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痴漢騒動の「ブラックボックス展」から考える"お騒がせアート"多発の背景とは?

2017年07月06日 15時28分 JST | 更新 2017年07月06日 19時32分 JST

東京・港区のギャラリーで2017年5~6月に開催された「ブラックボックス展」では、真っ暗な展示会場で痴漢の被害を受けたとの告発が相次ぎ騒動となっている。

表現行為と安全性、人権の関係をめぐっては、近年、議論を呼んだ様々な出来事が他にもあった。例えば、2016年11月には「東京デザインウィーク」で展示されていた木製のジャングルジムが燃え、5歳児が死亡した事故があった。また、同じ年の1月には、京都のギャラリーで「会場に”デリヘル嬢”を呼ぶ」という提案がされ騒動になったこともあった。

事件や騒動そのものだけでなく、その後に「アートだから仕方ない」といった弁明や発言が、主催者側や擁護する一般の人からも挙がる現状は、「アート無罪」の言葉で批判された。

こうした騒動が度々持ち上がる背景に、アート界・教育界のなかでどんな状況があるのだろうか?芸術学が専門の千葉大学・神野真吾准教授に見解を聞いた。

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■「自分を安全な場に置き、自分以外の人に合意無くリスクを負わせるような表現が多い」

――「ブラックボックス展」についてどう感じられましたか。

(今判明している問題だけであれば)作者の意図的な悪質性は、他の問題に比べてそんなに深刻じゃないけれど、薄っぺらさ故に、今の「アート」が、世間的にどう捉えられているかという現実が、うまく反映されていると言えるかもしれないですね。

――ブラックボックス展に行った人の感想で、「すごいアートだ」みたいなものも多くありました。

その場合のアートって何なんでしょうね。

例えば僕は、今から20年ぐらい前に空間をテーマにした展覧会を企画したんですよ。その中で、ちょっと体験的な遊びのコーナーで真っ暗な部屋を作りました。教育的な視点で、視覚から切り離されたときに感覚的に空間を認識する難しさに気づいてもらうのが目的でした。空間の広がりは人間の想像力によって生まれるんだっていうことを。

――真っ暗な部屋で、安全対策はどのようにされましたか?

事故が起きないよう、監視の人を置いて、緊急のときにすぐに電気が付けられるようにスイッチを設置する。中に入るときには1人ずつ。子供が入るときには保護者と一緒に。安全対策は絶対に作品とセットじゃなきゃおかしいわけです。

――主催側を擁護するコメントで、「まさかそんな犯罪者が紛れこむと想定できない」というのもありました。

僕としては、意図せず結果的にそうなった場合も、アーティストは責任を負わなきゃいけないと思います。

中身が全くないものでも評判だけで多くの人が並ぶんだっていうことを批評的に示すっていう文脈であったとしたら、すでに分かりきったことで何ら新しさはない。その表現者にとって社会がどのように想定されているのか、っていうところがすごく表層で終わっている。どこもギクッとすることがないですね。

それに、行列の方が本当は目的なのに、暗闇の方が大きな問題になって話題になってしまった、っていう場合は、作者としては大失敗なわけですよね。

事後的に新たな意味が加えられるということもアートの特質の一つですが、ブラックボックス展では作られた暗闇が無法地帯的となり、人間の倫理観が失われる、という表現として結果的に批評されるようになってしまっています。

その場合、例えば、マリーナ・アブラモヴィッチは自分を危険にさらしました。「自分の体をどうしてもいいですよ」って、道具をいろいろ置いて。すると、だんだん展示に参加する人間が狂気に向かっていって、服が切り裂かれて、血が出るまで肌を切られるとか、銃で撃とうとする人まで出てきた。とても恐ろしい作品です。

でも、今回の件を考える上で重要なのは、彼女は他の作品でもそうだけれど、自分を危険にさらしています。まず傷つく可能性は、自分に向けられている。

だけど、最近僕が気になるのは日本の(ブラックボックス展などの)アーティストは、危険な領域に踏み込んだ表現をするような場合に、自分を安全な場に置き、自分以外の人に合意無くリスクを負わせるような表現が多い。それにはとても違和感がある。状況を作って、そこで「何か」が起こる、そして起こったことをサディスティックに、覗き魔的に窃視するみたいなことをアートと呼んでいる。結局、全ては弱いものを対象にしてやっているということ。

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マリーナ・アブラモヴィッチ

――鑑賞者側にも「アート無罪」というような考え方を表明している人もいました。

例えば、なぜバンクシーが違法行為をしながらも創作を続けられるかといったら、その作品内容が多くの人の共感を呼ぶからでしょう。アートってやっぱり、逸脱することで価値を生み出す側面がある。それが誰かを救うっていうことだってあり得ます。

