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藤井四段を目指す子供たちを育てたい...指導者として蘇った「伝説の棋士」永作芳也の棋士人生をたどる

2017年08月03日 17時23分 JST | 更新 2017年08月04日 00時26分 JST

藤井四段ブームで賑わう将棋界に一本のニュースが舞い込んだ。それは「伝説の棋士」永作芳也氏の消息を伝える記事だった。

永作氏は1989年、突如として日本将棋連盟を「退会」。棋士の身分を捨て、将棋界から姿を消した。当時伝えられた理由は「名人になれないと悟ったから」。そんな人物が、約30年の時を経て、再び姿を見せた。今度はプレイヤーではなく指導者として…。

現役時には、烈々たる闘志を隠そうともせず、盤に向かうことで知られていた永作氏。谷川浩司、島朗、羽生善治…煌めく星のような一流棋士達と、どんな戦いを見せたのか。そして、なぜ棋士の身分を捨てたのか。還暦を過ぎたいま、永作氏はなぜ再び将棋と向き合うのか。前編に続き、将棋ライターの松本博文氏がレポートする。

【※】前編はこちら⇒30年前に姿を消した『伝説の棋士』永作芳也の消息が明らかに。「相手を突き落としても...」勝負哲学を語る

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「努力」と「闘志」で勝ち得たもの


永作芳也氏(松本博文撮影)

現在の奨励会では、三段リーグという制度がある。三十人前後の三段が、半年1期、全18局のリーグ戦に参加し、上位2人が昇級し、四段に昇段する。わずかに例外はあるが、基本的には、毎年4人しか昇級できない。

一方で永作が奨励会に在籍した頃には、三段リーグはなく、規定の成績をあげれば、四段に昇級できていた。どちらかといえば、人数の制限があるだけ、三段リーグの方が厳しいかもしれない。しかしそれでも、かつても大変だったことには、変わりがない。

また奨励会には、年齢制限がある。永作の時代であれば31歳。現在であれば基本的に26歳までに四段になれなければ、自動的に退会となる。その年齢に近づけば近づくだけ、棋士となる可能性は閉ざされていく。

永作は塾生(将棋会館の雑用係)をしていた頃に、同じ塾生で先輩だった、武市三郎(現七段、引退)と仲良くなった。

「武市さんは人柄がいいからさ。誰からも好かれるんだよね」

永作は、何度か四段昇段の一番に敗れた。そして皮肉なことに、四段昇段のチャンスがまためぐってきた際の対局相手が、武市だった。日頃どれだけ仲がよかろうとも、盤をはさめば関係ない。互いに相手を叩き潰す意気込みで立ち向かう。それが奨励会という場である。

その大一番に、永作は勝った。

努力の人、永作芳也はついに、四段昇段をはたした。1979年、24歳の時だった。現在では制度が変わってしまったこともある。しかし、それとは関係なく、19歳の時点で6級の実力だった者が、四段に昇段する例は、もう二度とないだろう。

永作は努力の人であり、また闘志の人であった。だからといって、暗い性格の持ち主だった、というわけではない。むしろ明るく陽気で、多くの先輩棋士からかわいがられた。

「いろんな人と交流がありましたよ。有名なところでは、芹沢先生。それから中原さん、米長さんとかね」

芹沢博文九段(故人)、中原誠・十六世名人、米長邦雄永世棋聖(故人)といえば、世間でも広く知られた棋士である。

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故 米長邦雄永世棋聖(左)と中原誠・十六世名人

奨励会時に塾生をやめた後は、都内の阿佐ヶ谷に部屋を借りて住んでいた。

「石田さんも阿佐ヶ谷に住んでてね、しょっちゅう、うちにも遊びに来てましたよ」

石田和雄現九段はかつてA級にも所属していた、一流棋士である。現在では引退して、代わりに弟子が活躍をしている。最近では、石田門下の佐々木勇気六段が、藤井聡太四段の連勝記録を29で止めたことでも話題になった。

同じ阿佐ヶ谷には、桐谷広人(現七段、引退)も住んでいた。株主優待券を使って生活する風変わりな人として、テレビのバラエティ番組で、一躍有名になった棋士だ。永作にとっては少し先輩に当たる。クラスが同じC級2組のため、よく対局した。

