「見たくない人は多かった。でも...」日航機墜落事故の遺族が、機体保存を望んだ理由【「遺す」とは】

文章や文字だけではなく、「もの」があると強いんです。

「『もの』を通じて、何かを『感じていただく』こと。それを目的としています」

2月26日、東京・羽田空港の脇にある日本航空(JAL)の関連施設。日航の案内担当者に導かれ、東京都大田区の中学校教員ら約20人が「安全啓発センター」を見学していた。

羽田空港の地元・東京都大田区では、小中学生に安全啓発センターを見学させ、「空の安全」について考える課外授業を構想している。そのための事前見学だった。説明担当者から事故の概要や状況の説明に聴き入る一行の後ろに、遺族の一人、美谷島(みやじま)邦子さん(69)の姿もあった。

1985年8月12日、羽田空港を飛び立った日本航空123便は、群馬県の御巣鷹山に墜落し、乗客・乗員520人が犠牲になった。安全啓発センターには、飛行ルートの東京湾や、墜落した御巣鷹山などから回収された機体の残骸、遺族が御巣鷹山に通って回収し続けた乗客・乗務員の遺品などが、事故に至る過程を解説したパネルや映像資料とともに展示されている。

後部圧力隔壁の整備不良で尾翼が吹き飛んだとされる事故原因が、展示された現物を通じて一目で分かる。制御不能となって迷走を続けた「恐怖の30分」に乗客や乗務員が綴ったメモ、ライフジャケットやゆがんだ眼鏡といった御巣鷹山の遺品は、事故に巻き込まれた人々の最期を物語る。

事故から21年後の2006年にオープンした安全啓発センターは、社員の安全への意識を高めるための研修施設として使われるほか、予約制で一般公開もされており、事故から30年を迎えた2015年は年間約2万人が訪れた。「事故の教訓を自社だけにとどまらず、広く社会に生かすことは社会的な責任だ」と展示説明の担当者は語る。

安全啓発センターに展示されているフライトレコーダー

今は社内外への啓発に大きな役割を果たしている安全啓発センターだが、ここでの保存、展示にたどりつくまで21年かかった。日航は当初、フライトレコーダーなど3点だけを社員教育用に残し、残りは廃棄する計画だった。その姿勢を変えたのは、日航に要望書を出すなど、遺族の長年にわたる強い働きかけの成果だったと言っていい。

日航機事故の遺族らでつくる「8・12連絡会」の事務局長を務めてきた美谷島さんは、残存機体の保存を日航に求め続けてきた中心メンバーの一人だ。東日本大震災の発生後は、被災地に足繁く通い、事故で当時小学3年生の健さんを失った痛みを、遺族と分かち合ってきた。そこから人の輪が生まれ、美谷島さんと御巣鷹山に登る人も現れた。

事故と天災は違うと思う人もいるかもしれない。しかし遺族にとってみれば、ある日突然、愛する人を奪われた悲しみと、自らの苦しみが後世の教訓になればと願う気持ちは変わらない。議論が続く「震災遺構」を考えるため、「もの」が果たす役割を、美谷島さんに聞いた。

――安全啓発センターでは、新しい動きがここを拠点に芽生えているのですね。

ある女子校の生徒たちは啓発センターや運輸安全委員会に通って、123便について調べました。LCC(格安航空会社)についても調べて「安全は選ぶものなんだね」と言っていました。「もの」を通して心に落とされるものがあり、そこからまた生み出すものがあります。JALも、ここまで付加価値が出る施設になるとは、思っていなかったと思うの。

でも最初、JALは絶対に残すと言わなかった。遺族たちの「絶対に捨てさせない」「事故を忘れさせない」という気持ち。それがJALという大企業の気持ちを変えさせたと思っています。

1000年後のために礎を残し、それが残っていることで、次の命を一人でも守ることになる。あのとき亡くなった人々への思いと、現実に亡くなった人の命を想像できるようなものがあることと、ないことの違いは大きいんです。

――日航機事故で、残存機体を残したくないという否定的な意見は当時あったのですか?

連絡会が遺族のすべてではないけど、絶対反対はなかったですね。もしいたら、私に抗議が来るはずだから。ただ「捨てて下さい」よりも「見たくない」は多かったですよ。はっきり言うと今でも「私は見られない」という声はあります。

でも、世代が変わるとちょっとまた違う感覚になって、子供や孫の世代が「見たい」「絶対残すべき」だと言う。それに背中を押されて高齢になったご遺族が集まってくる状況ですね。

――美谷島さんにとって事故5年目はどんな心境でしたか?

