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震災遺構、保存か解体か 石巻の大川小・門脇小「議論の継続」求める声【「遺す」とは】

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東日本大震災の発生からまもなく5年。宮城県石巻市では、亀山紘市長が3月末までに、市の震災遺構に推されている2つの被災校舎(旧門脇小学校、旧大川小学校)を保存するか解体するかを決める。2月13日には市内で、関係者や住民が市長や担当の市職員の前で意見を述べる初めての公聴会が開かれたが、保存か解体かを超え、議論の場の継続を求める声が相次いだ。【加藤順子、池上正樹】

「公の場での深い議論が不十分だ」「みんなが納得できるようにもっと話し合いの時間を」

2月13日に行われた石巻市の旧門脇小学校と旧大川小学校の2校の震災遺構に関する公聴会では、多くの発言者から、そんな賛否を超える内容の意見が出された。しかし、石巻市の亀山紘市長は、この3月末までには保存か解体かを判断する方針を変えていない。

2つの公聴会後に行われた市長への囲み取材でも、各社から「まだ議論が足りないのではないか?」「議論は尽くされたという認識なのか?」などの質問が集中した。

誰に聞いてみても、十分とは思っていない保存を巡る話し合い。

門脇小の公聴会で意見を述べた震災当時の鈴木洋子元校長は、「保存にしても意見しにしても、主張する人同士がお互いに生の声を聞いたのは初めてだった」と明かす。まさに、そのこと自体がニュースでもあった。

■ 門脇小は、近隣住民の他に当時の6年生や校長も発言

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旧門脇小校舎。主に建物右半分が津波火災の影響が激しい。現在は全体がカバーで覆われ、外から建物を見る事はできなくなっている(撮影・加藤順子)
 
旧門脇小校舎については、事前応募で意見を述べたのは保存を求める立場が4人、解体が2人の計6人。その後3人が飛び入りで保存、解体、その他の立場から意見を述べた。

震災当時まで門脇小の近くに住んでいたという76歳の男性は、「子ども3人が同小を卒業し、思い入れがある」としながらも、解体を求めた。

税金を使った保存には反対で、どうしても保存をするなら、市が算出した保存必要な10億円は募金で集めるべきと考えている。

また、校舎の震災遺構としての価値に触れ、「後世の人が見て、意義を感じるようでなければ遺構としての価値はないと感じます。思うのは、『ああ、津波が来て建物が壊された』とせいぜいその程度」と持論を述べた。

門脇小の近くで40年間自宅を兼ねた建物でラーメン屋を営んできた男性は、保存を求めた。

逃げ遅れた家族2人を亡くし、妻は見つかっていない。震災を何とか後世に伝えなければという思いで自宅の跡地に鉄骨を残し、門脇中生たちと花を植えた。

門脇小には、震災学習コースとして国内だけでなく海外からも人が来るようになった。「これが震災なんだと伝えるものが石巻になくなったらどうするのか? 誰がコレを後世に伝えるのか?」と問いかけた。

震災当時門脇小の校長だった鈴木洋子さんは、全部保存が望ましいとしながらも、住民や費用面を配慮して旧校舎の津波惨状が著しい部分の保存を訴えた。

津波と火災の両方に見舞われた唯一の校舎は「極めて貴重な建物」であり、児童が地域の人と共に高台に避難したことや、教職員と地域の人が校舎に残る住民を救出した当時の様子を物語る「優れた防災教育の学びの場」となると話した。また、日本の学校制度発足と共に作られた同校は、県の歴史遺産でもあると指摘した。

当時門脇小の裏に住んでいたという男性は、「後世に負の遺産を残さない」という観点から校舎の解体を望んだ。

「教科書に5行ないし10行くらいの記述があって写真が1枚か2枚あれば、人間の想像力はそれを補いながら何かをするだろう、学ぶだろうという風に思います」と述べ、校舎付近に整備が予定されている復興祈念公園についても計画を止めるよう求めた。

また、「校舎を残すのであれば」と前置きし、祈念公園の予定地内に残る家屋の基礎はそのまま残し、「そこに街があった。それはどういうことなのか。という事を語り継いでいく方が一石二鳥なのでは?」とも話した。

当時門脇小の6年だった佐藤真歩さんは、保存を願う立場から意見を述べた。

津波で家を失い、父も亡くした。「自分の思い出が数少なくしか残っていない中、自分が通っていた門小(かどしょう)が残っていれば、同級生ともつながりを残っていけると思いますし、母もおじいちゃんも門小を卒業していますので、多くの世代の人とつながれる大事な存在であると思います。廃校になりましたが、その意味でも校舎が後世に残って欲しい」と話した。