「抑圧したり制約したりするものが無い方が人間にとって重要だよね」とか、「いまあるのとは別の形を想像できるんだ」っていうことが、規範からの逸脱によって表現されるということ。ルール破りをすることによって、何かが可視化されたり、別のあり方への共感が生まれたりして、新しいルールがつくられる。だからそれは「逸脱」であっても建設的な創造行為なのだと思います。

ブラックボックス展で主催者は、暗闇という無法状態をつくったことで逸脱はしているわけですよね。でも、それによって何が新しい知見として得られるのか。そこが問われるべきです。

表現の自由は、憲法でものすごく優先順位が高い権利ですが、それでも優先して考えなきゃいけないことがある。表現の自由を錦の御旗として立てて、他の要素を考えなくていいという風潮が背景にあるんじゃないかという気がします。

でも、一方で考えなきゃいけないのは、禁止事項ばかりが増えていくと、人間の活動範囲って狭くなってしまうわけですよ。そうなれば新しいものも生み出せない。

■アートの社会的な価値と、日本での草間彌生の「消費」され方

――確かに、それは息苦しい社会です。

アートが何故、社会的な価値を持っているのか。

日本だと、ほとんどの場合、感覚的な喜びのためだと思われていますね。例えば、草間彌生さんが一番分かりやすい。彼女は、性的な強迫観念で苦しんだ人です。今も統合失調症があって病院に住んでいる。そういう苦悩との折り合いを付けるために、彼女は表現者として闘って、作品の中にもそれが現れていた。

でも、いま展覧会を見に来るほとんどの人には、彼女は『髪の毛の赤いかわいい奇妙なおばあちゃん』みたいな消費のされ方をしているでしょう?あるいはポップな水玉の女王として。

日本では、アートの中身がすごく表層だけで扱われている。作品だけで、文脈が置き去りにされてしまうんですよ。

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『草間彌生 わが永遠の魂』会場風景(ハフポスト日本版)

だから、企画者側も、視覚的に派手だとか、人が喜ぶような見栄えのものだとか、そういうものばかり求めていくようになっていく。表層の造形要素です。

草間さんの場合、フォトジェニックなカボチャの作品がお土産になったり、「アートを巡る旅」とかいう雑誌特集に取り上げられて、「女子旅」の目的地として消費されたりとか。

私は草間彌生さんがとても好きで、自分が企画した展覧会にも出品して頂いたこともあります。余計に表層の消費がとても気になってしまいます。

山本幸三地方創生相が2017年4月に、観光振興にとって「一番のがんは学芸員。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ」って発言しましたね。あれも根っこは同じです。

学芸員は本来、作品や資料の研究をし、学術的な文脈の中に作品や資料を位置づけていく仕事です。文脈抜きではものの意味は存在しないし、その文脈を厚いものにするために学芸員は採用されている。

美術館とか博物館が持っている作品・資料の表層的なものだけを利用して、ゆるキャラを作るだとか、史実と関係のないイベントをするとかといったことが思いつきで言われれば、まともな学芸員ならすんなりOKをするはずがない。私も学芸員が従来の堅いイメージの仕事の範囲から出て行くべき点は認めます。しかし、そこで活かされるべきものは、研究に基づいた分厚い文脈であって、それを無視して、変わったことをして人を寄せればいいんだということでは決してない。そんなことしていても持続性はないです。

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ゆるキャラグランプリ2016(時事通信社・撮影日:2016年11月06日)

文脈が軽視されて、作品が与える感覚的な刺激を追求するその延長線上に、ブラックボックス展のように「コンテンツは参加した人間です。おお、怖い」みたいなことが起きてしまうんだろうと思います。薄っぺらですね。それがすごく問題です。心理学の実験のほうがもっとすごい、驚くべきことを可視化していますよね。

新しい刺激だとか、強い刺激を求めることがアートの前衛性だって思っている人たちはおそらくいまだに数多くいるんだと思います。

でも例えば、僕はChim↑Pomは評価しています。Chim↑Pomが優れているところは、彼らが、なぜ逸脱行為や、変なことやったりするのかっていうことをきちんと考えていることです。

■Chim↑Pomは対話を続けた

――今回のブラックボックス展の騒動で、同じような意味合いでChim↑Pomの過去の作品を批判していた人もいましたが。

Chim↑Pomは、2008年、広島の空に原爆の閃光をイメージさせる「ピカッ」という文字を飛行機雲で書いたという作品が問題になったことがありました。確かにあれは、怒られて当然なんですよ。