「桐谷さんは真面目でね。私とはタイプが違うので、遊ぶことはなかったです。桐谷さんはちょっと異質で、今の若い棋士とも、タイプが違うでしょう」

夢の先にあるもの 将棋界の頂点「名人位」


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現在の名人位、佐藤天彦名人

将棋界では長い間、ピラミッドにも喩えられる順位戦が、制度の根幹をなしてきた。ピラミッドの頂点に位置するのは、ただ一人の名人である。そのすぐ下には、定員10人のA級が存在する。ここまでたどりつくことができれば、一流棋士とみなされる。奨励会を抜けた新四段が属するのは、ピラミッドの下の方、C級2組である。

現在ではそれほどでもなくなったというが、かつては順位戦のどのクラスに所属するかで、ステータスが明らかに違っていた。そのため、棋士たちは長年に渡って、順位戦で死闘を繰り広げてきた。

周囲には、永作は棋士になれただけでも、奇跡のようなことだと思われた。しかし永作が見据えていたものは、まだまだ先の方にあった。すなわち、将棋界の頂点である、名人位だ。

順位戦で昇級するということは、永作にとっては、名人に近づくことを意味した。1982年度、永作はC級2組順位戦(当時の呼び方では昇降級リーグ4組)において好成績をあげ、大きな昇級のチャンスを迎えた。しかし次点で、惜しくも及ばなかった。

「順位戦でも8勝2敗で頭ハネをくらって…。そんなの忘れちゃったけれど、(将棋教室のことを紹介した)新聞に書いてあったからねえ」

勝負の世界に、もしもはない。しかし、もしも、そこでC級1組に昇級していたら、永作の棋士人生は、変わったものになっていたのだろうか。

「逃がした魚は大きかった」 名人候補・谷川浩司との対局で…


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谷川浩司九段(1995年)

かつて将棋界には、「オールスター対抗勝ち抜き戦」という棋戦があった。上級グループと新鋭グループに分かれて、勝ち抜き戦をおこなうという形式である。

1982年。永作は新鋭グループの予選で中村修四段(後に王将位を獲得、現九段)を破り、勝ち抜き戦への出場を決めた。そして上級グループから出場した、A級通算7期(当時B級1組)の板谷進八段(没後追贈九段)に勝利を収める。

観戦記を担当した東公平(ひがし・こうへい)記者は、永作について、次のように紹介している。

ひまさえあれば将棋盤に駒をこつこつと並べている姿は、「将棋盤を耕す男」と言われたほどであった。(中略)また、人柄がすばらしいのである。努力型にありがちな暗さが、この人には見られない。すべてに明快。まだ独身で、今の地位に甘んじるふうが少しも見られず、期待できる人材だと思う。
(「日刊ゲンダイ」1982年6月5日)

新鋭グループ側で勝ち抜き者となった永作は、2戦目で、上級グループの谷川八段との対戦が決まった。すなわち、20歳になったばかりの、谷川浩司八段である。

「兄さん(谷川俊昭アマ六段)とは一回指したことがあるんですよ」と永作。数年前、まだ奨励会初段のころに、東大将棋部との対抗アマプロ戦で会い、永作が勝っている。(「日刊ゲンダイ」1982年6月13日)

谷川兄弟といえば、将棋界では、才能ある者の代名詞だった。永作が以前対戦した兄は、その後はアマ最強とも言われた。そして弟は14歳で四段となり、19歳でA級八段。プロ最強の座をうかがう存在となっていた。

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谷川浩司九段(左)と谷川俊昭氏

永作本人がどれだけ高い志を持とうとも、どれだけ努力をしようとも、永作四段を名人候補と言う者は、誰もいない。一方の谷川八段は、押しも押されもせぬ、誰もが認める名人候補だった。

その谷川八段を前にして、永作四段は臆することがない。正面から、堂々と渡り合った。戦形は相矢倉である。タイトル戦の大舞台で中原誠、加藤一二三、米長邦雄らがぶつかり合っていたこの頃、

「矢倉を制する者は棋界を制する」

と、さかんに言われた。互いに矢倉囲いに組み合う「相矢倉」の戦いは、盤面広く、ほぼ全ての駒を使っての攻防となるため、実力が最も発揮されやすいと言われていた。居飛車本格派で、攻守にバランスが取れたタイプの永作も、矢倉を得意の戦形としていた。

谷川-永作戦の形勢は揺れ動いた。そして終盤。永作は、谷川の猛攻を耐えしのぎ、反撃に転じた。形勢は永作に傾く。そして永作は、名人候補の谷川を、はっきりと負けを覚悟させるところにまで、追い詰めた。

