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子どもたちのために。児童福祉から障害者教育まで、海外ボランティアが教えてくれた「僕らの天職」

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「海外ボランティアに参加する」自分の姿をあなたは想像できるだろうか。近年頻繁に起こる地震などの自然災害によって、日本でも災害ボランティアにはたくさんの人が参加するようになってきた。しかし、海外ボランティアとなると、途端にハードルが上がり、「自分の人生には関係ない」「自分にはできない」と思う人も多いのではないだろうか。

民間企業の事務職として働いていた中澤敦子さんも、大手銀行で働いていた米田勇太さんも、かつてはそうだった。しかし、一歩踏み出した先で、これまで味わったことのない経験を得ることができたという。自分とは遠い世界だと思っていた海外ボランティアに、彼らが挑戦することになったきっかけは何だったのだろうか。お二人に話を伺った。

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●中澤敦子さん
2004年4月〜2006年6月の2年3ヶ月間および2006年9月〜2007年7月の10ヶ月間、モンゴルで青年海外協力隊に参加。ウランバートルの孤児院で子ども達の生活のサポートと自立支援活動に取り組む。

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●米田勇太さん
2010年1月〜2012年1月の2年間、ラオスで青年海外協力隊に参加。サバナケットにある中高一貫校で、理数科教師として活動。


事務職から児童福祉の道へ。中澤敦子さんのお話



■「自分には無理だ」自信を持てずに先送りし続けた5年間
中澤さんは、短大の英文科を卒業して、不動産会社や商社などで事務アシスタントとして働いていた。「保育士になりたい」という夢を抱いて、働きながらなんとか保育士の資格を取ったものの、仕事に悩む日々……。そんな時、友達から青年海外協力隊の話を聞いたのが大きな転機となった。興味を持った中澤さんは早速説明会に参加したが、そこで聞いた話は、すべてが遠い世界のことのように思えたという。

「前で話している人も参加している人も、みんなすごい人ばかりに思えたんです。学歴も、社会人としてのスキルも経験も、将来のビジョンもある。『自分にはとうてい無理だ』と感じました。青年海外協力隊のことは気になるけどその一歩が踏み出せない。そんな思いを抱きながら、気付いたら5年も経ってしまいました」

中澤さんが再び青年海外協力隊の説明会に足を運んだとき、あるボランティア経験者の言葉に心が動いた。「児童福祉系で受かりたいなら、経験を補えばいける」そのひと言に背中を押され、中澤さんは休日に児童福祉施設のボランティアをして経験を重ね、2度目のチャレンジで青年海外協力隊の選考試験に合格した。

■子ども達との刺激的な毎日の中で「やりたい仕事」が見つかった
ついに青年海外協力隊としてモンゴルに派遣された中澤さん。ウランバートルの孤児院で子どもたちの生活をサポートしながら、18歳で施設を巣立っていくための自立支援活動を行った。親がいない6歳〜18歳までの子どもたちには色々なバックグラウンドがある。子どもたちの過去の体験を聞いて、ショックを受けることも多かったと中澤さんは振り返る。

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路上やマンホールなどから保護された子どもたちが集まる施設にて

「初めは衝撃的なことばかりで戸惑うことも多かったんですけど、子どもたちはとても柔らかくて、楽しければ笑ってくれるし、いろんなアイデアもくれるんです。何かしてあげると「ありがとう」と笑顔が返ってくる。そんな子どもたちを見ていると『できることは何でもやりたい』と思いました」

■18歳で孤児院を巣立った子どもたちの厳しい現実
一度目の派遣を終えた数か月後、青年海外協力隊の短期ボランティアとして再びウランバートルの孤児院に戻ってきた中澤さんは、子ども達との時間を過ごす中で、厳しい現実を目の当たりにした。

「18歳になって施設を出て行った子たちの何人かが、集団で外国にお嫁に行ったと聞いたんです。児童婚などの問題が頭をよぎりましたが、まさかこんな身近なところでと……。他にも、援助を受けて大学に通っていたのに自ら命を絶ってしてしまった子もいました。そういう話を聞くたびに、『自分は何もできない』という無力感に打ちのめされました」

