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【終戦の日】「日本が失敗するパターン」とは 歴史家・磯田道史さんと近現代史をひも解く

2017年08月14日 21時36分 JST | 更新 2017年08月18日 23時54分 JST
朝日新聞社

太平洋戦争の終結から8月15日で72年を迎えた。

しかしながら、私たち日本人はいまだに、あの戦争と向き合うことに苦労している。

戦前、日本は太平洋戦争に至るまでの間に多くの過ちを犯した。そして、破滅の道を回避する選択肢をみすみす逃し、多くの尊い命が犠牲となった。同じ失敗を繰り返さないために、私たちは何を「反省」すべきなのか。

一方で、近代史に目をやれば、日本は幕末〜明治期に列強諸国の圧力がある中で、国家の独立を維持しつつ、開化期を迎えることができた。この時代の「成功」を知ることは、グローバル化が進んだ今の時代、日本の強みを知る上で役に立つかも知れない。

「反省」と「成功」。どちらから学ぶにしても、「左だ」「右だ」とレッテルを張るのを避け、「歴史に対して真摯に向き合わないといけない」と、歴史学者の磯田道史さん(国際日本文化研究センター准教授)は語る。

私たちはこれからあの戦争とどう向き合い、どうやって前に進めば良いのだろうか。そのための「歴史を学ぶ作法」を磯田さんに聞いた。

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磯田道史さん

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「日本を良くしよう」と考えるなら、バランスのとれた歴史的な検証が必要


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朝日新聞(東京本社版)1945年8月15日付朝刊

——戦後の体制が変わりつつある中で、これまでの歴史をどう振り返ればいいのでしょうか。

今年、2017年の8月15日で戦争から72年が経ちます。1945年ですから72年が経つわけですよね。

終戦時に8歳だった人が、もう80歳になるということです。終戦時に徴兵検査を受けていた人は92歳になる。もう一線は退いていますよね。成人した人であの戦争を体験した人は日本から少しずつ少なくなっている状況です。

戦後の世界は米ソという2つの争い、冷戦構造があった。戦後、昭和の日本はアメリカの傘の下に入りました。

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GHQのマッカーサー元帥(左)と昭和天皇(1945年)

冷戦下では、もちろんソビエトや中国の核に日本は脅威を感じていましたね。冷戦が終わり、しばらく、日本から核脅威が遠のいていたが、平成も四半世紀が経った2017年になって、今度は北朝鮮のミサイルの問題が深刻化してきた。アメリカと北朝鮮が衝突した場合、北が発射してくるかもしれないミサイルを、日本が必ず迎撃できるかということに、ここ数年で、疑問符がついてきた。

——非常に不安定な世界情勢の中、日本は今後の将来像を描かないといけないですね。

そうです。アメリカの傘の下にあった日本の防衛にも穴があいてきた。アメリカは北朝鮮を「実際に核を発射する可能性がある」という風に見ています。それなのに、それを確実に撃ち落とせるかわからない。

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ミサイルを視察する北朝鮮の最高指導者・金正恩氏

さらに、アメリカのトランプ大統領は、世界のお世話をするよりは「アメリカが第一だ」ということを掲げて当選した。世界の警察官の座から降りているわけです。

作家で元東京都知事の猪瀬直樹さんが面白いことを言っていました。「戦後の日本というのはディズニーランドに近い」と。

これまでの日本は、ある種フィクションの「夢の国」の中で非常に楽しく暮らしてきたわけです。周囲はアメリカに守ってもらってね。でも、日本の防衛に穴が空き、アメリカも自分たちの国のことだけを考えるようになった。2017年、日本は歴史から学びつつ、これからどう世界で生きていかないといけないかと、自分で考えなくてはならない時代に入りました。

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「2017年、日本は自分で考えなくてはならない時代に入った」

——まずは歴史から学ぶことが大事なのでしょうか。

そうですね。「これからの日本を良くしよう」と考えると、日本という国の歴史的な検証が必要です。ただ、検証すると、日本はいつも成功してきたわけではないので、失敗した事例も検証せざるを得ない。

私は日本の良い面もたくさん知っています。ただ、うまくいかなかったこともきちんと言います。しかしながら、失敗の検証をすると「自虐史観」「反日」と言う人もいなくはない。一方、日本をほめると、「右翼」「歴史修正主義」という人もいなくはない。

