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「命のパスポートが国境を越える」日本生まれの母子手帳が、世界中のお母さんの手に渡るまで

日本生まれの母子手帳は、海外で初めてインドネシアで作られることになった。

日本の知恵や技術が、実は世界のどこかで大切にされていたり、現地に根付いて人々の暮らしを変えていたりすることがある。戦後1948年に日本で生まれた「母子健康手帳」(通称:母子手帳)もそのひとつだ。今や母子手帳は、海を越えて世界中のお母さんと子どもたちの命と健康を守っている。

世界中で使われている母子手帳

乳児死亡率が高かったアジアやアフリカなどの開発途上国をはじめ、たくさんの国で母子手帳が導入された結果、妊娠や出産、育児の環境が大きく改善された。今では30カ国以上の国で母子手帳が取り入れられ、オランダなどの先進国からパレスチナ自治区にまでもその動きは広がっている。

■検問所、道路封鎖、難民キャンプ……。パレスチナの人々にとっての「命のパスポート」

初めて母子手帳を見たパレスチナ人は、「いつもと違う病院に行かなきゃいけない時、これがあればすぐに診てもらえる。これは命のパスポートだ」と、思わず感動の声を漏らしたという。

パレスチナではまだ情勢が不安定なため、ある日突然分離壁や検問所ができて、道路がいきなり封鎖されるといったことが日常的に起こりうる。そうなると、いつも定期健診で通っていた病院に行くことができなくなり、違う病院を探すしかない。そんな時、初めて会う医師にこれまでの経過を伝える術を持たない彼らは、適切な処置を受けられず、中には対応が間に合わずに最悪の事態に至ってしまうことさえあった。

2006年7月、パレスチナ自治区では、中東地域で初めてとなるアラビア語の「母子手帳」が導入され、その後パレスチナ全土の母子保健センターで配られるようになった。たとえ住んでいたところを追われ、やむをえず難民として生活の場所を変えなければいけなくなってしまっても、母子手帳があれば、母子の健康状態を継続して見守ることができる。彼らにとって母子手帳はまさに「命のパスポート」になったのだ。

では、日本の母子手帳は、言語や宗教、文化の違いも乗り越えて、一体どのように世界に広がっていったのだろうか。母子手帳プロジェクトを立ち上げ初期からずっと取り組んできた、大阪大学大学院人間科学研究科教授の中村安秀氏に話を聞いた。

■母子手帳が初めて海を越えて、インドネシアへ

母子手帳が初めて世界に進出したのは、1990年代のインドネシアだった。正確な統計すらない1980年代、インドネシアの乳児死亡率は出生1000人あたり約60〜90人と推定され、それは戦後の日本とほぼ変わらない劣悪な状況だった。

当時のインドネシアには、医師も病院の数も少なく、健康保険制度もない。病院に行くこと自体がとてもハードルの高いことだった。そこでインドネシア政府は、80年代中頃に「ポシアンドゥ」という乳幼児健診の制度を作った。村のヘルスボランティアが身体計測や栄養指導を、看護師が予防接種をしてくれて、村単位で子どもたちの健康状態を管理しようという取り組みが、月に1回、全国約20万カ所で行われるようになった。

その後しばらくして、日本に研修に来たインドネシア人の医師が、初めて日本の母子手帳に出会い、感銘を受けた。「素晴らしい。ぜひインドネシアで母子手帳をやりたい」と、帰国後すぐに中部ジャワの母子保健プロジェクトの一環として取り組むことになった。1993年、日本政府とインドネシア政府の共同事業として、日本発の母子手帳が、ついに日本から飛び出してインドネシアで作られることになった。

■男性の育児参加も当たり前。先進的なインドネシア版の母子手帳

インドネシアは1万を超す島々から成り、300以上の民族で構成されている多民族国家。それでもインドネシアの保健省は、母子手帳を作るにあたって、民族別、言語別に分けることはせず、みんなが学校で学んでいる共通言語「インドネシア語」を使うことにした。病院で働く医師や看護師が同じ地域の出身とは限らないこと、妊産婦が地元以外の病院に移る可能性も考慮して、全国共通で使えるものにしようという意図だった。

インドネシアの母子手帳。州によって異なる民族衣装を着た家族が描かれている

現在のインドネシアの母子手帳は日本のものよりサイズが一回り大きく、ページ数も多い。妊娠、出産、育児のあらゆる情報を網羅するテキストのような内容になっているからだ。特に出産後の育児にまつわる内容は充実しており、食事面のアドバイスから発育段階に合わせてケアすべきことまで、事細かに説明されている。

