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【東京マラソン】副島正純さんが車いすマラソンの第一人者になれた理由「競技をやってる瞬間は...」

2016年02月26日 22時26分 JST | 更新 2016年02月26日 22時36分 JST

「一生車いすで、2度と歩けませんよ」

20代で突然、大きな事故に遭い、医者からそう告げられたら、あなたはどう思うだろうか。そんな実体験を語ってくれたのは、車いすマラソンの第一人者で東京マラソンの車いすレースディレクター・副島正純(そえじま・まさずみ)さんだ。

副島さんは2004年のアテネ・パラリンピックの車いすリレーで銅メダルを獲得。北京・ロンドンのパラリンピックにも出場し、車いすマラソンではボストンマラソン、ベルリンマラソン、ニューヨークシティマラソンで優勝するなど世界トップクラスのアスリートだ。

副島さんはどうやって車いすレースと出会ったのか。人生を変えたパラリンピックの瞬間とは? 10回目の東京マラソン出場を控えた副島さんに、これまでの歩みと抱負を聞いた。

soejima

■ある日突然、作業中の事故で脊髄損傷

――副島さんは家業の仕事をしていた時に、事故に遭われたそうですね。当時のことを教えていただけますか?

1994年、もう22年前になりますが、家業の鉄工所で作業をしているときの事故でした。作業中に300キロの鉄板の下敷きになって、そのときに背骨を負傷して脊髄を損傷しました。それから車いすの生活になったんです。

ケガをした瞬間から、その後救急病院に運ばれて手術をするまで、ずっと意識がありました。腰から下の血の気が一瞬で抜けて、みぞおちから下が全くもって動かなかった。動かないイメージを伝えづらいですが、寝返りを打とうと思っても、下半身は鉛のように重力とともにある感じで、そのまま体をよじっても上半身しか動かない。

何が何だか訳が分からない状態でしたけど、瞬間的に普通の怪我ではないと感じました。

——事故の瞬間に?

そうです。そういう認識は自分の中でありました。だから「一生車いすで、2度と歩けませんよ」という風に(医者に)いわれたときに、「やっぱ、そうだ」と納得ができました。

■今まで経験したことのないリハビリの日々

――それほど大きな事故だったんですね。リハビリも大変だったのでは?

僕は長崎で怪我をして、8カ月間入院しました。みなさんはリハビリというと、足を動かすとか、体を動かすことを思い浮かべるかもしれません。僕は、1カ月以上ベッドに横たわる状態が続いていたので、まずは体を起こすところから始めました。

普通だと、朝起きて「おはよう」って体を起こしますけど、それができないんです。僕はベッドの背もたれの角度をちょっとずつ上げて、その角度になれることから始めました。今日はこのぐらい、今日はこのぐらいって、角度を上げていき、何日もかけて座ることに慣れて行きました。

ご飯を食べることも、最初の頃は、寝たままの状態でしたので、ガラス越しにある食事を、ホースでちょっとずつ吸っていくみたいな、そういう状態から始まりました。

――本当に少しずつ。大変なリハビリ生活だったんですね。

そのときは、いろんなものがショックで。すべてにおいて今まで経験したことがないことばかりだったし、そうしないと生きていけないっていうのが、すごくショックでした。

soejima

リハビリで、ベッドの背もたれの角度を30度から45度とかに、少しずつあげて座ることに慣れていくんですが、ちょっとずつ角度が上がって、人の顔が見えるようになってきたときも、自分では真っ直ぐベッドの上に座っているつもりでも、体がかなりゆがんでいたりとか。

そのうち体を起こせるようになってきて、ベッドから車いすに乗せてもらったんです。看護師さんや家族がちょっとずつ車いすを動かしてくれ、そして自分でも車いす動く練習をするんですけど、そういうリハビリをして自分で車いすに乗れるようになってからは、割と自分のことは自分でできるようになりました。

■副島さんの人生を変えた、車いすレースとの出会い

――車いすレースに出会ったのはいつですか? 何かきっかけが?