日本は島国なので、自国に耳障りのいいことだけで話を進めてしまう部分がありますね。それで「ドツボ」にハマり、本当に失敗しちゃう例というのは過去によくありました。必要以上に日本を悪くいう必要はない。けれど、日本が明らかに後世から見て失敗したことは、きちんと検証して、次はしないようにするということが肝心です。

一方で、日本が非常に上手くいった事例をもう1回見て、どうして上手くいったのかも将来の参考にする。島国なので、他国にはない良いものが、育ち、維持されてきた面もある。自国の良い点をふつうに評価することができないようでもいけない。

この両方をバランス良くやるということが非常に重要だと思います。

「明治十四年の政変」「統帥権」… 病魔の元は、明治時代に植え付けられていた


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「日比谷焼打事件」決起集会(1905年9月)

——作家の司馬遼太郎さんは、「日比谷焼打事件」を、「魔の季節への出発点」と捉えています。日露戦争はポーツマス条約(1905年)で講和が成立しますが、ロシアから賠償金が取れなかったことを不服に思った大衆が暴動を起こした事件です。

大体の場合、日本が失敗するパターンというのは、感情的にみんなで同調して盛り上がる時です。みんなが「感情の渦」に乗っかってしまう。

日比谷焼打事件を冷静に振り返れば、日露戦争はもうギリギリの戦いだったため、たとえ日本が「勝った」にせよ、客観的に見て、ロシアからお金をとれるような状況になかった。

だけど、国民はわからないわけですね。当時の新聞も「講和条約を破棄せよ」「戦争を継続せよ」と煽り、ロシアに勝ったのだから、日本が賠償金もらうべきだと主張しました。日本は島国なので、しばしば対外的に勢いの強い論調が大衆の感情論になって、責任ある外交を脅かす場合があります。

——磯田さんは日比谷焼打事件の前、「明治十四年の政変」こそ、病魔の元となる菌が植え付けられた、と指摘されました。自由民権運動の流れの中、イギリス型の議院内閣制を重んじる憲法制定を急いだ大隈重信らを、伊藤博文らが追放した事件です。

「明治十四年の政変」などに見られたのは、「部分利益」「部分最適」を追求したことでした。これは怖い。明治維新も、最初はもうちょっと理想があったはずなのに、やっているうちに薩摩・長州の人たちが既得権益となり、自分たちの部分利益を達成しようとし始めます。藩閥政府を固めて、自分たちが華族になった。

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伊藤博文(左)と大隈重信

明治維新の中心人物、革命のオーナー的な人たちが生きていて、軍の「統帥権」をちゃんと治めているうちは大丈夫でした。だけど、次の世代になっていくと、自由民権運動などの「下からの突き上げ」に対して、時の政府は自分たちで国家の方向性をもっていこうとした。

そこでドイツ・プロイセンに国の仕組みを学んだ。学びすぎたと言っていい。強めに作った「統帥権」の仕組みの弊害が、あとで後遺症として出てくるわけです。

陸軍を抑えるだけの人的な支配がある分には大丈夫だった。明治維新の中心人物たちは、外交と軍事の両方をバランスよくこなした。ところが、最後の元老である西園寺公望が死ぬ段になってくると…無理筋のいくさ=日米開戦です。

明治天皇が生きている時だったら人治でビシっと抑えられたでしょう。けれど、昭和天皇は、人治より法治の立憲君主を目指していましたから、下から法と手続きに基づいて言ってきたことは基本的には追認する法治主義の天皇陛下だったわけです。

法治の官僚主義になると、セクショナリズムの弊害が出ます。陸軍は陸軍のことだけ。海軍は海軍のことだけ、外交は外交のことだけを担う…となってくるわけです。全体をゼネラリストとして統括する人がいなかった。そうなると、国家全体を考えるより個別の省や軍の利益を求めるほうに向かいやすい。

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左から明治天皇、西園寺公望、昭和天皇

——専門エリアを熟知した「スペシャリスト」がいるということは良いことのようにも見えますが。

ええ。素晴らしいスペシャリストがいるのは日本の強みです。これがうまく統御されている時はいい。日本の勝ちパターンです。ところが、スペシャリストを統御する良きゼネラリストを欠くと、日本は負けパターンに入ります。

明治時代は、専門だけのことをやっていられる状況ではありませんでした(笑)。私は『武士の家計簿』で加賀藩の下級藩士で御算用者(会計係)を務めた猪山成之について書きました。彼は戊辰戦争の中、壊れた軍艦の修理を、応急ドックを作ってこなした。

