『薔薇族』日本初の商業ゲイ雑誌の功罪 「LGBTブーム」の今、元編集長の伊藤文學さんにぶつけてみた

伊藤さんはあのとき、セクシュアル・マイノリティをどう思っていたのか。

1971年に創刊された雑誌『薔薇族』といえば、日本で初めて男性同性愛を扱った専門誌。その創始者である伊藤文學(いとうぶんがく)さんは、これまでにも一般メディアで何度も紹介され『薔薇族』がゲイ・コミュニティにもたらした功績が語られてきた。

日本初の商業ゲイ雑誌『薔薇族』(c)宇田川しい

確かに、一般書店の店頭でゲイの存在を可視化した『薔薇族』の功績は決して忘れられるべきものではない。しかし、功の部分だけを記録に残すのはゲイの歴史を誤って伝えることにもなるのではないか−−。

2017年、85歳になる伊藤さんに今だからこそ、あえて罪の部分についての質問をぶつけてみた。伊藤さんはあのとき、セクシュアル・マイノリティをどう思っていたのか。

■"歴史"の中で語られること、語られないこと

筆者は20年ほど前、伊藤さんにインタビューしたことがある。当時は90年代、女性誌『CREA』がゲイ特集を組んだことに端を発する、いわゆるゲイ・ブームの余韻が残るころ。そして『薔薇族』は競合誌を抑えてナンバーワンのゲイ雑誌であり公称3万部を誇っていた。

『薔薇族』創刊編集長の伊藤文學さん(c)宇田川しい

伊藤さんは当時、競合するゲイ雑誌との関係について自信を持ってこう語っている。

「一時は(競合誌)『アドン』に抜かれたこともあったけどね。だけど、月に二冊買うって人が多いんだよ。『薔薇族』と『アドン』とか、『薔薇族』と『さぶ』とか。それで二冊のうち一方は必ず『薔薇族』だからね」(別冊宝島240『性メディアの50年』「不朽のホモ雑誌『薔薇族』誕生秘話」)

前出のインタビューからほどなく『薔薇族』は後発の『Badi』誌にナンバーワンの地位を明け渡した。その後、2004年に廃刊。ネットやアプリの普及によってゲイ雑誌の需要そのものも低下した。

そして今LGBTブームとなり、早くもその終焉が囁かれ始めている。『薔薇族』はすでに歴史の中で語られる存在となった。

伊藤さんはこれまでに何度もメディアに登場し、『薔薇族』とご本人の歴史について語っている。最近では3月6日の朝日新聞が「ひと」欄で取り上げたので読んだ人もいるかもしれない。

そこでは、伊藤さん自身は異性愛者でありながら悩める同性愛者のために『薔薇族』を創刊し苦労しながら続けてきたこと。今もブログを通じて同性愛者をはじめとする弱者の側に立った情報発信を続ける伊藤さんの姿勢が、救世軍で公娼廃止運動をしていた祖父の"血筋"と考えていること。フランスの画家ルイ・イカールの作品を集めた美術館を作るなど文化芸術に造詣が深いことなどが語られていた。

これらは、今まで何度も語られてきた『薔薇族』の"正史"である。筆者が20年前に行った伊藤さんのインタビューの概略もこの枠を出るものではない。

しかしながら、正史からこぼれた逸史の中に真実があることもある。正直にいえば、以前からゲイ・コミュニティ内部では伊藤さんに対する批判の声は少なくないのである。

■『薔薇族』は原稿料を払わなかった!?

ゲイ・コミュニテイ内における伊藤さんに対する批判を整理してみたい。おそらくもっとも根強いのは"ノンケ(異性愛者)の伊藤さんがゲイを食い物にした"というものだろう。

具体的なエピソードの1つに"『薔薇族』は寄稿者に原稿料を一銭も払わなかった"というものがある。これについては様々な人に話を聞いているが、現在も一線で活躍するクリエイターを含めて、ほとんどの人がノーギャラだったことは事実のようだ。

ある人はこうぼやいていた。「『薔薇族』を買ったお金はみんな伊藤さんの美術品になっちゃう。ゲイ・コミュニティにはいっさい還元されないからね」。

この件について伊藤さんに直言すると、こんな答えが返ってきた。

「それは違うんだよ。当時はゲイを扱った作品を発表する場なんてないんだからね。そこに『薔薇族』が出来たから地方からどんどん作品を送ってくる。投稿者は誰も住所氏名なんか書いてないから原稿料を払いようがないんだ」

