近鉄駅員にキレていた人にも処方箋があるー。「キレる私をやめたい」作者がこの漫画を書いた理由

突如湧き上がる怒りの気持ちを抑えきれず、幼い子供にまでキレそうになってしまう自分自身の姿を赤裸々に表現した。「近鉄でキレて駅員を責めてた人たちには、ぜひ読んでほしい」と田房永子さん。「キレやすい」人への処方箋とは——。
キレる私をやめたい・竹書房

漫画家の田房永子さんが執筆したエッセイ漫画「キレる私をやめたい~夫をグーで殴る妻をやめるまで~」(竹書房)が話題だ。子供に対して、過剰に干渉する自身の母親を題材にした2012年の「母がしんどい」で「毒親」ブームの火付け役となった著者が、今回見つめたのは、夫に対して理不尽に「キレ」てしまう自分自身。突如湧き上がる怒りの気持ちを抑えきれず、幼い子供にまでキレそうになってしまう自分自身の姿を赤裸々に表現した。「近鉄でキレて駅員を責めてた人たちには、ぜひ読んでほしい」と田房さん。「キレやすい」人への処方箋とは——。

——反響はいかがでしょうか?

「役に立った」と言って下さる方が一番多いです。私はいつも「痛快!ビッグダディ」(かつて放映されていた、大家族に密着したドキュメンタリー番組)のような、他人の家庭内をのぞき見るドキュメンタリー漫画、という意識でも描いてるんですが、今回はいつもよりさらに、同じ悩みを抱えている人に向けてのメッセージを強く出していたので、伝わって嬉しいです。

——「『キレる』自分を治すという本が探しても見つからなかった」と漫画にも描かれていましたね。

悩みまくっていた時に、キレる行為をやめるための本が全く見つからず、それがさらにとてもつらかったです。だから自分が書くしかないと思いました。自分にとことん向き合って、その経過を研究して、「キレ」ることが治っても治らなくても絶対に出そうと思っていました。「キレる」というのは、わかりやすいビフォー・アフターがあるわけではないので、厳密に言うと「治った」という表現は適してないと思うんですが、明らかに、今までお腹の中にあったマグマのようなものは消滅しました。

——とはいえ、自分自身が変わったという実感があるのですね。

生活の中で、自己嫌悪する時間が激減しました。それによって自分自身が過ごしやすくなったのが一番大きいです。それによって家族の関係も柔らかさが増した、と私は感じてます。

私の定義では、「キレる」というのは、その場にそぐわないほどの量の怒りとか衝動や行動が出てきてしまうこと。「過去」と「未来」のことしか考えられず、目の前の現実とは違う光景(自分の中の虚構)に対してパニックになること、としています。

私の場合は、夫の姿に、自分の母や意地悪をしてきた人たちを重ねていました。私の場合は暴れて奇声を発したりする行動だったけど、人によっては、一人で暴れたり、泣き続けたり、とか「キレる」はいろいろあると思います。

自分の言いたいことが自分でなんとなく分かって、それが目の前の現実と噛み合うというのが「怒る」だと思っています。「キレる」ことで自己嫌悪しすぎてつらい、っていうならそれをやめることが必要だけど、「怒る」ということも生きる上で必要なことだと思います。私は、ちゃんと怒れるようになりたかったんです。

——夫を殴ってしまったり、子供に手を上げそうになるご自分もかなり赤裸々に描かれています。

ドキュメンタリー映画とかノンフィクションものを観るのが好きなんです。小学生の頃から漫画家になりたかったんですが、親や学校の先生などの大人達の言動の矛盾を「おかしい、どういうこと?」ってずっと気にして、大人になったら分かるはずだとノートに記録してるようなところもありました。

中学生の頃は「どうしてこれはこれなんだろう? これであるべきなのか?」とか考えたり、世の中の出来事に興味のある友達が周りにたくさんいたので、議論するのが楽しかった。自分や他人の心理状態の経過に興味があるのはずっとそうです。クセとか好きなものが合致してこういうスタイルの漫画を描くようになったと思います。

たまに、過酷な家庭環境で育ったから世の中に対して疑心暗鬼な人なんだ、と私のことを評する人もいるけど、自分ではもともとの性質だと思います。

あと、赤裸々なことを書けるというのは、心のどこかで「みんなとそんなに変わらないんじゃないか」と思ってるところがあるからですね。そんなこと言ったら嫌がられるかもしれないけど。