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Chim↑Pom公式サイトより

自分たちの作品の素材にするために広島の空に「ピカッ」という文字を描いた。それは搾取なんですよ。被爆者であろうが、なかろうが、空にいきなり「ピカッ」って書かれたら怒る人もいるかもしれないし、「え?何が起きたの?」って不安がる人もいるかもしれない。それは一時的にではあっても、自己都合で、関係の無い人たちから広島の空を奪ったということですよね。了解無しに。

でも、彼らはそこで起こった事態に誠実に対応します。それから対話を続けたんですよ。パブリックな場で表現する時は、受け取り手が誰なのか分からない。それによって傷付く人がいる可能性もあるんだと学んだのでは無いかと思います。文脈を踏まえ、どのように逸脱するのかが表現者には求められます。

被爆体験が、どのように広島で扱われ、被爆者がどのように生きてきたかをリサーチし、彼らはアーティストとしてのその後の方向を決めていったのでは無いかと思います。「ピカッ」の時の展覧会は中止されたんですが、別の展覧会を広島でちゃんと実現しています。

それから、アメリカのトランプ大統領がメキシコとの国境に壁を作ると発言した時には、国境とか、越境とかをテーマに国境付近のメキシコ側にツリーハウスを建てました。そこからはアメリカ側に設置された作品が遠望できたり、その近くには、国境線まで伸びる地下道が掘られたりもした。作品として。それらの行為は違法なのかもしれないけれど、われわれの居場所とか、国籍であるとか、どこからどこへ行っていいとか、行ってはいけないとか、それが何によって決まるのか、決められるのかっていうことを考えさせる作品でした。最初は感覚的な衝動であったとしても、社会の文脈を踏まえて、作品としていろいろなことを突きつけるものだったと思います。

何が問題なのかっていうことに対して、感性的に立ち向かって、目に見えるような形を与える。それによって世間はざわついたり揺さぶられたり。ある種の不愉快な思いもするかもしれないんだけれども、でもそれがきっかけになって認識したり、考え始めたりする。そのことにアートの社会的な価値があるのだと思います。

――対話の中で変わっていったということですね。

コミュニケーションやリサーチによって、アーティストにとっての文脈が設定されていったのだと思います。

日本の最近の若いアーティストたちの表現は、言及すべき社会がどこに設定されているのかがよくわからないものが多い。ないのかもしれない。感覚的な新しい刺激とかを与えて話題になれば有名になれるとか、いいね!が増えるみたいな、そういう発想がもしかしたらあるのかもしれない。

逸脱してもその目的がない。「アートは目的を持たないし、結果が何を生み出すのか分からないんだから」って、強弁する人もいるんですが、言葉としては正しい反面、現実の社会の中でそれが通ると思うのは傲慢だと思うんですよね。

――そういう風潮になったのはどうしてだと思いますか?

日本で生活する若い人たちが「自分にとっての社会はこうである」といった問いを立てないで済んじゃう、立てない方が良いという教育をされてきたことの帰結のような気がするんですよね。

過去に合同ゼミで、ある美術系大学の学生が、「ピンポンダッシュをして、出てきた家の人が誰もいなくて怪訝そうな顔をする」という映像を隠し撮りして発表しました。僕は「芸術だから何でも許されるの?どういう発想なの?見ず知らずの人の日常をあなたの作品のために乱され、利用されるのはどう正当化できるの?」っていうコメントをしたのですが、彼の指導教員は「全ての芸術表現は何かしら人を傷付けるものである」といって擁護したんですね。

実は、このレトリックを芸術の世界では少なくない人が使います。これも言葉の上では正しいんですよ。しかし現実の世界でそれがそのまま通るはずはない。

■対立を恐れる「批判なき政治」が招くもの

――教育現場でもそういう先生がいるんですね。ちょっと驚きです...