しかし永作は、受けるべきところで、攻め急いでしまう。重大な錯覚をしていたのだ。永作はほどなく、自分がミスをしたことを悟った。そして秒読みに追われる。対する名人候補は、もう間違えない。無念のうちに駒を動かす永作を、観戦記者の東公平は、次のように描写している。

ちょうど野球の投手が、自身に腹を立てて帽子をグラウンドにたたきつける姿を連想した。手がふるえていた。(中略)逃がした魚は大きかった。とてつもなく大きかった。
(「日刊ゲンダイ」1982年6月19日)

永作にとっては、悔いの残る敗戦だった。しかし、どれだけ惜しかろうとも、終わってみれば、結果は順当なものと思われてしまう。名人候補のA級八段が、C級2組の四段に勝った。それだけのことである。後世の人々がこの一局をとりあげ、振り返る可能性は、はたしてどれだけあるだろうか。

時間がはるかに過ぎた後で、因縁めいたことを言うのはたやすい。それでもあえて言うとすれば、1982年度、永作四段はC級2組で昇級を逃している。一方の谷川はA級で最上位の成績を挙げ、加藤一二三名人への挑戦権を獲得。4勝2敗で七番勝負を制し、史上最年少、21歳で、名人位に就いていた。

足りなかったかもしれない「勝負師の条件」


中学3年生、15歳で四段となった羽生善治(現三冠)は、1986年、王将戦一次予選の対局で公式戦デビューを飾った。後に史上初の七冠制覇をはたし、現在では史上最強の棋士とも称される羽生の、記念すべき第一歩である。だからそのトーナメント表は、今でも時おり、目に触れられることがある。

その頂点に記されている名前は、途中で敗れた羽生ではない。反対の山から駆け上がってきた、永作である。

1986年。永作は、羽生四段のライバルと目される、森下卓四段(現九段)と対局した。結果は永作の勝利。通算100勝目をあげた。そして規定により、五段昇段を果たす。

「努力の鬼です。努力の代名詞のような人でした」

森下現九段に往時の永作五段について尋ねると、遠い目をして、懐かしそうに、そう語っていた。

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森下九段

1987年。永作は、当時存在した「名将戦」という棋戦で、島朗(しま・あきら)六段(現九段)と対戦した。島は1980年、17歳の若さで四段に昇段。永作から見れば、島は8歳下だ。しかし順位戦のクラスはB級2組。その時点では、島の方が格上である。島は翌88年、初代の竜王位を獲得。一躍将棋界のトップに躍り出た。それほどの英才である。

島六段-永作五段戦は、中盤で永作が必勝形を築いた。並の相手であれば、そのまま永作が押し切っていたであろう。しかし島は、粘りに粘った。永作の側に叩き上げの意地があるとすれば、島の側にも、エリートコースを歩む者として意地があった。

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島九段(左)と永作氏

一般論として、形勢に差がついた際、相手が自分より格上の場合には、あきらめてしまうことが多い。だから強い者はその信用で、より勝てる、という理屈になる。

一方で、相手が格下ならばどうか。意地でも負けたくないと思い、実際に逆転のチャンスはあると思えば、あきらめずに、とことん粘ろうという気になる。その態度は言わずとも相手に伝わり、時に相手をいらだたせることにもなる。

島-永作戦の形勢は、次第に混沌としていく。将棋の対局において、闘志はもちろん重要である。しかし勝負師であれば、そこで同時に、冷静さをも保たねばならない。将棋はメンタルのゲームだとも言われる。頭に血が上り、熱くなっていいことは、ほとんど何もない。しかし永作はその時、熱くなっていた。駒音激しく、盤に駒を打ちつけるように、指し続ける。

湯川博士(ゆかわ・ひろし)記者の観戦記(『週刊文春』1987年4月9日号掲載)を読むと、永作のいらだちが、よく伝わってくる。島の持ち時間が切れていることに気づかず、秒読みを始めない記録係に対して声を荒らげ、島の意外な応手に舌打ちをする。

永作は島が粘るので怒っている。一手一手激しい駒音を立てて、ギロッとにらむ。島は自分でもこんなに粘るのは初めてというぐらいの辛抱だ。
(湯川博士)