ソロバン侍が、なぜ応急で軍艦のドックを作って軍艦の修理をやらざるを得なかったのかというと、まだ初期の荒削りな国家の場合はスペシャリストの職員も含め、みんながゼネラリストにならざるを得ないわけです。しかし、ある程度国家の平和が続いて、整ってくると、制度ができあがっているので、自分の所属する小さな部署や組織のことを考えるようになる。

この点では、われわれも平和な時代が72年間続く一方で、経済成長率が落ちて、イノベーションが起きにくく、社会全体に停滞感があることと似ているかもしれません。なかなか「時代を突き破る」ようなことができないでしょう。

「自学自習」に熱意を持ったとき、日本人は発展してきた


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「第1回内国勧業博覧会」開会式の様子を描いた錦絵(1877[明治10]年)

——明治は「ベンチャー企業型」、今の日本は「大企業型」なのでしょうか。

まさにベンチャー企業と大企業なんです。大きくなって老朽化してくると、その企業の中で、できあがったルールの中で大人しく暮らす人が出世しやすくなるわけです。霞が関だって、終戦直後は廊下で七輪つかってサンマを焼いてました。でも、そういう荒削りな時代は元気がいいんです。みんながいろんな発想をする。

今は大企業型になっていますが、それでもなお、私は日本人が好きです。日本人が発展するときに見られる特徴は、みんなが真面目で、自分で自分を教育すること。自学自習に対して熱意を持った瞬間ですね。とくに江戸の幕末から明治への勢いっていうのは大したものです。知識を外に広く求める時もそうですね。

外国の知識や、一見すると自分の専門でないようなことに対し、興味を持って勉強し始めるという動きは、幕末から明治の日本人はすごかった。

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『渾発用法』(西洋のコンパスによる図形作図、西洋の遠近法によるスケッチ、測量法などが記されている。18世紀後半〜19世紀の写本と想定)

それと日本人は、自分勝手なことはあまり好きではない人ですね。日本というのは、本気で公益を考え始めた時、これは立派なものです。日本人は部署の利益は考えるんですけど、最終的にはあまり金銭を目的にしない傾向が世界的にあると思うんです。お金目的でやったとは思えない歴史的発展がいっぱいあるでしょう。

実業家の渋沢栄一をはじめ、明治期に多くの産業を作った人たちというのは日本社会なり国家なり、公益を考えていました。いまの東芝のもとをつくった「からくり儀右衛門(田中久重)」にしたって、自分の利益のことだけを考えていたとは到底思えません。

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渋沢栄一(左)と田中久重

日露戦争の日本海海戦バルチック艦隊を破った参謀・秋山真之だって、あれだけ頭がいいなら商人になったら大金持ちになったと思います。だけど、そうはしないわけです。夏目漱石にしても、朝早く熊本五高に行って、正規の授業の前に勉強したい学生たちを集めて勉強を教えるわけです。あの時代は「先生」といわれる人たちが立派でした。日本に、本当に公のことを考えられるエリート集団がいたということが、日本が発展した時期の1つの特徴だと思います。

また、日本というのは、エリートの凄さよりも一般の人のレベルが高かったということが底力の背景にあると思います。こうした強みに気づけば、もう一度「ベンチャー型」に戻れるはずです。

——市井の人々が立派だったということですね。

江戸時代の末期、ロシアからやってきて、松前藩に一時捕まっていたロシア人がいた。牢番の足軽がお茶碗をひっくり返して「あなたはここから来て、今このへんにいる」と、サンクトペテルブルクと松前の位置を指差した。

社会的地位が高くない人でも、世界地図が頭の中に入っていることに、ロシア人は驚くわけですよ。「将来この国の民は、ひょっとしてロシア海軍をやっつけちゃうんじゃないか」と。事実そうなったわけです。

一般人の日本人の知識欲や好奇心の強さ、これは世界に冠たるレベルだと思います。礼儀正しいし、知識欲もあるし、努力家です。周りが見ていようが見ていまいが、よくルールを守ります。リーダーはこういったものを、国民の生活が良くなるふうにしっかりと向けられるように誘導していかないといけないですね。