また、震災後に引っ越した仙台では、「どう調べたら、門小の事や震災で起きた事を学べば良いのかわからないことがとても多い。学校の授業でも正直ピンとこない事が多く、授業を受けて『いや、こんな感じではなかった』と震災については違いを感じるときもある」と、同じ県内の被災地でも震災観が異なることに驚くことがあると報告した。

最後に、「今回の意見交換だけではなく、これからたくさんの人の意見を聞き合う事で、もっと違う合意の形はあるのではないかなという風にも思っています」と添えて、陳述を終えた。

保存の立場から意見を述べた市内在住の男性は、市内で被災した公共建築物のほとんどが壊されたことを指摘し、「もっと多くの選択肢を残しておき、そこから意見を出して最終的に残すべきものを決めても良かったのではないか」と市に苦言を呈した。

年月をかけて保存を決めた広島の原爆ドームの例や、宮城県が20年間解体を保留とした南三陸市の防災庁舎を例に挙げ、「一つの可能性が見えてきた。解体は簡単だが、決まらないときには良い方法」と提案。校舎は、「予測できない大きな津波から子孫の命を救うために保存するべき」と考えている。

会場で挙手をして意見を述べた阿部桃花さんは、当時6年生だった佐藤真歩さんの同級生。「石巻だけでなく、日本、世界に向けて東日本大震災があったことを発信できる手法ではないか」と、校舎全部の保存を求めた。

昨年末、修学旅行で訪れた神戸市長田区の人から、震災遺構の残し方についてと抱いている思いを聞いた。

「残すなら部分保存ではなく、全部保存が良いのではないかと思います。私たちが経験したことを伝えることこそが防災意識を持たせ、防災教育の一環になるのではないかと思います。現在石巻に住んでいる私たちだけではなく、この先の世代に伝えたいという思いがあるので、ぜひ残して欲しい」

旧校舎付近に整備される予定の復興祈念公園で、県の空間デザイン検討会の委員を務める環境デザイナーの阿部聡史さんが求めたのは、校舎の存廃ではなく、継承の意義や住民への配慮などについて議論を重ねる場づくりだ。

阿部さんはまた、公聴会に先立ち、市が保存や解体の費用の説明をしたことを疑問視。「費用を掛けずに残す」などの新たな選択肢が生まれるかもしれない可能性について、こう語った。

「今までの公共事業というのは、ほとんどが賛成の意見と反対の意見がぶつかり合って、どちらかの意見がかってどちらかが押しつぶされている。その押しつぶされている意見は、ほとんど表に出てこない。どこかで悲しんでいるか、口をふさいでしまっているか。そういう公共事業のあり方というのを、ぼくは門小の問題、大川小の問題、(公園が整備される予定地の)南浜の問題、まちづくりの問題で、どういう風に残していくのかというプロセスを問われている」

議論の先延ばしではなく、「自分たちの町を自分たちで考え、判断し、信じてもらうことはポジティブな意見だ」という思いだ。

門脇小の並びにわずかに残った住宅地にいまも住む男性は、「門脇小学校を残して、はたして何をしたいのか?」と保存に疑問の思いを述べた。

今後整備される新門脇地区には、高台に車で上れる広い道路などのインフラ整備が必要だと訴えた。

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門脇小の内部
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■ 大川小で亡くなった児童の家族が様々な立場から発言

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大川小の旧校舎。新北上川を遡上してきた津波に襲われ体育館が丸ごと流失したり渡り廊下がねじ曲がってよこ倒しになったりした(撮影・加藤順子)

旧大川小校舎については、事前に応募して意見を言ったのは7人。当日、手を挙げて発言したのは5人で、計12人に上った。

当時小学6年の次女を亡くした遺族で元中学教諭の佐藤敏郎さんは、「専門家でさえ論ずることのできない問題を早急に結論づけることは適切ではない」と断じたうえで、こう述べた。

「壊すのは簡単です。当面は保存しつつ、未来を見据えた検討を進めていくべきです。海から4キロ以上の距離がありながら、体育館さえも破壊してしまう。河川津波の威力をあれほど伝える建造物は他にありません。失われた命は戻ってきません。だから、せめてこの場所を未来への学びの場にしてもらいたい」