互いに一分以内に指さなければ負けとなる、秒読みの中で、終盤戦は延々と続いた。島は我慢ができなくなっていたのだろう。途中で、トイレに立った。

「頭にくるなー」と永作。仮に島が立った瞬間永作が指し、島が一分以内に戻れないと時間切れで勝てる。
(湯川博士)

島は相手の応手が難しい手を盤上に残して、席を立った。おそらく、永作がすぐに指し返すことができないと見越していたのだろう。

たとえ最善ではなかろうとも、何でもいいから指してしまえばいい。将棋の真理を探求する前に、勝負にこだわる者であれば、そう考えるところだろう。

後年、プロとアマが対局する公式戦で、アマがトイレに立った際にプロが指し、アマが時間切れで敗れるという事件があった。後で外野が何をどう評しようとも、勝負はもちろん、ルール通りに、プロの勝ちである。

「相手を突き落としてでもいいから、勝ちたい」。そういう気迫で、奨励会という難関をくぐりぬけ、プロとなったのは、他ならぬ永作ではなかったのか。

しかし永作は、すぐには指さなかった。観戦記によれば、「一分ちょっと」で島はトイレから戻ってきた。勝負はおそらく、その時点でついていた。

(前略)永作は、「あんないい将棋がなんでこうなるんだ」と怒りの色が満面に浮いている。永作はこれ以上追えない所まで追って、悔しそうに投げた。しかし顔面には怒りが残っている。しばらく無言の後で、「これ、感想戦なしナ」と、後輩の島に言って、激しく部屋を出ていった。
(湯川博士)

当時の永作の気性がよく表された描写だ。そして、努力と闘志の人であった永作に、勝負師としては、何かが足りなかったのではないかと、示唆をもさせる。そして、最後の一文は、その後の永作の棋士人生を、暗示していたかのようでもある。

「史上最強者」羽生善治との邂逅


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羽生善治 現三冠(1994年12月9日)

1987年。永作はNHK杯トーナメントの予選を勝ち抜き、初めての本戦出場を果たした。

現在のようにインターネットによる中継がない時代。棋士と直接触れ合う機会のない将棋ファンが、棋士の姿を見ることができるのは、テレビしかなかった。日曜日の朝のひととき、変わることなく放映され続けるNHK杯は、常にファンの注目度が高い。棋士にとっては、またとない晴れ舞台でもある。

トーナメントの1回戦。31歳の永作五段は、その晴れ舞台で、16歳の天才少年、羽生善治四段と対戦することが決まった。

当時の羽生四段の評判については、『NHK将棋講座テキスト』1987年8月号に掲載されている、南川義一記者の観戦記を引きたい。

お待ちかね羽生四段の登場である。デビュー1年目で40勝14敗の好成績を上げ、将棋大賞の勝率1位賞と新人賞に輝き、天才羽生の評価を高めた。今期に入っても負けなしの6連勝と勝ちまくり通算9連勝。今年も“羽生旋風”が吹き荒れそうな雲行きである。
(南川義一)

いまの藤井四段の勝ち方は、信じられないほどだ。しかし当時の羽生四段もまた、尋常なものではなかった。その注目度は、当然ながら高かった。

現在中学3年の藤井は、高校に進学するのか。それとも棋士に専念するのか。それはこれから、本人自身が決めることだ。

羽生は当時、高校2年だった。棋士と学業の両立を目指す、当時の羽生の声も引いておきたい。

「朝7時半頃起きて登校し、4時すぎに帰宅。将棋の勉強(詰将棋が多い)は、1日平均2時間ぐらいです。学校のほうは対局の翌日が試験ということもあるので大変ですが、まあ、それはしかたありません。大学に進むかは特に考えてはいません。それより、まず高校を卒業しなくては…(後略)」
(南川義一)

羽生はその後、あまりによく勝ち、あまりに対局がついたため、出席日数が足りなくなってしまった。その後羽生は、通信制の課程で、高校卒業の資格を得た。

永作については、「猛勉強ぶりはよく知られている」「その熱心なことでは右に出る人はいない」という、定跡通りの紹介のされ方だ。

ここで改めて振り返ってみれば、永作がまだ弱いまま、棋士の道を志し、高校を辞め、まずは奨励会に入ることを目指したのは、高校2年のときだった。16歳の永作アマと羽生四段とでは、気が遠くなるほどの差がある。