「でも(漫画家の)山川純一くんには原稿料を払ってたよ。一時期、彼はうちのギャラだけで生活していたくらいなんだから」

『薔薇族』創刊時に参考にしたのは、前出の同人誌や『風俗奇譚』などの投稿誌だ。『薔薇族』を支えた編集者に『風俗奇譚』の投稿者だった藤田竜と間宮浩の両氏がいたことも大きいだろう。『薔薇族』に"作者に原稿料を支払う"という発想がなかったのは仕方がないことなのかもしれない。

初期のゲイ雑誌のうち原稿料を払っていたのは、中堅のサン出版が発行していた『さぶ』だけだった。それにしても"雀の涙ほどの薄謝だった"という話を寄稿者から聞いている。

■薔薇族は、ノンケだから続けられたのか

「『薔薇族』は僕がホモじゃないから続けられたんだよ。ホモの人は自分の気にいらない人は喧嘩してみんな追い出しちゃうんだから」

このセリフは筆者の20年前のインタビューの冒頭にも出てくる。『薔薇族』は、『くそみそテクニック』などの掲載作品が、後にネット上でカルト的人気を得た漫画家、ヤマジュンこと山川純一氏には原稿料を払っていたようだ。しかし、その背後にも生々しい逸話があった。伊藤さんは当時を振り返る。

「山川くんの作品は、僕は良いと思って載せたんだけど、編集の藤田くんは嫌っていた。彼は短髪の男らしい男が好きだから、山川くんの描く長髪で面長の男は好みじゃない。しばらくは僕が強く言って載せてたけど、結局、藤田くんの反対で載せなくなったんだ」

「山川くんはうち以外の収入がなかったから可哀想で、掲載がなくても持ち込みがあるとお金を渡してたんだけど、そのうち本人が気まずくなったみたいで顔を出さなくなっちゃった」

■『薔薇族』からいびり出された才能たち

編集の藤田竜氏は、『薔薇族』の初期には自分で表紙イラストを描くほか、原稿も書き、編集もこなしたマルチアーティスト。前出の間宮浩氏や後に『さぶ』の表紙を描く三島剛氏、独立してゲイ雑誌『アドン』を創刊する南定四郎氏とも対立したという。

南氏は日本のゲイ・アクティビズム(社会的・政治的変化のために行動する主義)にある様々な源流の一つとされる人物であり、その彼が『薔薇族』を追われるように辞めたというのは何か象徴的にも思える。

「南くんが『アドン』を創刊するときは戦々恐々としてね。間宮くんと一緒に南くんの事務所のゴミ箱を漁って校正紙なんかを盗み見たんだよ。でも、見てみて2人で、なんだ大したことないやって胸をなでおろした」

以前、ハフポストでもインタビューした造形作家で編集者の大塚隆史氏も、短期間『薔薇族』編集部にいたようだが、「やめた理由は定かではない」と伊藤さんは言う。

「とにかく藤田くんは気にいらない人をどんどんやめさせちゃうんだよ。才能は並外れていたけど、人間的には難しい人だったね」

「藤田くんとは長い付き合いだった。いろいろあった中で最後には分かり合えた気がする。藤田くんは"ノンケの伊藤さんだから『薔薇族』がうまくいった"って言ってくれたからね」

■レズビアンとの偽装結婚を勧めていた!?

「編集長がノンケだから成功した」。これも『薔薇族』の"正史"でしばしば語られる言葉だ。一方で、当事者の意識とのズレも批判の的になった。

『薔薇族』では一時期、レズビアンとの偽装結婚を推奨していた。時代の制約を考慮したとしても、同性婚を求めるアクティビスト(活動家)には受け入れられない考え方である。

この他、伊藤さんは『薔薇族』に連載されていたエッセイの中でゲイの奔放な性行動について何度も批判していた。異性愛の規範をよしとする考えが根本にあったのかもしれない。