だけど真面目なので、ある制度ができてしまうと、その中でだけ真面目にやるようになって、新しい発展の方向へ向かわなくなる場合がある。江戸時代の終わり頃もそうでした。なんとか制度のしがらみの紐を解いてあげて、日本人が本来持っている一般の人の民度の強さとか、好奇心の高さ、学習意欲の強さ、勤勉さというようなものを上手く活かしていけるようにしたほうがいいだろうと思います。

江戸時代から持ち越してきた「しがらみ」が残っている


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東京・浅草の仲見世を行き交う人々(1911年)

——市井の人々の良さをどう伸ばせばいいのでしょうか。

端的にいうと、日本人というのは、持ち場を与えられて、その範囲で努力することは非常に得意な人たちです。

例えば、僕がスーパーで働いているとして、「もっと頑張れ」って言われたらスーパーの床掃除を2倍するとかは平気でやります。あるいは「品物のチェックを2倍やれ」って言われたらすぐやる。しかしその努力が、お客さんが入ってくる数に還元されないと利益には繋がらないですよね。よく働くけれど、それが収益や結果に繋がる方向へ向けられていないと、労働生産性は低くなる。

そこで「なぜ労働生産性が低くなるのか」を、しっかり考えないといけない。そうじゃないと、日本の発展はないように思うんです。江戸時代から、日本人は一つの組織に対してひたすら忠誠を尽くすということが美徳とされて数百年来ている。

このネットの社会に、兼業や副業をしたり、自ら起業したりして、GDPを膨らませるというようなことはあまり得意ではないわけです。

例えば、銀行員が何かすごい才能を他に持っていて、ネットのお店で2500万の収入を上げていることが職場にバレたら、まず銀行の中での立場はまずくなるでしょう。副業で儲けることは日本のGDPを膨らませる貢献をしている。けれど、そういう人を良いとする考えがまだまだ少ない。

江戸時代から持ち越してきた成長を妨げている発想がまだあるのでしょうね。日本人は本来もっと幸せになれるのに、これまで日本を良くするために働いてきた仕組みの中で、足を引っ張ったり、しがらみになったりしているものを早く見つけることが必要じゃないでしょうか。

これは経営者だとか、先生だとか、リーダーとされる人が早く処方箋を書いて、しがらみを解いてあげる。それが過去の歴史が示すところです。

日本人の市井の人の民度は高いですが、自分たちがとらわれているしがらみを指摘し、引っ張っていくのは、やっぱり少数のエリートやリーダーです。明治維新の時もそうでした。「これからは火縄銃の時代じゃないよ」「西洋列強という国々はこういうことを考えている」と気付いて、しっかりと国の方向を持っていったのは、少数のエリートたちでした。

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左から木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通。「維新の三傑」と呼ばれる

——とはいえ、人口が減り続け、経済も大きく成長できるという期待は少ない。社会全体で自信を失っている面もあります。

いきなり全部は変えられないので、小さな成功事例を作ることが第一歩です。例えば、新しい新規事業なんかをやる場合、本社そのものが大改革をして変わる場合っていうのは少ない。むしろ子会社みたいなものを横に1個作ってみて、そこでこれまでやったことがないような新しい試みをやって、そこが大成功すると真似するんですよ。

江戸幕府もそうでした。幕末に武士組織が火縄銃の軍隊から海軍を作り、西洋式の歩兵も作った。その場合、依然として火縄銃隊も槍隊も弓隊もあったけど、その「母屋」の横に「はなれ」のように、徴集した農民で西洋型の最新式歩兵を作ってみるわけですよ。そして、母屋(旧制度)より新しく作った、はなれ(新制度)のほうがいいって実証されたら、みんな移ってくる。このパターンなんですね。日本の成功事例でみられるのは。

従来のスタイルの横に最新型の革新的な成功事例を作って、それを見せつけると、やっぱり日本人は賢いので移ってくるんですよね。効率は悪いんですけれど、そういう方法を取らざるを得ないんじゃないかな。そういうことをどんどん言って差し上げるというのが必要なのかなと思いますね。

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長州奇兵隊所属の兵とされる写真

例えば、労働生産性を上げるといって、大和ハウス工業みたいに勤務時間外にパソコンが落ちるようにできる会社はすごい。こういうのは成長率も早い。

でも、全ての会社で全社的にこういうことはできないでしょう。それなら、まずは小さな支社とかで実験すると良い。パソコンの電源がいきなり定時になったら落ちるような部署をつくって、まずやってみる。実験して、そうした方が実は利益が上がることを見せつけるわけですよ。