永作五段-羽生四段戦は、相矢倉となった。そして、作戦勝ちを収めたのは、後手番の永作の方だった。当時の羽生が、既に尋常ではなく強かった。それは間違いない。しかし、序盤に関してはまだ、まだそれほど上手いとは思われていなかった。

羽生が実力を発揮するのは、その後である。『羽生善治全局集』に付された、他の棋士による冷静な解説によれば、途中からは羽生がよくなり、リードを保っていたとされる。ただし当時の観戦記を読む限りでは、対局中、永作側も十分やれると見られていた。永作本人も、自信があった。当時の視聴者も、手に汗を握りながら観戦していたのではないか。

最後に勝ったのは、16歳の天才少年、羽生善治四段だった。今となっては多くの人が、順当な結果と見なすだろう。しかし少なくとも、当時の永作は、そうとは考えていなかった。

局後、永作は「ずーっと指せていたのに、(終盤の矢倉崩しの手筋である)▲2四桂の応手を間違えた」と唇をかむ。形勢に自信を持っていただけに、この不本意な敗局は、かなりこたえたようである。
(南川義一)

その後の羽生の歩みについては、改めてここで詳しく記す必要はないだろう。19歳、永作が奨励会6級だった歳に、羽生は初タイトルの竜王位を獲得している。1400近くもの白星を積み上げ、100近くものタイトルを獲得した現在の羽生のキャリアの中で、NHK杯1回戦のこの一局は、さほど重大な意味は持たないかもしれない。しかし、永作にとっては、どうだったか。

羽生との対局から1年後。永作の棋士人生は、突然の終わりを迎えた。

将棋連盟を「退会」した真の理由とは?


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永作氏(松本博文撮影)

1988年。永作は、将棋連盟を退会した。

血を吐くような努力をしてつかみとった棋士という地位を、自らの手で、投げ捨てたのだ。それまでの永作の歩みを考えれば、信じがたいことである。しかもまだ、32歳の若さで。いったい、どういうことなのか――。

「週刊将棋」1988(昭和63)年4月13日号の記載は、事務的でそっけない。

【退会】永作芳也(ながさく・よしなり)五段

昭和30年9月27日、茨城県行方郡麻生町の生まれ。48年(故)加藤恵三八段門。52年初段、54年四段、61年五段。


以上である。

後に伝えられた退会の理由は、実にシンプルだった。そして、それもまた、にわかには信じがたいものだった。

「名人になれないと悟ったから」


そういう理由で永作は、棋士を辞めたのだという。

それを聞いたある長老格の棋士は、将棋界始まって以来の快男児だと、永作の潔さを称えていた。しかし一方で、名人候補でも何でもない、変わり者の永作が、変わった辞め方をしただけだと、冷ややかに見る関係者も少なくなかった。

永作一人が辞めても、将棋界は、変わらずに続いていく。そして将棋界の正史は、天才たちが創り上げていく。

谷川浩司や羽生善治らが、タイトル戦の舞台で、華々しく戦う。輝ける羽生七冠の時代が訪れ、佐藤康光、森内俊之、丸山忠久、郷田真隆といった、「羽生世代」とも称される一群の英才が、名人位を争う。将来を期待された早熟の少年たちが、将来の名人を目指して、奨励会に集う。その中から、渡辺明や佐藤天彦、そして藤井聡太のような、天才が現れる。将棋界のサイクルは、変わらずに続いていく。

永作の退会から、三十年近い歳月が流れた。永作の存在は、世間からだけではなく、多くの業界関係者からも、忘れられた。

三十年後の現在、改めて、永作に尋ねてみた。名人になれないから辞めたというのは、本当だったのか、と。

「あれは、尾ひれがついてるんでね」

そう永作は苦笑する。

「それだけじゃないんです。他の理由がたくさんあるんです。それを今さら言ってもしょうがない。私の場合は、いろいろありました。連盟に迷惑をかけたわけではありません。プライベートとかでね。あんまり言えないんですけれど…。それで辞めることになりました」

人はそれぞれ、さまざまな事情を抱えて生きていく。その点については、将棋の棋士も変わらない。もちろん、誰にも言えないこともあるだろう。もとより筆者は、そこに立ち入るつもりはない。