例えば今井絵理子参院議員が、都議選にあたって「批判なき政治を目指す」とTwitterで表明して炎上していましたね。批判がない政治は全体主義でしかないし、独裁者の統治でしかないから、民主主義国家では、政治家はそんなこと言ってはならないですよね。

けれども、今の若い人たちの中には、対立を恐れるあまりに迎合する雰囲気がある気がします。そうすると、倫理的な問題と、表現したい個人の欲求が対立したとき、それが調整されるコミュニケーションがどこにもなくなってしまう。

――Chim↑Pomが軌道修正したような、コミュニケーションが生まれなくなってしまうということですね。

芸術は個人の願望とか感覚、感性的なものを前面に出すので、すごく極端に出てしまう。しかしそれを扱うコミュニケーションのチャンネルはない。

表現の自由が過大評価され過ぎていて、身内のノリの中で、倫理と個人の欲求の橋渡しをするようなコミュニケーションがないということなんでしょう。

あとは、表現の自由ともつながりますが、芸術至上主義的な、逸脱することの価値や新しい感覚があまりにも過大に評価されることによっても問題が起こる。

逸脱は重要なんだけれども、逸脱するときには、逸脱されるべき対象が何なのかっていうことを表現者が把握していなくては意味がない。そこがすごく空白になっている。

それがまさに「批判なき政治」っていう言葉に現れているんじゃないかなと思いました。対象が問われていない。文脈抜きにして、喧嘩はダメねみたいな。

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臨時国会が召集され、初登院した自民党の今井絵理子参議院議員=東京・国会内 (時事通信社・撮影日:2016年08月01日)

■お騒がせが繰り返されると「表現の自由」の価値が信じられなくなる

――何度も似たような騒動が起こっています。

アートとは何かっていうことをきちっと議論しないと同じことが起き続けるんですよ。

表現することの意味とは何なのかをきちんと考えるべきで、そのときに「お騒がせして注目を浴びたい」人は堂々と無視すればいいし、刑事罰に触れるんだったら逮捕されればいい。

でも、乗り越えるべきものがあって、そのためになにか波風を立てようとする時のために、言論の自由、表現の自由を守り続けなくてはいけない。お騒がせ的な逸脱が、表現行為そのものだとされてはいけないと思います。

あまりにも安易なお騒がせ行為ばかりが繰り返されていると、表現の自由の価値っていうのを多くの人が信じなくなるかもしれない。そこがちょっと怖いですよね。

それに、お騒がせ的な表現は、日本の芸術家が政治の問題を全然扱わないっていうことの裏返しのような気もします。

――裏返しというとどういう意味ですか?

(表現行為って)基本的に人間の暮らしに直結するものなわけで、社会の有り様とものすごく深く関わっているものが生まれてくるはずだと思うんですよ。

それなのに、あまり政治的な作品は生まれてこない。こんなに政治的な事柄が社会の主要な話題になっているのに。そうした政治的な表現活動を自分が危険にさらされてもやる、というのが極端に少ない日本の状況の裏面が、ああいう「お騒がせ」な表現なのではないかと。強いもの、権力に向かうのでは無く、弱い人に向かう表現を生み出しているということに繋がっていると思うんですよね。

今、表現者たちにとって危機的な状況だと思うんですよ。多くの人たちは「表現の自由」なんかなくたっていいって多分思っていますよね。「表現の自由って、ワイセツとかの話ばっかりで、別に自分たちの好きなものは読めてるし」と、思っているんじゃないでしょうか。

だけど、そうじゃないですよ。あなたたちが今自分の好きなものが読めるのは、表現の自由があるからです。選択する対象そのものが変容してしまうかもしれない。表現者や媒介者の忖度によって。

一部の政治家とかが決めた、価値があると思われているものしか見ることができなくなる社会っていうのを望むんでしょうか?表現者もそのことをあまり考えていないように見えます。

ここ1年ぐらいで現今の日本の政治状況やそれに伴う社会の変容に正面から切り込んだ作品は、私の知る限り小泉明郎さんの作品だけです。『帝国は今日も歌う』は、今の日本でしか実感を持って見られないすごい作品でした。集団のエネルギーのもつ甘美さと、同時に存在する恐ろしさ。その渦の中に自分たちはいるはずなのに、そうは思えないことへの焦燥感。それはどんな言説よりも直接的に自分に伝えられます。それがアートの力なのだと思います。

しかし、2017年の今現在、最も見られるべきその作品を日本の美術館はどこも扱わないだろうと。そうした状況の中で、ばかげた炎上騒ぎをしているっていうことっていうのはどこにつながっているんだろうか。そのことも僕は不安に思います。

――「アートとは何か」考え続けないといけないということでした。先生が今お考えになっているアートとはどんな存在でしょうか。

今、何がアートの本質かっていうと、物や、存在の有り様の多面性が見られることだと僕は思っています。いろんな角度から眺めたときに、別の相、顔が見られるということ。それによって、対象の存在っていうものを別の形に組み替えるとか、捉え直すとか、そういうことの契機を与える、きっかけを与えるようなものだと思います。

