「社会の奴隷から抜け出すため、ひとりになる」映画監督・紀里谷和明が語った生き方・創作

中学・高校の「同調圧力が苦痛だった」という記事に、大きな共感の声が寄せられた。紀里谷監督はどうしてきたのか。
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「学校が本当に辛かった。今の世の中はおかしいと思う――」。

ハフポスト日本版が6月からスタートさせた「だからひとりが好き」の企画で掲載した、中学・高校で感じた「同調圧力が苦痛だった」という記事に寄せられた声だ。

こうしたメッセージがたくさん届き、同じ悩みを抱えた人たちがいかに多いかを実感した。

一方、2015年にハリウッドデビューした映画監督の紀里谷和明さんは、15歳で故郷の熊本県から自由を求めて単身、アメリカに渡ったことで知られている。そして今、さらに雑音を避けて「ひとり」になれる環境を求めて見つけた山小屋で暮らしているのだという。

紀里谷さんはどんな生き方をして、どんな風に創作活動に打ち込んでいるのか。その考えを聞いた。

——紀里谷さんは15歳で単身渡米されたということです。紀里谷さんはどうして日本の社会を飛び出すことができたんでしょうか。

僕からすると、逆にどうしてみなさんはそう思わないのか?ってことなんです。

結局、人間というのは、周囲の環境から色々なものを提案されて生きて行く。そのほとんどが同調圧力とか集団的価値観で、本来の野生は失われ、身動きが取れなくなってゆく。

例えば、この部屋が暑くてしょうがないとすれば出ればいいだけの話。しかし、他の人達がいた場合は出られない。相手が偉い人だったら出れない。そういうことの連続です。この社会というのは。

ただ、僕は出ちゃってるだけの話。暑いから出るだけの話です。

——しかし、企画に対して、「社会が苦しい」「読んで生きるのが楽になりました」という感想が思った以上に寄せられています。そうした決断は難しいようです。

こんなことを言ったら問題になるかもしれませんが、多くの人が、奴隷化されている。

生まれた時から、自分で自分の物事を選択しなくていいように社会に教育されていたり、親が自分の持っているコンプレックスを解消するために子どもを使っていたり、そうやって、子どもは洗脳されてしまう。

動物でも、檻の中で生まれて育つと、そのうち鍵がかかってなくても外に出ようとしない。 そういう、心理学みたいな話です。

——紀里谷さんはお父様の教育がすごくユニークであったとか。

別段ユニークだとは思いませんが、何をしても良い、しかし全ては自己責任で。それだけでした。

例えば旅行に行く時に、荷造りとかするじゃないですか。小学校低学年ぐらいの頃、親戚の家で僕が荷造りしようとしていたら、そこの家のお婆ちゃんが手伝おうとした時に「止めてくれ」と言って怒ったこともありました。自分で荷造りさせてくれと。

大人の人たちとの会食の時も、周りは僕のためにお子様ランチをたのもうとする。しかし、そこでも止めてくれと言っていました。とにかく一人前を食べさせる。食えなければ食えなくてもいい。という感じでした。

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——「飼いならされてる」という育ち方ではなかった。

いや、僕がこうなのはなぜ?と原因を求めるのはおかしい。そもそも人間ってそういうものだと思うんです。本来は一人であり、自由であると。

社会の状況が異常であって、何で?と逆に聞きたいぐらいなんです。多くの人達が、何の疑問もなく社会のあらゆる異常な事を受け入れてる。

例えば女性だったら、「スカート履かないといけない」となぜ思うんですか?「何でメイクしないといけないの?」「何で男の子はブルーで女の子はピンクなの?」ほとんどの人たちが、それを考えもせず受け入れてしまっている。

女性差別の問題として持ち上がれば、それは皆理解するんだけれど。じゃあ、前提の部分で、なぜ親は、息子には青、娘にはピンクのおもちゃを買って行くの?