「名人になれないというのも、もちろんありました。でもそれは、何で辞めるか、という理由の一部です」

永作は、そう繰り返していた。

名人には、なれなかったかもしれない。失礼を承知でいえば、おそらくはなれなかっただろう。しかしそれでも、今でも棋士を続けていたら…。そんな未練は、ないのか。

「いや、まあ、なんつうのかねえ…。まあ、若気の至りってわけじゃないけど、まあ、振り返っても…。将棋やってる頃は楽しかったですよ。自分の人生としても。やっぱり、普通の仕事と違うんでね。いろんな方とも出会いましたし。一般社会からくらべると、華やかな感じだったしね。今はもっと華やかでしょうけれど、当時からやっぱり、将棋のプロは、周りから見れば特殊な仕事だから、一目置かれるところがあってね」

しかしなぜ、棋士の身分を捨てる「退会」なのか。棋士の資格はそのままに、「引退」という選択肢は、なかったのか。そう尋ねると、永作はきっぱりと言った。

「引退っていうのは、全然考えなかったですね。引退するぐらいだったら、そのままやってるもんね。意味ないじゃないですか、引退なんて。私は将棋指しには珍しく、頭わるいタイプですから。考えるんじゃなくて、思い立ったら行動しちゃうタイプなんですよ。だからその時に、他のことをやりたくなっちゃってね。そっちの方が頭にいっぱいになっちゃったから。だから、もったいないとか、後先あんまり考えなかったよね」

永作は、棋士になりたいという思いで高校を辞め、東京に出て、自分の夢に全てを賭けた。そして再び、違う夢を求めて、棋士を辞めた。そういう意味では、永作の生き方は、一貫しているのかもしれない。

永作の師匠の加藤恵三八段は、永作がプロになった後、1982年に亡くなっている。

「一番迷惑をかけちゃったのは、私の師匠ですね。加藤先生にはお世話になったんですけれど…。棋士になった弟子が、私しかいなかった。加藤先生の系譜がなくなっちゃうことを、その時はあまり気にしなかったからね。そういうのを考えたら、確かに引退とかいう、選択肢はあったかもしれない」

周囲からは当然、引き止められもした。

「当時名人だった中原先生とか、何人かの棋士の先輩からは、『辞めるのはちょっと、考えた方がいいんじゃないか』とはアドバイスしてもらったことがあります。ただ、自分で決めちゃったことだから。若い時は特に、猪突猛進型でね。誰の意見も聞く耳を持たなかった。まだ若かった。やっぱりね」

筆者は当時の記事で、印象に残っていることがある。それは、将棋連盟を退会していく永作が、将来は成功して財を成した後、スポンサーとして、棋戦を主催したいと言っていたことだ。

「そうそう、それが夢でね。その時は起業して、やっぱり成功しようと思ってたから。当時、将棋連盟も、大変な時があったわけですよ。ですから、将来、そういう面で、少しでもお役に立てれば、と思った。お世話になった世界だから。『少年よ、大志を抱け』じゃないけれど、若いから…。実際はできませんでしたけれど、そういう大志を抱いたわけですよ」

将棋界を離れて、それなりにご苦労があったと思いますが…。そう尋ねると、間髪を容れずに、永作は言った。

「ありますよ。棋士とは全然違いますよ」

そして、すぐに続けて、こう言った。

「でもね、いま、楽しいですよ」

故郷で将棋指導「藤井四段を目ざせ」 還暦後、子供たちと新たな夢を追う


(松本博文撮影)

還暦を過ぎて、永作は新たな生きがいを見つけた。それは、子供に将棋を教えることである。

「駒の動かし方わかんない子に教えるのも楽しいし、プロを目指している子に教えるのも楽しい。それはもちろん、強い子に教える方が楽といえば、楽ですよ。でも、初心者の皆さんだって、一生懸命やってくれるんでね。今のところ来てくださってるお子さんたちは、素直だし、よくやってくれてます」

将棋教室で教わっている子供たちは初々しい。一方で、先生の方もまた、子供に教える立場としては、新米である。

教室の最後に、永作は3人の女の子を相手に、並行して3局同時に指導対局をおこなう、3面指しをした。手合は玉と歩以外の駒(飛角金金銀銀桂桂香香)を落とす、十枚落ちである。

十枚落ちで指導対局(松本博文撮影)

駒を落とした上手(うわて)の方は、ほとんど指しようがない。下手(したて)はおおよそ正しく指せば、飛角をすぐに成れる。その成った駒で、たくさんの歩を取れる。うまく指して、うまく負かしてほしい、と上手は思っている。