中澤さんはウランバートルでの活動に力を注ぐ中で、帰国後もこの経験を生かしたいという思いが日に日に強まっていったのだという。

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孤児院で書初めのワークショップを実施

「モンゴルでは、やりたかったのにできなかったこともたくさんありました。どこか不完全燃焼のような感覚があり、『子どもたちが自立するための活動にもっと力を注ぎたい。この経験を生かして、自分の国でできることをやる。それ以外の道はない』と思いました」

■「日本にも飢餓がある」施設の子どもたちを見て現実を知る
帰国後、中澤さんは児童養護施設を中心に就職活動を続けた。狭き門の厳しさにあきらめそうになった時、「自立援助ホーム」の求人を見つけ、奇跡的に仕事が決まった。しかし、念願の仕事に就いた中澤さんを待ち受けていたのは、日本のどこにこんな世界があったのかというほど、つらい現実の中を生きてきた子どもたちだった。

「お腹が空いて、あんパンひとつのために万引きをした子もいました。入所したての子がものすごい勢いでご飯を食べるのを見た時は、胸が締めつけられました。日本にこんなにも『満たされていない』子がいるんだと……。何かしてあげようとしても、モンゴルの時みたいに喜んで受け入れてくれる子はほとんどいなくて。大人の事情に苦しめられた子どもたちを前に、最初は打ち解けるのがとても大変でした」

中澤さんは、もっと子どもたちの力になれるようにと、社会福祉士と精神保健福祉士の資格をとった。施設内では唯一の女性職員だった中澤さんは、子どもたちにとって自然と母親のような存在になっていた。それこそが自分に求められている役割だと感じた中澤さんは、「心のケア」のプロにもなることで、より子どもたちを支えられる存在を目指しているのだ。

■『福祉』の業界には問題が山積み。そんな現状を変えたい
福祉の仕事は今の自分にとっては天職だが、福祉の業界で働くこと、キャリアとして追求していくためには、さまざまな課題があると中澤さんは語る。

「『福祉』の仕事は、基本的に非常勤が多く、給料などの待遇面も厳しい。それでは若い人、優秀な人が集まりにくい悪循環が続いてしまっているんです。国際協力の業界も、同じような側面があると思います。優秀な人たちが集まるのに、その時の経験だけで終わってしまう人が多い。それはとてももったいないことだと思うんです」

そんな想いから、中澤さんは、自身が働く施設の求人情報を、青年海外協力隊経験者にも提供できるよう働きかけているという。

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「私は、モンゴルでの経験があったから、『福祉』をキャリアとして選び、実際にその道を歩むことができました。ただの文系卒の事務経験しかなかった私がです。だからこそ、同じような経験をして同じ想いに至った人には、『福祉』の仕事ができる選択肢を作ってあげたいんです」


銀行員から教育の道へ。米田勇太さんのお話



■大手銀行を退職。ダメ元の挑戦が新しい道を切り開く
米田さんは、いつか海外で働きたいと思いながら、日本の大手銀行に勤務していた。海外に出たいと思ったきっかけは、中学時代に出会った英語講師だった。

「その先生は『講師』以外もいろんな経験をしていて、広い外の世界を教えてくれました。勤務先の銀行では、海外勤務の希望を出していたのですが『5、6年経てば可能性があるかも』くらいにしか先が見えなかったんです」

青年海外協力隊に興味を持っていた米田さんは、何度か説明会に足を運んだ。しかし、いくら話を聞いても自分が行ける気がしなかったと当時を振り返る。

「なにか一芸がないと行けないと思っていたんです。スポーツとか医療系とかエンジニアとか。自分には資格も専門的なスキルもない。でもある日、電車で青年海外協力隊のポスターを見た時に、『ダメ元で受けてみよう。受かってから考えよう』と思ったんです」

一念発起した米田さんは、なんと試験に合格した。その勢いで、「仕事を辞めること」「青年海外協力隊に行きたいこと」を家族に告げた。家族には猛反対されたものの、説得の末、ついに米田さんは25歳の時にラオスへ飛び立った。