もしうまくいって、利益が上がるようになったら、それを拡大していく。そういう部分的な実験をしてみて、全面的に拡大する。こういう改革方法が、日本は非常に向いているような気がします。

日本人は、真似をすることがとても得意です。上手くいった例が見つかって、一度そっちに流れ始めると、みんな乗り遅れないようにする。

それと、日本をもっと良くするには、まだ起きていないことに対して察知する能力である「レーダー機能」を強くしないといけない。考えたくないことを考えることです。日本はこれが弱い。

日本人に必要なのは「深く考えること」


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ノモンハン事件(ハルハ河東岸の前線へ向かう日本軍戦車)

——司馬遼太郎も「ノモンハン事件」(1939年)などを例に、当時の日本陸軍にあったような「深く考えない」という日本的な習慣を分析していました。

日本人は、作られた型を自分のものにするということは非常に得意です。でも、生真面目な人たちなので、新しい型そのものを作るのは難しい。これはコインの表裏なんですよ。良い面と悪い面がある。真面目なので、危険なことに手を出すということへの躊躇が強いですよね。だけど、みんながやり始めたらあっという間にできる。良い面と悪い面、両方あります。

——深く考えるために、今の日本人が必要なことは。どうすれば「考えられる」ようになるでしょうか。

1つは、空間を飛び越えて同種の事例がないかどうか、参考になる事例がないかを見渡すことでしょう。「よそにもっといいものがないか」と考える空間跳躍力です。これは語学力や広い国際知識がないと無理ですよね。自分がやろうとしている事例で、過去一番良いものは何かを世界中から探す能力です。これを吉田松陰は「飛耳長目」と言った。『管子』が出典です。耳を飛ばす、長い目をもつ。

次に、因果関係を知ること。これは「歴史」ですね。「あれをやったら、こうなる」という過去の事例です。「昔にもっといいやり方がなかったかな」と、時間軸を飛び越す能力です。ものすごく遠くまで過去、歴史を見通す目のことです。「飛耳長目」が肝腎です。

そして3つめが、時間・空間ともに起きてもいない可能性を想像する力、反実仮想力です。「もしAならば、Bという結果を導くにはどうするか」と考えること。

これが一番重要かもしれない。この反実仮想を常にやっていたのが薩摩藩でした。薩摩は「郷中教育(ごじゅうきょういく)」における「詮議」で、こういうことを学んでいた。

(例:「殿様と一緒に乗っていた船が難破した。向こうから一艘の助け船が来たが、乗っているのは自分の親の仇だった。どうするか」「道で侮辱されたら、どうするか」など)

だから、薩摩は戦争に強かった。僕がもしも会社を経営するとしたら「もしもこうなったら…」を考える部署を作りますね。「将来こういう技術開発が起きたり、環境の変化が起きて、うちの会社ではこれが通用しなくなる可能性がある」ということを、ひたすら毎日それだけ考えさせる部署とか。

経営に携わるような係長や課長以上には全員宿題として、例えば「お金の制約があまりないとして、新規事業を展開するとしたら、どこにお金を投資したらいいか」とか考えてもらうのも良いでしょう。

夢物語でも笑い話でもいいんです。取締役会なり課長会議なりで、みんなで発表しあう。急に何か事業に参入するということでも良いんです。いきなり「どじょうの養殖をしてはどうか」とか、笑い話のようなものでもいいわけですよ。常に提案することが大切です。

あの戦争の背景にあった「資源コンプレックス」と「ドイツの幻惑」


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真珠湾攻撃(1941年12月)

——磯田先生は歴史家の目で見て、太平洋戦争に至った理由をどう考えますか。

太平洋戦争は分解すると、英・米に対する戦争と、その前の日中戦争もありますよね。そして最後に参戦してきたソ連との戦争。3つの戦争の複合体であるわけです。

満州事変以後の15年間が本格的な連続戦争ですけれど、日中戦争も含めて考えるとするならば、「アジア・太平洋戦争」という言い方をする学者さんもいらっしゃいます。

戦争に至った理由の一つとして、資源コンプレックスというのがありますよね。

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1941年、サイゴン市内の日本軍

——日本は「持たざる国」だった、と。

日本は、実は自由貿易体制で友好的な時の方が、過去の歴史を見ると常に発展している。にも関わらず、島国なものだから、「資源を確保するところを、軍事を使ってでも持たないと国の発展はない」と過剰に思い込んでしまった。これが危険だった。