7月に怪我をして、次の年の3月末まで長崎で入院し、その後4月から10月まで大阪の病院に入院したんです。京都で看護師をやっている姉が、大阪に車いすの人専門の病棟がある病院があるよと紹介してくれて。そこにリハビリ入院をしました。

そこは当時、一病棟に53人の車いすの人がいて、僕より状態の悪い人や新しい患者さんがドンドン入院してきたんです。僕や他の友達もそうでしたけど、ある程度動ける人間は、できるだけ先輩として声をかけてあげてほしい、と新しい人の隣のベッドになるように看護師さんに配慮されていました。まだ手術をしたばかりで落ち込んでいる人たちと一緒の部屋になって、よくいろんな話をしました。

その中で、僕の人生はすごく変わりました。車いすマラソンや陸上に出会ったのも、大阪に入院していたときに友だちが紹介してくれたからなんです。

――病院で出会った友だちですか?

4月末ぐらいに退院した1つ上の先輩で、1カ月ぐらいしか入院期間はかぶってないんですけど、すごく元気な人でした。退院してすぐに、陸上を始めるから見に来ないかと。24時間テレビのイベントに出るから一緒に出ようといってくれて、神戸のイベントに一緒に出ました。

それで陸上に興味を持ちました。10月まで大阪にいましたが、(長崎に)帰ってすぐ、先輩たちの使ってない車いすを借りて練習を始めました。

――初めて、車いすレースの世界を知ってどう感じましたか? 

楽しかったです。怪我をしたことで、元気だった自分が何もできなくなってしまったと感じていました。失うものが多かったし、希望というか、そういうものを全く持てなかった時期がありました。病院から出たとしても、これから先どうしようとか、本当に絶望感というか。病院のベッドの上って不安しかなかった。

でも、競技をやってる瞬間って、そういう不安な思いを考えることがないんです。

みなさんもそうだと思うんですけど、スポーツやってるときって、それだけに集中できるし、真っ白になれるじゃないですか。その時間がすごく楽しくて好きだったので、どんどんのめり込んでいきました。

■車いすレース、競技生活と仕事の両立

――プロフィールを拝見すると、レースを始めたら、みるみる成績が伸びていったように見えますが……。

そんなことはありません。最初は、速度を出すことも難しかったし、先輩たちについて行けなかった。まずは先輩たちについて行くのが、一番の目標で。最初の1年間は仕事もなくて時間だけはあったので、とりあえず毎日練習するようになりました。

それで先輩について行けるようになって、もっと速くなりたい、勝ってみたい、っていうのが自分の目標になっていって。最終的に日本で一番速くなってみたいと思いました。ちょっとずつ上を目指す、そういうところからです。

――実際に車いすレースの競技を始められて、どんな生活になりましたか?

遠征というか、試合に出るにもガソリン代や渡航費がかかりますし、国内のレースに出場するにしてもお金がかかります。車いす自体も買うと70〜80万円するので、すごくお金がかかるんです。とにかく競技費用がかかりました。

競技を始めて1年目はまだ競技にかける費用もありましたので、練習もしっかりとできていました。しかし、いつまでも競技費用や生活を親に頼るわけにもいかない。2年目、3年目は、その当時25歳くらいだったのですが、レースのお金を作るために、生活するために、仕事をしなければなりませんでした。

――どんな仕事を?

就職先をなかなか長崎では見つけられなくて、福岡で就職しました。車いすを販売する営業の仕事を始めたんですけど、お客さん仕事なので、練習の時間が作れなくて、結果を出せなくなっていきました。

1、2年目に、どんどんタイムが伸びていったので、すごいなっていう手応えはあったんですけど、そこから5年くらいはギリギリキープというか、全然伸びなかったですね。

■「自分もパラリンピックに行こう」正社員をやめて練習に専念

――生活の糧で働くことも大事ですが、レースの成績も上げたい。

その葛藤はありました。走るのはやめたくなかったので、時間を見つけて練習はしてたんです。それでも国内の大会で30位ぐらいから上がりきれず、ある意味、普通の選手という感じでした。