果たして、伊藤さんは今でも偽装結婚を推奨する考えに変わりはないのか−−。

「いや、今は偽装結婚は勧めないよ」

即答する伊藤さん。

「あれはうまくいかないよね。どっちかに恋人が出来たらダメになるでしょう。それに今は時代が変わって、ノンケでも結婚しない人が増えたからね」

また、今のLGBTムーブメントについてはどう考えているのか聞いてみた。するとこんな答えが返ってきた。

「カミングアウトっていうのはして得することはないと思う。知られちゃったら仕方ないけどわざわざ言うことはない。教養がある母親じゃないと、受け入れられないよ」

(c)宇田川しい

■セクシュアリティ理解についての時代的、世代的な制約

「LGBTって言うけどこれを全部、理解出来てる人っているの? 僕も教えてほしいよ」

先の発言もそうだが、伊藤さんはとても正直に話をしてくれる人なのだ。だから時代の変化への戸惑いも隠さなかった。ゲイと共に歩んできた人でさえ、セクシュアリティについての理解を上書きすることは困難なようだ。

伊藤さんは続けて、筆者にこんな質問を投げかけてきた。

「バイセクシュアルってどう思います? 僕はバイセクシュアルはいないと思う。だけどあいまいなものも残しておかないと逃げ場がないからね」

バイセクシュアルの存在を否定することは、多様なセクシュアリティを理解する現在の動きに逆行している。やはり世代的に染み付いた固定観念によるのだろうか。その辺りの当事者との意識のズレが結果的に後発誌『Badi』の台頭を許したのかもしれない。

『Badi』を創刊した中心人物は、新宿2丁目でポルノショップなど複数の店を経営するH氏だ。まさにゲイ・コミュニティのド真ん中からの発信だった。ネットのない時代、ゲイ雑誌を置いていたポルノショップは、ゲイにとってある意味、情報センターでありコミュニティセンターとしての役割も果たしていた。

■『薔薇族』は『Badi』になぜ負けたのか

最後にとても残酷かもしれない質問をぶつけてみた。20年前のインタビューで伊藤さんは当時創刊された『Badi』を意識しつつ『薔薇族』はナンバーワンであり続けるだろうと語っていた。しかし『薔薇族』は『Badi』に負けた。

その原因を、伊藤さんはどう考えているのだろうか。

「それは老齢化したからだよ。若い人を入れてもみんな藤田くんがやめさせちゃうんだから」

なるほど、それもあるかもしれない。しかし、20年ぶりにインタビューした筆者の感想は少し違うところにあった。

伊藤さんの発想の根本は「かわいそうな人を助けてあげる」、「困っている人を救済する」というものだ。先述の山川純一氏のエピソードからも分かるが伊藤氏は人を助けるのが習い性のようになっているのだ。

ここでは割愛したが今回の取材では他にも人を助けた数々のエピソードを語っている。だから伊藤氏は自らのルーツとして公娼廃止運動の熱心な活動家だった祖父の話を好んでするのだろう。

伊藤さんの心根の優しさは伝わってくるが、人権という観点から活動するアクティビストからすれば、上から目線と捉えられかねないものでもある。

今や多くのゲイも権利を要求することを当然とする意識を共有している(もちろん未だにゲイリブに否定的なゲイはいるのだが、『薔薇族』で育った彼らの心の奥底に伊藤文學が潜んでいるのではないかと筆者には感じられるのだ)。

■「棺の中には薔薇の花を1本だけ入れてほしい」

「編集長がノンケだから『薔薇族』は成功した」のは、一面の真理ではあるだろう。しかし、『薔薇族』が『Badi』に負けたのもまた編集長がノンケだったからだと思わざるをえない。そして「もし日本初のゲイ雑誌を作ったのがゲイ当事者であったら」という歴史のif(もし)について考えてしまう−−。

ゲイの歴史とともに生きる者として批判めいたことを書き連ねたけれど、もちろん日本初の商業ゲイ雑誌を作った伊藤さんの功績が色あせることはないと考える。

伊藤さんはこうインタビューをしめくくってくれた。

「いろいろなことがあったけど、いい時代にいい仕事をしたと思うよ。それでよしとしなければね。僕は最近、よく言ってるんだよ。死んだ時には棺の中に薔薇の花を1本だけ入れてくれってね」

(取材・文 宇田川しい

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