小学5年当時、大川小にいて津波を被りながら生還した高校1年生の只野哲也さんはビデオを通して、覚悟あるメッセージを伝えた。

「もう少し考える時間があってもいい。なぜなら、まだ心の整理のついていない人が多くいる。校舎を残してほしいと、これまで何十回何百回と話してきた。もう少し、自分たち子どもの声を真剣に聞いてほしい。校舎が残ることで、将来の震災時、1人でも多くの命を救えるよう記憶を風化させずに語り継ぐことができる。たとえ陰で何を言われようとも、未来の命を守れるのなら、俺はどうってことない」

卒業生で当時小学2年の弟を亡くした大学3年の永沼悠斗さんは、母校の大川中学校が突然解体されたことに危機感を募らせ、このままでは記憶が風化してしまうとの思いから意見陳述に応募した。

「大川中学校のようにすぐ壊してしまうことは簡単だと思う。しかし、震災の凄さを目で見て感じ取れる場所は、あの大川小学校しかない。保存することによって、これから先、生きていく上で、私たち若い世代が背負っていく使命は、未来へつなげていくことだと思う。震災から5年が経ち、やっと自分自身も前に1歩進めて、このような場で発言できるようになった。これから先も石巻市のまちづくりを担っていきたい。そのためにも校舎を残すことで、震災を経験したことのない人々の防災意識を高めることに役立てたい」

一方、大川小学校で当時6年の長女を亡くした中学教諭は、メディアの前には出られない多くの遺族の声を聞いてほしいと、こう切々と訴えた。

「遺族の悲しみは一生消えることなく、深い悲しみを一生背負っていく。だとするなら、せめて悲しみにつながるものは取り除きたい。悲しみを想起させ、遺族に苦しみを与える旧大川小校舎は必要ありません。遺族や集う方々の心安らぐ場にしてほしい。津波の恐ろしさを伝え、後世に語り継ぐ方法は他にもあります。命を救うのは教育です。あの校舎ではないと思う。大川小で起きたことの教訓は、教育の世界に身を置く者として必ず生かします。震災遺構の維持管理費は、負の遺産ではなく人々の笑顔を取り戻すことに使って欲しい」

他にも、地域に住んでいた住民は「広島の原爆ドームも当時、生存者のほとんどが撤去を訴えたと聞いている。経費は国が負担して、2度とこのようなことを起こさないためにも校舎を残すべき」と主張した。

続いて発言した児童の遺族は、「校舎が残っていて景色が見える状態が必要。震災の姿そのままに残してほしい。いまは、あの場所でしか会えない人たちもいる。同じ思いを持つ人たちが慰霊に来られる場所になっている。お金の問題ではない。もう少し時間をかけて話し合うことはできないのでしょうか。アンケートが届いた人はほとんどいませんでした。いまは解体する時期ではなく、保存して頂いて、もう少しいろんな形で話し合いをしていきたいと思います」と胸の内を明かした。

他の卒業生たちと一緒に校舎を残してほしいと訴えている、当時小学6年の妹を亡くした佐藤そのみさんは、こう話した。

「校舎は、大川地区を出てバラバラになった人たちにとっての思い出の場所。これから何十年先も、救えたはずの命があったということと、大川地区にこういうことがあったんだと、唯一形のある校舎を通して、私たちのような若い世代が伝え続けていきたい。今すぐ結論を出すのではなく、解体を望む人たちや、いままで出て来られなかった人たちとも話し合いを重ねていきたい」

一方、当日、発言を求めた児童の遺族は、こうマイクを握った。

「親としてできることは、子どもたちや先生、地域の方々を壊れた校舎にもう一度、つらい思いで帰したくない。せめて、きれいに整備して頂きたい。保存ということになったとしても、シートで覆うなどして、つらい親には見えない形で保存して頂きたい。どうしても残すのであれば、親たちが子たちに語り合える静かな環境をつくって、できればそこに建立した慰霊碑を移動してほしい」

家族を学校近くで失った地域の住民も、こう意見した。

「校舎を残すことも大事だけど、自分の町に家が1軒もなくなったつらさがある。そうした遺族の気持ちを考えると、供養しかない。あそこを公園化して、我々町の住民がいつ行っても心が安らぐ、きれいな場所にしてもらいたい。」

他にも、地域の住民からは「校舎を残すとともに、近くに津波防災学習センターを建てて、大川地区にどんな津波が来たのか、子どもたちや防災関係者の学習の場にしてもらいたい」との提案が出された。