■「カンニングは助け合い」文化や価値観の違いにショックを受ける日々
ラオス南部のサバナケットにある中高一貫校で、米田さんは理数科教師として働くことになった。生徒も先生も教育制度も、すべてが日本とは違い、毎日が驚きの連続だったという。

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学校での授業風景

「たとえば、『テストでのカンニングは助け合い』という生徒たち。授業中に教室を抜け出してお菓子を食べる先生がいたり……。そんなとき、一番歯がゆかったのはやっぱり“言葉の壁”でした」

それでも米田さんは、半年後には言葉にも慣れ、学校や地域にもなじんでいった。周りの先生と衝突することもなくなり、交友関係も広がっていった。

「お互いの『当たり前』が違うんだから、自分の文化や価値観を押し付けてはいけない。『受け入れなきゃ』と思えたんです。その上で、どうアドバイスしたらいいか、どうすれば歩み寄って話ができるのかを考えるようになりました」

■「子ども達の記憶に残る」教育の可能性を感じて想いを強くする
異文化の壁を乗り越えた米田さんは、毎日が楽しいのはもちろん、やりがいを感じながら仕事に取り組んだ。

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日本文化に触れてもらう授業を実施

「子どもたちにとっては、自分が『初めての日本人』、『唯一の日本人』だったりします。自分と接することで、日本を好きになってくれたり、いつか日本に留学したいと言ってくれたりする子もいました。こんな自分でも、彼らの世界を広げたり、進路を考えるきっかけになったり、記憶に残る存在になれるんだって……。やっぱり『教育っていいなぁ』って思いました」

■ラオスでの出会いが、新たな世界に導いてくれた
学校以外の時間も、米田さんは周辺の学校を巡ったり、教育関係者に会いに行ったり、意欲的に走り回っていた。そんな中、米田さんの人生を大きく変える出会いがあったという。

「ある日、教育や保健分野のプロジェクトに関わる開発コンサルタントの方に出会いました。先生ではなくとも、教育を専門とするプロであり、海外にも携われる。『こんな仕事があったんだ』という発見とともに、自分がやりたい仕事を見つけたと思いました」

青年海外協力隊から帰国後、米田さんは英国へ留学して教育開発を研究し、日本に帰ると開発コンサルタントに絞って就職活動をした。実務経験がないにも関わらず、青年海外協力隊の経歴が認められ、開発コンサルタントとしてのキャリアを歩み始めることになったのだ。

■一度仕事を辞めたことが、その後の人生を大きく変えた
今、開発コンサルタントとして3年目の米田さんは、すでにモンゴル、モロッコ、フィリピン、モザンビークと、教育分野を中心としたプロジェクトに関わりながら世界中を飛び回っている。最近では、日本で実践されている「特別支援教育」(「インクルーシブ教育」とも呼ばれる障がいを持つ子どもたちのための教育手法)を世界に伝えるプロジェクトを手がけるなど、活動の幅をどんどん広げている。

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開発コンサルタントとして働く米田さん

「自分は今この仕事ができて本当にラッキーだと思っています。そして何より、あの時青年海外協力隊に行けたから、今の自分がある。でも、一番の決断は、『仕事を辞めた』ことかもしれません。辞めたことで、選ぶ自由を手に入れ、だからこそ責任を背負って行動する。そういう考え方に変われたと思います」

「自分には無理」だと思っていた海外ボランティアに一歩踏み出す。すると、思っていたほどの壁はなく、その先には思いもよらない道が拓けていくかもしれない。自分のやりたい仕事を見つけ、イキイキと語る2人の姿は、さらなる可能性を感じさせてくれる。


JICAでは、2016年9月22日から10月29日まで、JICAボランティア「体験談&説明会」を全国各地で開催しています。詳細はこちらをご覧ください。

9月20日に実施したイベント、「世界とWin-Winな生き方を考える」をテーマにしたフォーラムの様子は下記のスライドショーからご覧いただけます。

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