2015年8月、事故から30年を迎えた御巣鷹山。

連絡会で出している文集「茜雲」の寄稿も、5年目がいちばん多かった。50人近く書いてくれたかな。一つの区切りとしてとらえてくれた、と思ったし、風化というものにすごく怖さを感じた時期ですね。遺族が求めていた日航、ボーイング幹部の不起訴が決まった年だったので、このまま、あの事故がなかったことには絶対させないぞと、私もみんなも思っていた。これからますます風化の速度は早まっていく。だから声を上げていかなければいけないと思った年でした。

「もう5年じゃないの」と言われるけど、間違いなく、まだ5年なんですよ。まだ5年だからこそ、心の中にいる人と一緒に歩んでいこうと自分で決めていける。新しい一歩を踏み出すってことなんだろうな。

当時の文集にも書いたんだけど、私は迷子になってたんです。「健はどこにいるの?」と探して5年間、御巣鷹山に登っていたんだけど、5年たってみると、健ちゃんが山の上で「僕はここにいる」という声が私の中で聞こえたような気がしたんです。私は健を探していた。でも健が私をちゃんと探して見つけてくれたことに気づいたんですよ。健ちゃんがストンと私の心の中に入ってきたのが5年目でした。

男性で家族を亡くした人には、再婚して、次の人生を歩む方もいる。次の人生を歩むことって、遺族にとってはうれしいことなんですよ。なかなか外には言えないけど、遺族同士はすごくわかり合えていると思える月日が5年ですね。

――被災地に通い、被災地の遺族と精力的に交流を続けておられますね。

私たちのときも、(御巣鷹山のふもとにある群馬県)藤岡市の、アコーディオンサークルの人たちが、墓標の前で演奏を続けて下さいました。地域の人に支えてもらったから、歩いてこられたんだとすごく思ってる。だから今度は自分ができることをやらなきゃと思って、最近まで大田区が仕立てたバスで被災地に通っていました。みんな、「泥をすくうだけで一体なんの役に立つんだろう」と思うんだけど、非力だけど無力じゃない、ゼロじゃない、続けようというネットワークができる。そこに本当に勇気づけられてきた。

私も、羽田に健を送っていったことがフラッシュバックして、5~6年は、羽田に来ることも、空も見上げることすらきつかった。被災地に行くと、それがよく分かるんです。

70~80年たっても、戦争の遺骨を探している方がいます。心に突き刺さっているとげのような悲しみは絶対、一生消えない。でもそれを大事にしていることが、私にとっては健と一緒にいることなんだろうし、遺族が共有している気持ちなんですよね。

津波で犠牲になった七十七銀行(宮城県女川町)、大川小学校(同県石巻市)、閖上(ゆりあげ)地区(同県名取市)の方たちとも語り合っています。被災地で知り合った方々が、(御巣鷹)山に登ってくれます。きっと(日航機事故で犠牲になった)520人の人が置いていってくれたんだろうね。私たちに仕事を作ってくれた。亡くなった人たちが仲間になるようにしてくれてるんでしょうね。

――東日本大震災の被災地では、遺構を残す、残さないで地域を二分する議論になっているところが多いようです。まだ気持ちの整理がつかないのが現状ではないかとも思います。

南三陸町の防災庁舎にも3回行って、地元の方と意見交換しているけど、ある方は1年目は保存に絶対反対だった。去年は「もう残したいと思っている」と言いました。

自分の気持ちをもし100としたら「絶対に残すんだ」が60あっても、残りの40は「やっぱり見たくない」もある。ゼロじゃないんです。遺族の気持ちも、55と45が入れ替わるんですよ。でも「捨てちゃったらゼロだよ」と、私たちは当時、事故の遺族に毎年アンケートを取って意向調査してきました。この事故がないものになることがすごく悲しかったし、それだけはさせたくなかった。

安全啓発センターで、見学者に当時の状況などを説明する美谷島邦子さん

――被災地では、すでに撤去されたり、撤去が決まったりした震災遺構も数多くあります。

閖上は地域がかさ上げになって、閖上中学校もなくなるんだけど、閖上で語り部をしている女性は、一生懸命、中学校の部品や付近のガードレールを、少しずつ保存している。それをいずれ展示するつもりだと言っています。私は、それでいいと思うの。新しい街をつくることを決めたんだったら、ほかに残し方はあると思う。残されたものの規模ではなくて、そこに通う人の気持ちがあるかないかが大事。

防災がこれだけ言われて、技術は進んでいるけれど、本当に逃げようと思ったり、自分の身を守ろうと思ったりするためには、この震災を忘れないことが大事だし、次につなげていくためには人間の気持ちが大事。それを残すのは文章や文字だけではなく、「もの」があると強いんです。蓋をしてしまったり、ないものにしてしまうのがいちばんよくないこと。

――天災と人災は違うという人もいますが...。

天災でも人災でも犯罪でも遺族の置かれた境遇は同じです。あの日から突然、苦しみを味わってきた、愛する人を失ったという悲しみを背負っていく。「助けられたか、あの命」という思いは絶対変わらない。ではどうすればよかったか。どんな対策が取られたか、原因は何だったかと、どんどん突き詰めていくのも同じです。天災でも「次の命を生かさなきゃ」と皆さんは思っている。だからこそ語り部をして、全国各地の人に聞いてもらおうと思っている。遺族が必死になっているのを見ると、その姿が絶対に次の命を助けるんだと思います。

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御巣鷹、2011年8月11日~12日

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