両親はテロで死亡、金正日総書記と会談...朴槿恵大統領の数奇な生涯(画像集)

その生い立ちをたどると、両親をテロで失った孤独な生涯が浮かび上がる。

韓国・朴槿恵大統領の弾劾訴追案が、国会で可決された

「親朴」と呼ばれる議員たちも大挙賛成に回り、予想外の大差となった。朴大統領の職務は停止され、今後は青瓦台(大統領府)に閉じこもって,憲法裁判所の審判を待つことになる。

独身を貫き続け、食事もほとんど一人で取っているという朴槿恵大統領。その生い立ちをたどると、両親をテロで失った孤独な生涯が浮かび上がる。

1965年5月20日、ニューヨークを訪問した朴正熙・元大統領と陸英修女史

父は1961年に軍事クーデターで政権を握った朴正熙・元大統領。1965年に日本と国交を正常化し、開発を進めて経済成長を達成する一方、独裁的な権力者として君臨し言論を弾圧した。長女・朴槿恵氏の運命は、1970年代に大きく歯車が狂い始める。

1974年8月15日、日本の植民地からの解放を祝う「光復節」の式典で、在日朝鮮人の文世光が朴大統領を狙って発砲。壇上にいた母・陸英修氏が撃たれ死亡した。朴槿恵氏は留学中だったフランスから呼び戻され、ファーストレディー役を務めるようになる。

なお、この直後、悲しみに暮れていた朴槿恵氏に接近したのが、新興宗教の教祖を務めていた崔太敏氏。その娘の崔順実氏とは、生涯にわたって深い関係を築くことになる。

1979年10月26日、今度は父親が、中央情報部長の金載圭に暗殺される。父は一転して「独裁者」と批判されるようになり、取り巻いていた人々は手のひらを返したように去って行った。朴槿恵氏は表舞台から身を隠し「育英財団」の運営に専念するようになる。

ちなみにこの頃、朴槿恵氏のもとを離れず、財団の運営に関与するようになったのが、崔太敏・崔順実の父娘だった。

2002年5月13日、北朝鮮を訪れ、金正日総書記と会談した朴槿恵氏。南北の「独裁者の二世」同士の会談は話題を呼んだ

政界の表舞台に復帰したのは1998年4月。国会の補欠選挙にハンナラ党(現・セヌリ党)から立候補し、当選した。2002年の大統領選に意欲を示し、離党して新党「韓国未来連合」を結成したが、勢力は拡大せず、約半年で復党している。

台風の目に浮上したのは、2004年。このときも「弾劾政局」だった。

2004年3月、盧武鉉大統領の弾劾を推進したハンナラ党は、国民からの批判を受け逆風にさらされる。4月に予定されていた総選挙に向け、演説上手で保守層から人気の高かった朴槿恵氏を党代表に起用。劣勢だった選挙戦を終盤で盛り返した。

2007年にハンナラ党の大統領候補の予備選に立候補するが、李明博氏に大差で敗れる。しかし、予備選で朴槿恵氏は、李氏の不正疑惑を集中的に批判。2008年の総選挙では、朴槿恵氏に近い「親朴」の候補者の多くがハンナラ党から公認されず、李明博氏に近い「非朴」と激しい党内抗争を演じた。

ちなみに李氏と朴氏の激しい暴露合戦となった2007年の予備選では、李氏側から崔太敏氏に関する疑惑も提起され、朴氏が刑事告訴したこともあった。

2012年、李明博大統領の不人気で劣勢に立たされたハンナラ党は、党名を「セヌリ党」に変更して全面刷新を演出。朴槿恵氏が先頭に立ち、4月の総選挙で過半数を制した。2012年末の大統領選では、高齢層の支持を集め、野党統一候補の文在寅氏に大接戦の末勝利。ついに大統領の座に上り詰めた。

2014年3月25日、日米韓首脳会談で初めて会談した朴槿恵氏と安倍晋三首相

大統領に就任後は、安倍晋三首相との首脳会談を拒否し続け、公約に掲げた経済活性化も進まない。北朝鮮には強硬姿勢を貫き開城工業団地も閉鎖した。独断専行の人事や政策が目立ち、意思疎通の出来ない「不通」大統領と、保守陣営からも批判を浴びた。

それでも父親の経済成長に郷愁を抱く世代からの支持は厚く、約3割の「コンクリート支持層」があると呼ばれたが、崔順実氏の国政介入を許していた疑惑が表面化すると支持率は急落、弾劾に追い込まれた。

「私は国家と結婚した」としばしば述べる朴槿恵氏。上り詰めた国家のトップの座から、今度は国民の意思で降ろされようとしている。

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