女性だったらノーメイクで職場に出勤してきたら怒られるっていう話を聞いたことがあります。「メイクはエチケット」とか言って。でも、とあるパラリンピックの女性選手に聞いたら「メイクが濃すぎる、だから記録が伸びないと怒られた」という話。

——それは、この世の中の嫌な事が詰まってるようなエピソードですね。

凄く能力がある選手ですよ。でも、その競技の連盟の人達が言うんですって。それが集団意識の恐ろしいところです。

例えば北朝鮮なんか、金正恩が最高指導者であることに全く違和感がない人たちがいっぱいいるわけじゃないですか。「子どもの頃からそうだもん」で終わっちゃうでしょ。

まあ、疑問を感じた人は処刑されちゃうのでしょうが、この国でも程度の違いはあるにせよ基本構造は一緒で、多くの人達がそれを疑問すら持たずに受け入れている。受け入れざるを得ない。アメリカでも同じようなことが起こっている。

僕も子どもの頃から「何で制服とか着ないといけないの?」「なぜ髪の毛を短くしないといけないの?」「なんでこんな奴らの言うこと聞かないといけないの?」というのが物凄くあった。

しかしそれに対して社会という集合体、例えば教育委員会や、国や、集合意識的な価値観が抑圧してくる訳です。そんな状況なら、出た方が良いですよね。抑圧される状況なんて出ればいいじゃんって、それだけの話。

——先日の韓国大統領選で、失業率の高さや景気低迷で苦しんでいる若者の意見に対して、苦労人で知られる候補者が、「自分たちが国を繁栄させて、その上にお前たちはいるだけなのになんで不満を言ってるんだ、そんな権利はない。昔はもっと大変だった」と言ったという出来事がありました。確かに、人間は集合体によって恩恵を受けている面もあります。

それはその人の言ってる事も、もっともだと思います。

人間の、進歩という言葉はあまり好きでは無いんだけど、人間の営みとして色んな段階を経てくるわけじゃないですか。

集合体というものが機能して、国家などの名前をつけて、それによって人間がクリアしてきた課題はたくさんあるだろうし。人間の進歩・営みを考えたらしょうがないんだと思います。論理的には。

集合的意識でやってきた人たちの価値観を否定すれば、怒る人たちがいるというのもよくわかる。

しかし、それでも集合的意識に人間が従うのは、僕はくだらないなと思います。

例えば、つまらない飲み会とかも、多くの人が薄々どうでもいいと理解しながら、それに付き合うわけじゃないですか。みんな分かっているんです。しかし、そのどうでもいいことに皆が付き合うから永遠に終わらない。

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報道だってそうです。テレビも新聞もネットニュースでも良いんですけど、そこに重要なものなんて99%無い。ほとんどは無駄な物です。 なんとか学園も、誰かの不倫も。他に重要な、報道するべき問題がたくさんあるというのに。でも、くだらないニュースの方に食いつく人間が多い。するとそれらの話が集合体として重要だと思われ始める。そして報道が拡大される。

そこには経済的理由もあって、報道機関は株式会社なので、株主という集合体の利益を損なわないためには収益が必要、つまりスポンサーが必要。スポンサーは視聴率が重要。であれば何でもいいから視聴率さえ上がればいいんだという理屈になっていく。

本質や真実が多少ないがしろにされようが、人が見てくれればいい。だったらアダルトビデオを流すのが一番いいんだろうけど、そういうわけにもいかないから、よって報道がいわゆるニュースポルノになっていく。そういうことじゃないですかね? ま、僕なんかが言わなくてもみなさんお分かりのことなんでしょうけど。でも、みんなわかっているのに変わらない。

何故かというと、それを見ている大衆というものが本質を理解しようとしない、真実を求める時間もない。スキャンダル週刊誌が売れて、ワイドショーが見られるのは、人がリンチされるのを見たい奴らがそれだけいるからです。

そんな高尚な物じゃないんです、人間なんて。

——映画監督という仕事も、ある意味、そうした大衆に見てもらう作品を作らなくてはいけない仕事でもあると思います。どういう風に折り合いをつけているのですか。

自分というものから見て、大きく分けて内側と外側があるんです。自分は、曲がりなりにも芸術の領域にいて、それって実は内側に向かう作業なんです。自分の中に向かっていく、それをやっているだけなんです。

簡単に言ってしまうと、それは「何を作りたいの?」っていうだけの話。

映画の世界だけでなく、大きく2つのやり方があって、自分が作りたいものを作る人達と、人が観たいと言っているものを作る人達。

それは何だってそうでしょう。どんな商品だってそうです。人が買ってくれそうな物を作る人もいるし、こういうものを見てみたいっていう物を作っている人達もいる。

どっちが良い悪いではなく、どっちでも良いと思うんです。ただ、どうしても自分がそこで怖いのが、「自分が何を作りたいのか」っていうのが分からなくなっちゃうことです。社会の中にいると。

