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尾形光琳、没後300年 天才絵師の私生活は放蕩三昧だった?(画像集)

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KORIN OGATA
尾形光琳「風神雷神図」(左隻) | Heritage Images via Getty Images
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「風神雷神図屏風」や「紅白梅図屏風」などの名作を描き、装飾性に富む「琳派」の画風を生み出した江戸中期の画家、尾形光琳の死から、7月20日で300年を迎えた。その波乱に満ちた生涯を、画像集とともに振り返る。

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尾形光琳 作品集
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■私生活は放蕩三昧だった?尾形光琳の生涯

尾形光琳は1658年、京都の呉服商「雁金屋」の次男として生まれた。書の達人で、尾形家と親戚でもあった本阿弥光悦の作品や、趣味人だった父から受けた能や書の手ほどきもあり、幼少の頃から芸術の才を伸ばした。

その甲斐あって、光琳は若い頃から創意工夫に富んでいた。親友の妻が茶会の服装に悩んでいた時には、黒と白のシンプルな衣装を着るようにアドバイス。他の女性たちの豪華な衣装を打ち負かしたという逸話も残っている。

一方で、私生活は順風満帆ではなかった。30歳の時に父が亡くなると莫大な遺産を受け継いだが、遊郭に通うなど放蕩三昧な暮らしを送った。女性関係も派手で、複数の愛人がいたという。遺産は数年で使い果たした。絵の修行に専念し始めたのは、この頃からだとされる。

光琳は当初、狩野派に入門するも、その後は独学で修行。手本としたのは、光琳より80年ほど前に活躍した俵屋宗達の作品だった。35歳で「光琳」と称し、44歳で朝廷から優れた絵師に贈られる「法橋(ほっきょう)」の地位を得た。名作「燕子花(かきつばた)図屏風」を描いたもこの頃だ。

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「燕子花図」

光琳には、こんな逸話もある。
仲間たちと嵐山へ花見に出かけた時のことだ。仲間たちはご馳走を持ち寄ってきたが、光琳は粗末な竹の皮の包みから、握り飯を出して食べていた。それを見て周りは嘲笑したが、よく見ると竹の皮の裏一面に、金箔を用いた豪華な蒔絵が描かれていた。しかも光琳は握り飯を食べ終わると、それを惜しげもなく川に捨ててしまったという。

その後、数年間の江戸滞在を経て、光琳は再び京都へ戻った。新しく建てた家に自ら設計した茶室やアトリエをつくり、制作に熱中する。ここで生まれたのが代表作「風神雷神図屏風」や「紅白梅図屏風」だった。こうして自らの画風を大成した光琳は、59歳でこの世を去った。

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