30歳のときに2000年のシドニー・パラリンピックがありました。そこで自分が一緒に練習をしたことがある選手がメダルを獲ったんです。それがすごく刺激になり、それから自分の中で、「自分もパラリンピックに行こう」と目標を持って活動するようになりました。

――パラリンピックが明確な目標になった。

それまで正社員で仕事をしていたんですけど、練習開始時間が夜7時から。9時、10時ぐらいまで外で走って、それからプールに行って泳いだりして夜12時ぐらいまで練習していました。もっとちゃんと昼の時間に練習して、しっかりと休養も取れるようにし、競技結果を残したいと思いパートタイマーに変わりました。

当時はまだ、パラリンピックや障がい者スポーツというものが、企業にもなかなか理解してもらえませんでした。僕もパラリンピックを目指したいので、会社にも応援してほしいとお願いしたのですが、それは無理でした。それだったらとパートタイマーになって、3時半までの仕事にして、それから練習をするようにしたんです。

――練習中心の生活に。

練習時間を確保することで、収入が減り、多くの試合には出場できなくなりました。それでも練習できる方が、ストレスがなくて楽しかったので、とにかくそれで行こうと。出場できる試合が少ない中でも結果を求めて、最終的には、2002年のアジアの大会の車いすマラソンで、金メダルを取ったんです。

――思いきって環境を変えたからこそ、ですね。

それから福岡の新聞だったりテレビだったり、ローカルのメディアが取材してくれるようになりました。そしてどんどん周りの人が知ってくれるようになった。それからちょっとずつ理解してくれる企業が現れ、職場を見つけて、1時間早く切り上げたり、レースの翌日を休ませてもらえたり、競技をしながら働ける環境を作っていった感じです。

そうして、2004年のアテネ・パラリンピックに行って、リレーで銅メダルを取ることができたんです。

soejima

――4年前に思い描いた夢が叶った。お話を聞いていると、練習とレースの競技生活と、仕事の環境を整えていくのは本当に大変なことなのだと分かります。

僕らのサイクルって4年間なんです。4年目がパラリンピックなんですけど、3年目って基本的に予選の期間なんですね。出場枠を取りにいかないといけないので、海外の遠征が増える。4年サイクルの1、2年目ぐらいしか仕事ができなくて、大体パラリンピックに出る前って、みんな無職なんです。

――無職ですか。仕事しながらの挑戦は難しいものなんですね。

スパッと辞めるというよりも、だんだん居場所がなくなって、結局辞めますっていうことになるんです。それで自分の貯蓄から遠征費用をやりくりして、やっとパラリンピックに出ることができて、メダルが取れれば人生変わるんですけど……取れなければ、パラリンピックの翌月ぐらいから就職活動に入るんです。

――シビアですね。

障がい者の仕事ってそうあるわけじゃないので、仕事を探してもらえないかと福岡の人材派遣会社に頼みに行った選手がいました。そしたら、そこの社長が、仕事を探すんじゃなくて、作ろうと。会社の中で業務をやりながら、障がい者スポーツができるようなチームを作ろうという話をしてくれて。そうしてできた「シーズアスリート」に、僕も声をかけてもらって、2005年から9年間お世話になりました。

そこで初めて競技をやることが仕事になって、遠征や合宿も仕事としてやらせてもらいました。そうして2006年、2007年と、どんどん結果が残せるようになっていきました。

■パラリンピックのスタートラインは「気持ち良かった」

――これまで、アテネ、北京、ロンドンと3度のパラリンピックに出場されていますが、ご自身の中で、忘れない瞬間、思い出深い大会はありますか?

パラリンピックは世界最高峰の大会なので、1番目標とする大きな大会です。全部、すべての大会に色んな思いがあるんです。

僕はマラソンではトラブルが多くて、北京では最後の競技場に入る前のコーナーでこけてしまったり、ロンドンのときも選手と接触して止まってしまったり。自分が思ったレース運びができなかったんですけど、2004年のアテネに出られたことは、僕にとってはすごく大きかったです。

――最初の大会ですね。

アテネは、1万メートルとマラソンとリレーに出たんですけど、何よりも1番最初に出た1万メートルのスタートラインに着いたときは、すごく気持ち良かったですね。

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