——紀里谷さんでも「何を作りたいのか見失う怖さがある」というのは、意外です。

例えばモノ作りやってる人は、大体最初に誰かの作品を見ているわけですよ。「すげーな、こんなことやりてーな、かっこいいなー素晴らしいな」と思って仕事を始める。

しかしそれがどんどん、食べるためだとか、次の仕事をもらうためだとか、自分でも気が付かないうちに自分が好きでもないものも作っていたりするわけです 。

僕でさえ、「ここの部分はこうした方が良いんじゃない」とか、「そっちの方が売れますよ」とか言われることがありますよ。それは100%無視する事も無いし、なるべく多くの人に伝わった方が良いに決まってます。

しかし大前提として、「僕は何を作りたかったのか」がないといけない。

そう言うと「自分勝手だ」とか、「あなたがやってるのは大衆芸術なんだから、お客さんのためにやってるんじゃないの」って言われるんだけど。

自分の内側にあるものを、多くの人が見てくれることに越したことはない。願わくば、僕がいいと思うものをみなさんにもいいと思ってもらいたい。でも、 絶対的に僕が何をしたいのかが、先ではないといけないと思うし、それが使命だと思う。そうじゃなきゃこの世界で作り出されるものが全部同じになっちゃうでしょ。

——アウトプットよりも、まずは内に向かう作業というのが映画監督にとって大切だと。

映画監督に限らず、何かが内側にない限り、アウトプットなんか出来ないわけです。空っぽのボトルから水なんか出てこない。

今の時代は、内側にあるものを認めようとしない。個人の中に、ありとあらゆる感情が実はあるわけです。苦しいとか辛いとか嬉しいとか愛しいとか。何でもいいんですよ。でもその感情が渦巻いていることに、多くの人達は目を向けようとしていない。目を向けたら叱られると思っている。

——無いわけじゃなくて見ようとしていない、ということですか。

無いわけないじゃないですか、誰もが色んな物を背負ってます。抱えています。内側に。しかしそれを見ようとしてないように、僕には思える。

それを無視しているし、押し殺しているし、外に出そうものなら、社会的な抑圧がまた始まってしまう。「お前こんな所でなに泣いているの?」みたいな。しかも、親がそれを子供にまで押し付けてしまうわけですよ。

いいじゃない、泣きたければ泣けば、笑いたければ笑えばと僕は思う。だってそっちが本当でしょって思ってしまう。

あなたの肩書きなんかより、あなたの性別なんかより、あなたの国籍なんかより、あなたの年収なんかより、何よりも、あなたが今何を感じているのか?という事の方が。そっちの方が大切でしょ、って思っちゃう。

社会的価値観というのは、極めて曖昧な、流動的な価値観。つい70年前には「鬼畜米英」とか言っていた日本人の子孫に、今、このアメリカの会社がこうやってインタビューをしてくれてるわけでしょ。社会の価値観なんて、そんなにいい加減なものはない。それなのに、そのいい加減なものが優先されてしまっている。

夕日を見て綺麗だなって思う事だったり、犬を見て可愛いなと思った事だったり、女の人を見て愛おしいなと思ったり、それはどこの誰でも変わらないですよ。極めて普遍的な事だと思います。ではなぜそんな大切なことがないがしろにされるのか。

コロコロ変わる訳の分からない社会の基準に振り回されて、多くの人達が聞こえない悲鳴をあげている。その奴隷になっている。

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——社会の奴隷から抜け出すには、どうすればいいでしょう。

僕にとっての答えは、ひとりになるしかない、というものでした。自由になるためには孤独を受け入れなければならない。

孤独というものが、あたかも悪いことのように、ネガティブな否定的な意味合いをもって語られるでしょ。ひとりぼっちってかわいそう、みたいな。それこそがまた集団的価値観による、意味の無いレッテル張りですよね。

孤独というものが僕は素晴らしいと思うし、肯定している。寂しくもないし、そこで初めて自分の内側に入っていける。

都市にいることは、圧倒的な集合体の中にいること。雑音が多すぎます。自分がピアノだとしたら、その調律をするにしても雑音の中だとなかなか難しい。それが出来る人もいるかもしれないけれども。僕にとっては至難の技です。

そもそも、内側の存在があるということすら知らない人達がほとんどです。僕も以前はそうでした。でも、それだと、あなたは何者なの?という答えが出ないんです。

自分自身に対して、そんな質問もしないし、ほとんど語られない、探索されない。しかしそこに真実があって、とても美しいものがある。

外側の事なんてどうでもいいんです。映画監督という肩書きすらどうでもいいし、社会で起きていることもどうでもいい。外側の99%のこと、どうでもいいです。大切なのは内側の話です。