——皆が皆、何かを抱えているということですね。

何にもない人っているのかな。たぶん皆、それなりにありますよね。

「キレる私をやめたい」を読んで、「私も同じことで悩んでいます」と報告してくれる人がいると、なぜか私も癒やされて、とても嬉しいし、ありがとうって思います。共感される、も癒やしになるんですね。

——共感してもらえる部分をどう意識的に描かれましたか。

例えば、私がパニックになって、ヨーグルトを踏んだという話がありますよね。こんなこと誰にも言いたくないし言うつもりもなかったから、漫画に描く予定はありませんでした。

友達に「キレる私をやめたい」って漫画をこれから描き始めるんだ、って話をした時、その友達が「私は人にはキレないけど、一人で飲んでるときにギャーッてなって、窓ガラスを割っちゃったことがある。……よく考えると年に1回は割ってる」と話してくれたんです。そのときに自分のヨーグルトのエピソードを思い出して、あれも「キレる」の一つだったんだ、って気づきました。

そう考えると、自分っていろんな「キレ方」をしているんだ、「『キレ』のデパートみたいな人なんだな」と思いました。

漫画を描く時、私の頭には「ドキュメンタリーの監督」みたいな自分がいて、その自分が自分の出来事を編集する、という感じなので、監督が自分のことを「いろんなキレの引き出しを持っている、キレることを描くのに最高の素材だ」と尊敬する、みたいな妙な状況になっていました。

読んでる人が「自分も当てはまる」と出来るだけ思えるように、キレのパターンを色々と書くことを心がけました。

——漫画では、田房さんの「キレ」が治るようになる経緯で大きな役割を果たしたのは、セラピーでした。日本では「怪しい」イメージもありますが。

セラピーとかカウンセリングっていうと、ショーとしての催眠術とか、悪徳占い商法とか、ヤバイ宗教の勧誘とか、そっちのイメージが出てくるんですよね。なぜかそれらと直結してる。私も最初そう思ってました。

あと、自分の内面には向き合いたくない、知ってしまったら怖いことが起こるんじゃないか、っていうのもありますよね。

日本でセラピーの代わりになってるのって、お酒だと思います。私が「う~ん、気持ちが乗らない…なんかモヤモヤする…よし、セラピーしよう」って思うような時、世間では「よし、今日は飲もう」ってなるのが普通です。

お酒でなんとかなるならいいと思うけど、自己嫌悪を紛らわすために飲み過ぎて次の日また新たなことで自己嫌悪、とかになる。日常生活で自己嫌悪に陥るパターンってあると思うんだけど、それを、飲酒とか交友関係の中での相談だけで解決しようとするのは、とても大変なことだと思います。実は骨折してるのに、友達に患部を撫でてもらっている、みたいなこともあると思う。

セラピーが絶対に皆に有効である、ということではないけれど、今の日本には、「ちょっとした悩みや精神的なつらいことがあった時に、プロに頼んで解消してもらえる」という選択肢があるのに、そのアナウンスが少なすぎると思います。

特に、子育て中の人たち。子どもと向き合うのって間接的に自分と向き合うことだから、「『自分に向き合う』を避けながら生きるのが普通。たいていはお酒でなんとかなる」っていうそれまでの価値観で育児を始めると、苦痛が伴う。

クイック・マッサージ店みたいに、全部の駅前にセラピーができるお店があればいいのにと思います。

■「キレ」への処方箋

——漫画の後半では、セラピーを通じて、「キレる」心に寄り添うことで解決に向かう方法が描かれています。

例えば、自分の子が他の子に比べて落ち着きがないとか、消極的だとか、そう思うことがあったりしますよね。周りから見たら、それは別に問題行動と言うほどのことではない、だけど親の自分はそれがものすごく気になってしまう。「どうしてそうなの!」と本人にキレてしまったりする。

そういう時って、子どもの行動を直さなきゃ、って思ってしまいがちだけど、なんで自分の中で怒りが湧くのか?と、自分の心に聞いてみると、違う景色が見えることがあって面白いです。