学校のある地域の大川地区復興協議会の事務局として議論の場をつくり続けてきた住民は、発言時間を1人5分で鐘を鳴らして制限する進め方に苦言を呈した。

「市や県に予算がなければ国、国がソッポを向くのなら、完成させたい人たちだけで守る。そのくらいの覚悟がある。世界中から寄付してくれている人たちの思いの多くは、防災教育のために残してほしい。予算ありきではなく、震災遺構とはどういうものかの基本に立ち返って議論して頂きたい。検証委員会で5700万円かけて、アンケートで800万円かけて、5分で終わる話ですか?検証委員たちに金返せと言いたい。費用対効果とか予算という理屈に、おだつなよ!(筆者注:ふざけるな!)と言いたい」

小学校の前に住んでいた住民も、こう訴えた。

「年々錆びれていく学校を見るのがつらい。あの辺りはいっぱい遺体があった。私は校庭のほうから、遺体のない所を狙って道を作った。学校があるために、11日(月命日)も観光客がいっぱいで、拝める状況にない。残すのであれば、周りから見えないようにやってもらいたい。後世に残すというのなら、200年も300年も残るようにしてほしい。私は慰霊のために山すその枯れ木を切って、将来、大川小の生徒たち、先生方、釜谷の住民の数だけ桜の木を植えようと思っている」

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大川小の内部
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■「話し合いのキャッチボールがなく、あるのはドッヂボールばかり」

今回の公聴会では、現在高校生や大学生となったそれぞれの学校の卒業生たちが初めて公の場に出てきて、意見を述べるシーンが印象的だった。

2校の公聴会が終わった後、亀山市長は会場内で記者団に答えた。

「今日の公聴会のご意見を踏まえながら、保存、解体の両者の意見が共生できる方向を見出しつつ、3月末までに判断させて頂きたい」

――判断する時期だという理由は?

「まもなく5年になりますので、建物をこのまま放置しておくわけにはいかない。保存するとしたら早めに結論出さなければいけない」
「多くの方々の話を聞いた中で、ある程度、方向性は見出されたと思っています」

――市長の元々の考え方や、(保存か解体かの)決断のベースとなる石巻市の復興や防災については、どのようなビジョンを持っているのか?

「初期投資額や維持管理費云々は次の話。東日本大震災の最大の被災地になり、3700人近くもの犠牲者を出した。2度とこのような人命を失うことのない災害に強い街づくりをするとともに、いちばん大事なことは、何を伝えたら震災の教訓を未来につないでいけるかです」

公聴会や市長の記者会見は、高校生になった大川小卒業生たちも見守った。今回、自分で発言は求めなかった彼・彼女らは、大人たちの発言をどう見たのか。

「金の問題など、どうでもいいんだっちゃ」「おじいちゃんたちが意見出しているけど、ずっと生きてるのは私たちじゃん。なのに話し合いの場がない」

当時6年生だった高校生は、しばらく考えた後、こう感想をもらした。

「もう全部、真っ白にしたほうがいいですよね」

真意を聞くと、こう説明した。

「それくらい話し合いのキャッチボールはできていない。あるのは、ドッヂボールばかりです」

大勢の当事者が、さらなる話し合いの機会を求めていた今回の公聴会。人々の思いが染み込んだ地域の校舎の存廃の方向性を、たった一度の発言の機会だけで政治的に決着させれば、そのこと自体が未来へ語り継がれていくことになるだろう。

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加藤順子

ライター、フォトグラファー、気象予報士。テレビやラジオ等の気象解説者を経て、取材者に転向。東日本大震災の被災地で取材を続けている。著書は『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』(ポプラ社、共著)、『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社、共著)など。Yahoo! 個人 http://bylines.news.yahoo.co.jp/katoyoriko/

池上正樹

大学卒業後、通信社などの勤務を経てフリーのジャーナリストに。主に心や街を追いかける。震災直後から被災地で取材。著書は『大人のひきこもり 本当は「外に出る理由」を探している人たち』(講談社現代新書)、『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』(ポプラ社)、『ダメダメな人生を変えたいM君と生活保護』(ポプラ新書)、『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)など多数。厚労省の全国KHJ家族会事業委員、東京都町田市「ひきこもり」ネットワーク専門部会委員なども務める。ヤフー個人http://bylines.news.yahoo.co.jp/masakiikegami/

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