国交断絶を通告。アメリカが支援する反革命部隊が武力侵攻するピッグス湾事件が起きた。

フィデル・カストロは社会主義革命を宣言し、キューバは共産党による一党独裁体制となった。こうしてキューバは、ソ連を中核とする社会主義陣営の一員となった。

■核戦争の一歩手前だった「キューバ危機」

キューバでミサイルが発見されたことを受けて、軍幹部らと会談するケネディ大統領(右端)

こうした緊張関係の中で起きた事件が「キューバ危機」だ。アメリカとソ連の両国が対決寸前にまでいき、核戦争の瀬戸際となった。

キューバに攻撃用ミサイルが設置されているのを確認したアメリカのケネディ大統領は、1962年10月22日、ソ連に対して、ミサイルがさらに搬入されるのを阻止するためキューバを海上封鎖することを通知するとともに、ただちにキューバのミサイルを撤去することを要求した。

ソ連はこの要求を拒否・キューバも海上封鎖は「主権に対する侵害」だとして非難した。こうして10月24日、アメリカによるキューバの海上封鎖が開始され、米ソは衝突寸前にまでいった。

しかしソ連のフルシチョフ首相からの申入れで交渉が行われ、アメリカがキューバへ侵攻しないことを条件に、ソ連がミサイルを撤去することに同意したため、この危機は回避された。

■54年ぶりの国交正常化「キューバの雪融け」

2015年4月11日、パナマで開催された首脳会談で握手するアメリカのオバマ大統領(写真右)とキューバのラウル・カストロ議長(同左)

キューバの砂糖は国際価格より高い値段でソ連が買い入れ、同時に原油をソ連が国際価格より安くキューバに売り渡すなど、ソ連の事実上の衛星国として存続していた。しかし、1991年のソ連崩壊でバックを失ったことで、経済も壊滅的な打撃を受けることになった。

社会主義体制を保持しながらも1990年代半ば以降は経済の自由化政策によって経済活動の一部に外国資本を導入し、私有企業を認めるなど改革を進めた。

2008年2月には国家評議会議長だったフィデル・カストロが退任し、弟のラウル・カストロが後を継いだ。ラウルはアメリカとの関係改善を模索した。約1年半にわたる水面下での交渉を経てアメリカとキューバは2015年7月20日、54年ぶりに国交を回復。お互いの首都に、大使館を設置した。これは「キューバの雪融け」と呼ばれている。

2014年12月にはアメリカのオバマ大統領は以下のように演説して、キューバ政策を180度転換させる考えを示していた

アメリカの外交政策で賞味期限が切れたものがあったとすれば、それは対キューバ政策だ。(中略)我々のほとんどが生まれる前にとられた、かたくな政策は、アメリカ人だけでなくキューバ人にとっても役に立つものではない。新たな序章の始まりだ。

ただし課題は残っている。国交は回復したものの、関係は正常化していないというのが両国政府の見解だ。アメリカの対キューバ禁輸措置の全面解除やキューバの人権状況改善などの課題を巡って、オバマ大統領のキューバ訪問でどこまで話し合われるかが注目される。

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