要は作品に触れることによって、そういうきっかけをわれわれが得る。そういうものだと僕は思っていますね。

僕らは、もうガチガチに凝り固まっていて、「これはこうだ」っていうふうにしか見ない社会の在り方に慣れてしまっているんだけど、そうすると新しいものは生み出せないし、変えることもできない。考えることも必要なくなるわけですよね。

だけどアートっていうのは、「本当にそういうものなの?」という疑念を自分のなかから生じさせたり、「別の姿に見える!」という別の視点を与えてくれたり、作品体験を通して常に新鮮な状態に世界を置くことができるようなものって僕は捉えていますね。

――学生にもそのように指導されているんでしょうか。

今は、美術の重要性や特質について話をするには、社会との関わりや政治的な話をするしかないと思ってるので。最近は、授業でもそういう話をしています。

例えば2017年6月に、零戦(旧日本軍の零式艦上戦闘機)が千葉の幕張の空を飛ぶパフォーマンスがありましたね。

零戦は美しいと思います。形態的に。僕も昔、プラモデルとかが好きだったから、兵器とか戦車とか、軍艦とか、そういうものをかっこいいと思う美意識っていうのは持っています。

けれど、僕は特攻の歴史は愚かだと思うから、「日本のかつての栄光」みたいな文脈で語られるのは認められない。感性的に美しいと思うことと、その事物が持っている歴史的な意味は切り離せないと思います。古典的な美の自律性をどう乗り越えるのかが、現実の世界では問われています。

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ハフポスト日本版 2017年6月4日撮影

アートの世界では、色とか形とか、そういうもので純粋に美しさを感じるっていうことが肯定されるようになっているけど、それは無理ですよ。

そういうことを話した授業で、過去の殺人事件を引き合いに、「死体を美しく思ってしまった犯人の美的感性は止められない」と授業のフィードバックのコメントで書いてきた学生がいました。彼の心の中は自由です。そう感じるのは止められないかもしれない。ただし、現実の世界ではその美的感性は抑圧されなきゃいけない、制限されなきゃいけない。私たちが美しいと感じるのは自由なんだけれども、でも現実の世界では全てが許されるわけではない。

けれども、自由を求めなければ、ナチスの「退廃芸術展」みたいに、権力者が良いと言ったものは良いと感じなきゃいけないと強制されることにもなり得る。だから、自由と制約の間で常に考え続けるっていうことが私たちに求められている。奴隷としてではなく、民主主義社会に生きたいんであればね。

――アートに限らず、自由な言論とヘイトスピーチ規制を巡る問題にも通じる話ですね。

ヘイトスピーチも表現の自由を考える上でとても大きな問題となりました。要は感性から生じた感情をそのまま肯定して自分たちを正当化したくなるとヘイトスピーチが起こる。それを表現の自由と呼べるのかということについてはすでに多くの議論が重ねられています。ヘイトスピーチが、現行の日本という国家が保障している人間らしい暮らしを妨げるのであれば、ヘイトスピーチが表現行為であるとしても制約されなきゃいけない。

いじめ問題もみんな根本は一緒だと思います。いじめって、大体「うざい」「きもい」から始まるわけでしょう?その感情から出発して、だれかにいじめをする。その行為はある種の表現行為とみなせると思います。しかし、その感情の根拠を正当化できるかが問われるはずです。「表現行為は人を傷つけるもの」というレトリックは、その行為の出発点の衝動とか感情は正当化できるのかということを表現者が自ら検証して問う責任がある。きちんと他者を納得させなきゃいけない。

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それができなかったら、あなたの感情の吐露は差別ですよ、差別は罰せられます。それは、もう小学校でちゃんと教えるべきことなんですよ、だけど教える側の人間も「あいつ、うざいよね」って同調しちゃう場合も見受けられます。簡単に。その感情の上に私たちの社会が乗っかっているんですよ。

美術っていうのは、感性とか感情に関わるものだからそういったことにすごく深く関わっている。だから、自分の感情をそのまま肯定していいっていう教育を美術がしているとしたら、美術はいじめに加担してるのと構造的には一緒なんですよ。

アーティストたちがすごくサディスティックな眼差しで、誰かを望まない状況に巻き込んで、作品化して、見ているような。そういうことは、弱いものいじめと同じと言えるんじゃないでしょうか。

▼神野真吾(じんの・しんご)さんプロフィール

千葉大学准教授(芸術学)。

1967年生まれ。東京芸術大大学院修了。山梨県立美術館学芸員などを経て現職。国立美術館の教育普及事業等に関する委員会委員、千葉市文化芸術振興会議委員長。著書『社会の芸術/芸術という社会』(フィルムアート社)ほか。

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