日本は海洋国家ですので「国際協調と貿易体制というものが日本の発展の根幹である」ということを見誤ってしまった。基本的な国作りの方針としては、やはりそこに問題があったと思います。

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徳川家康の朱印状

それと、日本は常に世界でナンバーワンの国と組みたがる傾向があります。日英同盟(1902年)なんか、特にそうですよね。もっと言えば、遣隋使あたりからそうですよね。隋・唐もそうだし、そのあとも、スペイン、ポルトガルが7つの海へ出た時には、そこと付き合った。それがオランダになり、明治維新のときは英国になった。やがてナチス・ドイツがヨーロッパを席巻した時には、それに乗ってしまった。そういう外交方針をとるんですよね。その時に、しばしば飛びつく国を間違えることがある。

維新後に越後や東北から出てきた新しい陸軍の官僚の人たちは、日英同盟を結んだ旧薩長側の人たちに対抗した。彼らは真新しく世界を制覇するとみたドイツに幻惑されたという点もあると思います。

世界史には、基本潮流というのがいつもあります。「世界はどのような方向に流れているか」という潮流。これを見誤って軍事や外交をやってはいけない。これは中曽根康弘さんにインタビューをしていて教わりました。僕らが好む好まざるに関わらず、世界史がそっちのほうにどうも流れていくだろうということは、絶対に踏み外しちゃいけません。

21世紀、中国やインドは大国化しますよね。人口が大きくなると同時に、経済規模も大きくなっていく。アメリカ・ロシアも依然として大国で、これとの関係はもちろん重要ですが、今後は、好むと好まざるとにかかわらず、唐(中国)・天竺(インド)が大きくなるということを前提に外交を行わないといけない。

——明治維新後、日本はドイツ(プロイセン)に学ぼうとしました。普仏(プロイセン=フランス)戦争(1870年〜71年)後、プロイセンはドイツ帝国を成立させました。君主権が強いドイツの憲法は、当時の日本の指導者たちには日本に適していると考えた。

そこまでは、陸軍大国としては誤ってなかったと思います。それで植民地化を避けるどころか、ある程度の強国になったわけですから。

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プロイセン憲法を参考に作られた大日本帝国憲法(1889年)。写真は「上諭」1頁目

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(「上諭」2頁目と御名御璽)

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大日本帝国憲法の条文

——その後、日清・日露戦争に勝利し、第一次世界大戦も日英同盟に乗っかって戦勝国となった。

問題はその後でした。ドイツと英・米の経済規模・工業力や海軍力とを比較してみれば、とてもじゃないが、ドイツが勝てるようなもんじゃないわけですよ。GDPの経済規模や科学技術の開発力を考えてみると、ドイツがそう簡単に英・米を凌駕することはないわけです。そこをやっぱり見誤っていたと思いますね。

じゃあどうして見誤ったんだろうと思ったら、それは旧薩長派が居座っている英米派よりはドイツと新しくやった方がいい…という薩長に負けた藩、あるいは薩長に出遅れた地方の出身の軍人や官僚たちの、薩長=英米派への反感からくる立場は、あったと思いますね。これも「部分最適」というのでしょうか。

——司馬遼太郎も「昭和の高級軍人は、あたかもドイツ人になったかのような自己中心で、独楽(コマ)のように論理だけが旋回し、まわりに目を向けることをしなかった」と指摘しています。ドイツへの傾斜は、昭和の頃にも影響を与えていた。

もう1つ重要なのは、将来予測や物量というものを考えずに、精神力というものを重視するというところがあります。勢いのいい議論が感情的に、空気が支配して抑えてしまうということがしばしばあるので。冷静に数字で考えるということがとても大事だというような教訓がありますよね。

そういうところでやっぱり、本来だったら英・米と組んでいる状況は外しちゃいけないのに、独・伊と組むような外交や国内政治の方針をとってしまった。そもそも日中戦争だって上手くいってなかったのに、それを直視しなかった。

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松岡洋右外相(左)とアドルフ・ヒトラー(1941年3月)

「破滅の道」を繰り返さないために、歴史から学べることは


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1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。終戦の9日前のことだった

——日中戦争での政府の無策は、当時の衆院議員だった斎藤隆夫が国会の演説(いわゆる「反軍演説」)で指摘しました。

一体、支那事変(日中戦争)はどうなるのであるか。いつまでこれは続くのであるか。政府は支那事変を処理すると声明しているが如何にこれを処理せんとするのであるか。国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、この議会を通じて聴くことが出来得ると期待しない者は恐らく一人もないであろうと思う。