見ていると、ある女の子が、ただで取られてしまうところに、角を進めてしまった。新米の永作先生は、それを見て困っている。「待った」をさせて、戻すという教育方針もあるだろう。先生は、少し考えて、女の子の角を取った。将棋は「待った」ができない。それが基本だ。

やがて女の子の側は、飛車も行き場所がなくなってしまった。

「しょうがないなあ。いただきマンモス」

先生は、笑いもせずに、ぽつりとそうつぶやいた。三十年前ですよね、そのフレーズは…。もっとも将棋界にあっては、豊川孝弘七段が今でもよく使うことから、ポピュラーな言葉ではある。しかし女の子たちには、当然そんなことはわからない。やっぱり、誰も笑わなかった。カメラを構え、写真を撮っている筆者だけが、それを聞いて、おかしくて笑った。そして不意に、泣きたくなった。

「今度、神栖(近隣の市)でも8月から教室を始めるんです。そこは、まだ奨励会を目指すようなレベルではないけれど、強い子が4、5人いてね。そんな、いろんなレベルの子を教えるのは、楽しいです。子供とか、人と触れ合うのが、おれはどっちかっていうと、好きだからね」

子供に指導する永作氏

鹿島(近隣の市)には、奨励会を目指している小学生の男の子もいる。そこで永作は個人指導を頼まれたので、引き受けた。

「有望だし、目もキラキラしてるしね。どれぐらい強くなるかわからないけれど、本人にやる気があるんでね。このあたりでは、私以後、プロも出てないしね。奨励会(入会者)も、来年あたりは出てもらいたいな、と思ってます」

子供教室のちらしには、大きく「目指せ藤井四段」と書いてあった。それはそのまま、永作先生の夢でもあるのだろう。

永作は将棋界を離れている約三十年の間、将棋界で起こった出来事に関しては、ほとんど知らないに等しかった。

「羽生さんが七冠になったというのは当然知ってましたけど…。私は全然違うことをやってましたから。将棋には携わってなかったです。私の同期あたりはみんな引退してるのかな。小野君はどうなんですか?」

永作と奨励会同期の小野修一八段は、2008年、49歳の若さで亡くなっていた。それを伝えると、永作は一瞬、絶句した。

「えっ、そうなの…」

三十年という歳月は、やはり短いものではなかった。

藤井聡太四段についても、改めて尋ねてみた。

「それはすごいと思いますよ。人間性が落ち着いてますよね。将棋も強いんだけれど、浮かれるところがないのが、彼の素晴らしさだと思います。がんばってほしいですね」

「また来てください」

別れ際、永作に、そう言われた。もちろん、そのつもりです。筆者はそう言って、頭を下げた。

将棋教室の会場「コテラス」

将棋教室の会場であるコテラスの隣りには、「あそう温泉白帆の湯」という施設が併設されている。

霞ヶ浦では、大きな白い帆を広げ、湖上の風をいっぱいに受けて進む、帆引船が見られると聞いた。夏の真昼どき、広い湯船で天然の温泉に浸かりながら、目の前に広がる霞ヶ浦の風景を、しばらく眺めていた。白帆を揚げた船の姿は、ついに見られなかった。まだその時期ではなかったのかもしれない。俳人の種田山頭火は放浪の果て、温泉の沸く地に居を構え、終(つい)の棲家(すみか)としようとした。山頭火が、そこで詠んだ句を思い出した。

花いばら、ここの土とならうよ

いまは故郷に戻って、地元の子供たちのために将棋教室をはじめ、やさしく笑っていた、永作の顔を思った。

帰り道は、雨が降っていた。東京行きのバスの停留所までは、傘を差し、ゆっくり歩いて、四十分ほどかかった。この茨城県の小さな町から、この小さなバス停から、希望と不安を胸に抱き、次代の藤井聡太を目指して、東京に向かう子供が、そのうち現れるのだろうか、と思った。

松本博文撮影

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■筆者プロフィール

mtmt
フリーライター、将棋中継記者。1973年、山口県生まれ。93年、東京大学に入学。東大将棋部に所属し、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、「名人戦棋譜速報」の立ち上げに尽力し、「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。コンピュータ将棋の進化を描いたデビュー作『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)が話題となり、第27回将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞。近著に『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)『東大駒場寮物語』(KADOKAWA)、『藤井聡太四段 14歳プロは羽生を超えるか』(文春e-Books)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)。