「キレる私をやめたい」には、「自分の思い通りにならないことで癇癪を起こす幼い子」にどう対応するかというエピソードも描きました。

この間、近鉄奈良線で乗客にキレられ続けた駅員がホームから飛び降りて大けがをした事件がありましたが、「キレる」人って駅でたくさん見かけます。電車が遅延したことを車掌さんや駅員にキレても意味ないってことは、普通に考えたら分かる。だけど、爆発しちゃう人はその場では自分にはキレる権利、正当性があると思い込んでしまっていると思う。

昔、牛丼屋さんによく行ってた時期があったんですけど、牛丼屋さんもキレる男の人を見かけることが多いスポットです。クレーマーも、相手を、自分の過去に会った別の誰かに重ねているところがあると思います。じゃなきゃ、味噌汁が出てこないくらいことで、テーブルに牛丼のどんぶり叩き付けたりしないと思う。「キレる」ことで発散している部分もあるんではないでしょうか。

私も、頭では「いやだ、やっちゃいけない」って思ってるのに、体のどこかではキレることで何かを発散している、という感覚があって、それが止まらないから、脳が後付けでどんどん「自分は悪くない」って正当化するそんな感じです。

——「キレ」られている相手がなだめることはとても難しいですね。

無理ですよね。私も幼少期から大人になるまで「キレられる側」だったので、その理不尽さはすごく分かります。

分かっているのに、自分が夫にキレている時は、「夫が抱きしめてくれれば収まるのに!」と思ってました。だけど攻撃してくる相手を抱きしめるなんて、絶対できない。キレるっていうのはそういう無理難題を相手に要求している行為でもあるんです。

そもそもが、夫という人ではなくて、自分の中にある過去や虚構に対して怒っているから、目の前にいる夫にも虚構の行動を求めるんですね。

駅員に過度に怒ってる人も、その人の中の虚構に怒ってるだけだから、そこの辻褄を合わせるために、相手に土下座を要求したりするんだと思う。キレている本人は、「駅員が俺の怒りをどうにかすべきだ」と思っているから、当然だと思ってる。だけどそれは電車や駅の問題じゃなくて、その人の心の問題なんですよね。

近鉄の事件だけではなく、「駅員に暴力行為をするのは犯罪です」と啓発するポスターも数年前からよく見るようになりました。

——「キレる」人が街に増えた実感がありますか?

昔からいっぱいいるから、増えたとは思わないです。でも、私は資料として、痴漢犯罪撲滅のポスターを写真に収めているんですが、駅員への暴力行為のポスターは最近すごく増えたように思います。

それによって、こんなひどいことをしてる人もいるんだ、と知るきっかけになるし、本人も「まずい」と思うのではないでしょうか。だけど、ポスターでの啓発はそこまでですよね。「その暴力衝動をどうおさめるか」というのは、また別の話だから。

——それで漫画にまとめられた。

みんな、キレちゃう人は根本的におかしい、普通じゃ無い、ってイメージがあると思います。「キレなくなる処方箋なんてない」と思っている。だからキレる客と、追い詰められて飛び降りた駅員と、鉄道会社、「誰が悪いか」って話で終わっちゃう。

近鉄でキレて駅員を責めてた人たちには、ぜひ「キレる私をやめたい」を読んでほしいですね。

この漫画を描いて実感したのは、加害者側が自分の加害性をおさめると、物事が前進する、ってことです。新しい世界が広がるし、何より自分自身の生活が快適になります。

■田房永子さんのプロフィール

tabusa

たぶさ・えいこ。1978年東京都生まれ。4歳の長女、夫と暮らす。2000年漫画家デビュー、翌年第3回アックスマンガ新人賞佳作受賞。母からの過干渉に悩み、その確執と葛藤を描いたエッセイ漫画「母がしんどい」(KADOKAWA中経)を2012年に刊行。同じく母との関係に悩む女性から多くの共感を集め、ベストセラーとなる。2作目「ママだって、人間」(河出書房新社)では、自身の妊娠・出産を通しこの社会で「母親」でいることの窮屈さを描くことに挑戦した。最新作は2016年の「キレる私をやめたい~夫をグーで殴る妻をやめるまで~」(竹書房)。そのほかの著書に、「呪詛抜きダイエット」(大和書房)、「それでも親子でいなきゃいけないの?」(秋田書店)、初のルポルタージュ「男しか行けない場所に女が行ってきました」(イースト・プレス)など。

▼画像集が開きます▼

%MTSlideshow-236SLIDEEXPAND%

注目記事