——「こんな事を言ったら笑われるんじゃないか」と思っちゃう。という意識が若者にあると聞きます。

それも含めてです。全てが集合的検閲。

監視しているわけです。自分が自分の事を。集合的意識を信じてしまった人たちがその組織員、構成員になって、自分自身もしくは他人を監視しているわけです。それが残虐行為に発展していく。それは歴史を見れば明らかです。極めてくだらない話です。

内側にあるものが、物凄く重要で美しいものなのに、くだらない事で満たしているわけです。この世界を。子ども達を。あらゆる潜在的な美をくだらないもので満たしていく。

僕から言わせれば狂気です。狂っていると思う。向こうから見たら僕が狂っていると思うかもしれないけれども。

——今、アメリカの郊外のお家に住まわれていると伺いました。

山小屋。

——ひとりになれる場所として、そこを選ばれた?

たまたまそういう所があったから住んでいる。

都市から2時間ぐらい行った山奥です。鹿とか熊が出てきますよ。そこにたまたま家があって、僕がたまたまそこに迷い込んだんです、ある日。

車で色んな所を放浪していた時に、道を間違えて迷い込んで「ここいいじゃん」と思ったからそこに住んでいるんです。

——森の中に迷い込んでお家を見つけた。すごくドラマチックなお話ですね。

無意識って知っています?

人の無意識っていうのは、実はものすごい力を持っていて。勿論、紆余曲折があって100%自分が思ったようにはなっていないかもしれないけど、大体自分が望んだようなことになってる訳です。恐れた未来が現実になるのも同じ理屈だと思います。

それと同じように「ひとりになりたい。ならなければ」と思った時に、そういったものが現れた。

その当時、自分的にちょっと手も足も出なくなってきちゃっていて。そういう時期だから放浪していたわけです。

無理な時は僕にもありますよ。自分の内側にいる子どもみたいなものが悲鳴を上げていた。 若い時はそいつの存在にすら気づいていなかった。しかし徐々にそれに気づき始め、ちゃんと話を聞いてあげようと思うようになった。

そしたら、そういう家が現れた。

だから内側が重要だというのはそこにあって、何か美しいものを作りたいと思ったからそういう職業に巡り会えるし、もしかしたらお花屋さんだったかもしれませんよ。映画じゃなくて。でも美しいものには変わりない訳です。

多くの人達が内側に耳を傾けないので、「私はどうしたらいいのかわからない」という。特に若者からよくそんなことを聞きます。

でも「内側が君に語りかけているのに君は耳を塞いでいるじゃん」て僕は思うんです。

実はその家を見つけた数年前に、自分がボロボロに傷ついているということに気づき始めたんです。戦いによって。

僕は生まれてからこの方、ずっと戦いの連続だった。人生が。いわゆる外的要因との戦いの連続でしかなくて、そこで気が付いたんです。 その時までは、そこまで自分との内面と向き合っていなかったので、大丈夫だと思ってやっていた。

色んなダメージを受けているんだけど「大丈夫。全然オッケー」とか言ってまた戦場に行って。気がついたら結局、ものすごくダメージを受けていた。

——ボロボロになったというのは、2015年にハリウッドデビューされた作品「Last Knights(ラスト・ナイツ)」の頃ですか

それがラスト・ナイツで受けた傷なのか、15歳でアメリカに行った時からそうなのかはわからない。

子どもながらに戦いがあったわけですし。常に、システムや組織や、そういうものとの戦いを繰り広げてきた過程で、気が付いたらやっぱり自分がズタボロになっているということに気がついて。

それに対して向き合わなければ、その傷を癒さなければいけないということもありますよね。ひとりでいるということは。

それをやらなければあまりにも内側が可哀想と言うか、ごめんねという感じでしたね。ちょっと乱暴に扱い過ぎちゃったみたいな。

仕事の話だけではなく、生きるということはそういうことじゃないですか、色んな傷が生まれますよ。恋愛だってそうだし、人付き合いだってそうだし。

多くの人達が傷ついている訳です。サラリーマンだろうが学生だろうが、知らないうちに傷ついています。内側から。

日本にはカウンセリング的なことも少ないので、自分の傷を癒すっていうのができにくい状態なんじゃないですかね。話を聞いてくれる人たちに時間がなかったり、その人たちも傷ついてるわけだし。

それも含めて、ひとりになると言うことを肯定しないと、分からない事があると思いますよ。

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——「そんなに簡単に一人になれないよ、紀里谷さんだからそんなことができる」と思う方達もいると思いますが。