(中略)ただいたずらに聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し、曰く国際主義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくの如き雲をつかむような文字を列べたてて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありますならば、現在の政治家は死しても、その罪を滅ぼすことはできない。
(1940年2月2日 斎藤隆夫 「支那事変処理に関する質問演説」)


そうですね。あの大国の中国と泥沼になった状態で、人口でいったら一番大きい国ですよ。インドよりも大きいわけです。世界最大の人口大国と泥沼の戦争をしながら、GDPで極めて大きな比重を持っている英・米と同時に開戦するという。そんな政治や外交は正気ではないですよ。

だけど、日本は、そういう失敗をしてしまった。これは理屈ではないんです。後年考えてみても、それはやっぱりどこかおかしいわけですよ。

世界最大規模の人口を持つ国と戦争して、泥沼になって、経済規模や工業力でもって世界最大規模のところと同時に戦争をやった。さらに元気になりつつあるロシア(ソ連)との国境が危うくなっても、まだ続けようとした。履いたら死ぬまで踊り続ける「赤い靴」を履いてしまったに近い。

だから、陸軍と海軍という両足を、斧で切り落とすまで踊り続けました。結局、日本は陸海軍という両足を失った。そして戦後しばらく、軍事についてタブーの国になった。ちゃんと直視しなくなってしまった。

これは日本が発展する時に機能した官僚制にも通じます。急速にキャッチアップをやったり、経済成長を進めたり、一糸乱れず成長をするには非常に素晴らしい力を発揮する。一方で、1回踊りだしたら絶対に止まらない。これが官僚制の恐ろしさです。

官僚制度っていうのは、大きな組織だったら会社の中にもあります。国に限ったことではありません。日本人がやる官僚システムは効率よく動きますが、一回はじめたら、とめられない、そういう危険をもっていることをあらかじめ、自覚しておかなければなりません。僕はこれを「日本人の経路依存性」と呼んでいます。これまできた経路、道筋、これに依存してなかなかそこから脱却できないという性質。これは自覚したほうがいいですよね。

組織を統御する立場の人は、自分の会社で「これまでの行きがかりで変えられず、損をしている部分は何か」をぜひ研究してほしいと思います。取締役なり専用の部署を作って、常に研究して見直す必要がある。「これまでもやってきたから」という理由だけでやっていることは見直したほうが良い。

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東京湾停泊中の米戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書に調印する重光葵外相(1945年9月2日)

——「太平洋戦争」に至ったような破滅の道を繰り返さないために、僕らは歴史からなにを学べばいいのでしょうか。改めて考えを聞かせてください。

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それはやはり、自分たちが持っている制度や自分の思想を絶対視しないことですよね。事実にもとづいて冷静に客観的に判断する。「自分はどういうものにとらわれているのか」を考えることです。

あとは、自分と考えが違うものや、自分が一見腹が立つようなものに対して寛容な気持ちを持つこと。この習慣が極めて重要ですね。その頭の柔らかさ、広い目、こだわらない心。それを養うのが僕は歴史だと思うんです。

曲がりなりにも、こんな島国でありながら長いことGDP世界第2位であり続けた国です。財布を落としても返ってくる国ですから。日本は良い国です。

日本の外の世界を見ると、そうじゃない人たちが増えてきてますよね。日本人は比較的まだ、たしかな民度を持っていると思います。敗戦の時代にはたしかに国が偏った時もありましたが、同じような失敗を繰り返さないようにするには、まだ間に合います。

現在、日本は周辺国に国力で追い越されつつあります。GDPのシェア、一人当たりGDPもそうですし。自然科学論文数も、中国・韓国は急増、かつてアメリカと日本は1位2位でしたが、日本はドイツ以下の4位に転落してしまいました。

しかし、私たちが、歴史と向き合い、原因を分析して改善する習慣をつければ、道は開けると思っています。

磯田道史(いそだみちふみ)1970年、岡山市生まれ。2002年、慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。専攻は日本近世社会経済史・歴史社会学・日本古文書学。現在、国際日本文化研究センター准教授。『武士の家計簿』『殿様の通信簿』『日本人の叡智』『龍馬史』『歴史の愉しみ方』『無私の日本人』『天災から日本史を読みなおす』など著書多数。

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『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』はNHK出版から発売中。

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