育児のポイントをイラストで解説。パパが世話をしているシーンも多い

たとえ母親や家族が文字を読めなくてもわかりやすいように、イラストが多いのも特徴的だ。中でも特筆すべきは、男性が育児をしているイラストがとても多いこと。実は、インドネシアではもともと男性の育児参加が当たり前で、日頃からパパも積極的に赤ちゃんの面倒を見ている。それが母子手帳を作るアイデアにも自然に表れていて、中面にも表紙にもパパのイラストが多く描かれている。

■母子手帳を持つことで、母親としての自覚とプライドが生まれる

母子手帳の導入後、インドネシアの母子を取り巻く環境は、実際にどう変わったのだろうか。

まず、母子手帳を持つことによって、妊娠や育児についての知識が増え、母親の行動が変わった。それまでは、妊婦や母親として留意すべきことを知らず、結果、たとえ流産してしまったとしても、それは彼らにとって「どうしようもないこと」だった。でも、対処法や改善策がわかれば行動を起こすことができる。

そして何より大きいのは、定期健診や予防接種を受けに「病院に行こう」という意識が芽生えたことだ。以前は、妊娠したからといって、わざわざ仕事を休んで何時間もかけて遠くの病院まで足を運ぶ人はほとんどいなかった。しかし今では母子手帳に定期健診の大切さがきちんと明記されていて、妊娠期間中に4回以上病院に行くことが推奨されている。

インドネシアでは、残念ながら学校に行けず、読み書きが苦手な女性もまだまだ多い。そんな母親にとって、母子手帳は唯一持っている本でもあり、まるで宝物のように扱いながら、子どものためにと一生懸命勉強する。「母子手帳を持つ」ことが母親としての自覚やプライドを持つことにもつながり、結果的に彼女たちのエンパワーメントにつながっているのだ。

■インドネシアの「当たり前」になった母子手帳

6年前、中村教授が、インドネシアで最初に母子手帳を作った中部ジャワの町を再び訪れた時のこと。とあるタクシーの運転手が中村教授を家に招き、偶然にも家にあった母子手帳を見せてくれた。うれしそうに中身を説明してくれる彼は続けて「私たちの町にはこんな母子手帳があるけど、日本はどうなの?」と中村教授に尋ねた。インドネシアの中でも一番長く母子手帳を使っている彼らにとって、もはや母子手帳は日本から来たものではなく、インドネシアのものになっていたのだ。

「うれしかったですね。それはつまり母子手帳が完全にインドネシアの地域に根付いているということ。『母子手帳は日本から輸出されるものではない』と私たちはよく言ってます。ただ言語を翻訳するだけではダメ。文化も習慣も考え方も違うひとつひとつの国に合わせて、きちんとカスタマイズしてあげなきゃいけないんです。それにはもちろん現地の人と協力して一緒に作ることが不可欠です。そうして初めて、『自分の国の母子手帳』が出来上がり、みんなに使ってもらえるようになるんだと思います」

日本生まれの母子手帳は、現地の人の生活に合わせて、現地の人と一緒に作ることで、それぞれの国の仕様に生まれ変わって受け継がれていく。そうして、これからも世界中の母親と子どもたちを守る「命のパスポート」として、たくさんの母親を力づけ、元気に育つ子どもの手へとまた受け継がれていくのだろう。

[監修:中村安秀 協力:国際協力機構(JICA)]

<中村安秀教授プロフィール>

大阪大学大学院人間科学研究科教授。特定非営利活動法人HANDS 代表理事。

1977年東京大学医学部卒業。86年から国際協力機構(JICA)の母子保健専門家としてインドネシアに赴任、その後も途上国の保健医療活動に取り組む。1999年10月より現職。

国際協力、保健医療、ボランティアをキーワードに、学際的な視点から市民社会に役立つ研究や教育に携わる。1998年第1回母子手帳国際シンポジウムを日本で開催して以降、隔年で世界各地にて同会議を開催している。

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インドネシアで広がった母子手帳については、テレビ東京系列で放送された『海を渡ったニッポンのお宝を探せ!』でも紹介されています。現地のことをもっと知りたい方は、期間限定配信の下記動画をご覧ください。

動画提供:テレビ東京『海を渡ったニッポンのお宝を探せ!』(出演/オリエンタルラジオ(中田敦彦・藤森慎吾)、ホラン千秋、井森美幸、峰竜太)

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