勿論、僕は職業柄こんなことができると思います。世界中どこにいてもネットさえあればなんとか仕事ができる。多くの人達は、会社に行かなければならないし、家庭もある。でも、テレビを消すことはできる。スマホを置いて公園に行くことはできる。自分の身の回りで起きていること、語られていることが本当に重要なのか?と疑問を持つことはできる。

疑問も持たずにその集合体の価値観に取り込まれている方が楽という人もいると思います。それはそれでいいと思います。ただ僕は関わりたくない。

——今は、その山小屋で脚本をお書きになっているんですか。

毎日、脚本を書いてます。しかしその企画が実現するかどうかっていう事すらもわからないです。

映画ってのは、ものすごく多くのお金が絡むので、そのためにはこれが必要であれが必要で、こういう実績が必要で、となる。じゃあお金が集まるような脚本だったら良いのかという話になってきちゃうけど、今の僕にはそういうのはどうでもよくって。

自分はとにかく脚本を書いていて、それは自分との対話であり「何が言いたいのよ」って話でしかないわけです。自分が感じていることをなるべく正直に。

でも、100%正直っていうのがこれまた難しい。自分が自分で嘘つくから。人間の恐ろしい所って、エゴが自分を騙そうとする。

だからそれをなるべく正直に出して行きたい。それが出来なくて死ぬんだったら死んでもいいし、やり残した事なんてないんです。

だから結局そういう意味では今、すごく平和です。山の中にいて、自分の今の感じでやってるのがすごく平和。

——次に向かうにも、ひとりの時間が必要だったのでしょうか?

そうです。しかし究極をいうと、次に向かえなくても良いんです。それも外的なもので、「成功しないといけない」「何かにならないといけない」という事を皆さんがおっしゃるんだけれども、そんなのどうでも良いじゃん、そもそも、今あなたがそこにいるわけなんだから、いるだけで良いじゃんと。

何にならなくても良いし、好きなことをやれば良いし、それが実になろうが、実にならなかろうが、映画が作れようが作れまいが。重要なことはそれが本当にやりたいことなのか、それをやろうとしたのか、そしてそれを自分ができることを全て出し切ってやったのか、そこが重要。

ただやはり、多くの人たちがこの社会の中で、こうならなければならない、年収はこれでなければいけない、地位はこうじゃなければいけない、モテなきゃいけない、ヒット数は多くなければいけない、視聴率が上がらなければいけないと思っている。もちろん結果は出た方がいい。でも、その成功は誰が望んでいるものなんだろう?自分が望んでいるものなのか?それとも社会が望んでいるものなのか?

同じようでこの違いはとても大きいと思います。

——流されない生き方はとても強く映ります。

多くの人達が、自由も欲しいんだけれども、ひとりになるのが嫌だと思っています。

よく聞かれる「私はどうしたらいいですか」という質問も、つまり私の手をとって、そっち側に連れて行ってください、みたいな感じなんです。

どうしたら強くなれるんですか? じゃなくて、この世界をあまり信じすぎなくていいと思うんです。僕は信じていない。

皆さん本当にすごく信じていて、だから集合体にカツアゲされてしまう。

僕からすると何か、映画を見ている感じでしかないんです、この世界って。

その映画が終わって僕が死ぬわけではないし、違う映画を見ればいいじゃんってぐらいの話でしかなくて、しかし皆さんは映画を見ながらそれを現実と錯覚してて、そんな怖がる必要ないんです。映画だから。ゾンビが出てきても、それは映画だから。

——そういう感覚を、何歳ぐらいから持っているんですか?

20代、30代と自分も社会を信じたし、その中で何かしようと思っていた。それで色んなことをやりましたよ。それをやり過ぎて、今どうでもいいと思っているのかもしれません。全ては幻だと。しかしその幻はとても美しいものにも醜いものにもなり得る。僕は同じ幻だったら美しい方がいいと思っているだけです。

紀里谷和明(きりや・かずあき)プロフィール

1968年、熊本県生まれ。15歳で単身渡米し、マサチューセッツ州にある全米有数のアートスクールでデザイン、音楽、絵画、写真などを学び、パーソンズ美術大学では建築を専攻した。

ニューヨーク在住時の1990年代半ばに写真家として活動を開始。その後、数多くのミュージック・ビデオを制作し、映像クリエイターとして脚光を浴びる一方、CM、広告、雑誌のアートディレクションも手がける。

SFアクション『CASSHERN』(2004)で映画監督としてデビュー。アドベンチャー活劇『GOEMON』(2008)を発表。監督第3作『ラスト・ナイツ』(2015)でハリウッドデビューを果たした。

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