アート&カルチャー

「自分が死んでも3年は内緒に」と語った手塚治虫。アニメ音楽に再び息を吹き込んだ、初音ミクとの深い関係

生誕10周年の初音ミクが現代に蘇らせた、冨田勲の名曲。手塚治虫の長女、るみ子氏がインタビューで背景を語った。

2017年09月12日 11時07分 JST | 更新 2017年09月12日 11時07分 JST

バーチャル・シンガーの初音ミクが誕生して10周年を迎えた2017年、コラボアルバム「初音ミク Sings "手塚治虫と冨田勲の音楽を生演奏で"」が9月6日に発売された。

このアルバムは漫画家、手塚治虫氏の多くのアニメーションで音楽を担当した音楽家、冨田勲氏の楽曲を初音ミクなどが歌い、紹介するというもの。亡くなった漫画家と作曲家、バーチャル・シンガーのコラボ作品を、ジャズ界の大御所の演奏で届けるという、異色だらけの作品だ。

初音ミクと手塚治虫作品が結びついたのはなぜなのか?そして、その仲を取り持った冨田勲氏の存在とは?手塚治虫氏の長女、るみ子さんに聞いた。


Yuriko Izutani/HuffPost Japan
手塚治虫の長女、るみ子氏

——とても斬新な作品ですね。

(ピアニストの)佐藤允彦さんを始めとする一流のミュージシャンの方々が、全く違うかたちで、二次創作と言っていいのか、トリビュートとして手塚治虫アニメーションの音楽の素晴らしい発展形を見せてくださったと思います。

往年のファンの方も、新しい世代の初音ミクファンという方も十分楽しめる内容で、昔々のテレビアニメの、というだけではない作品ですね。

それはやっぱり、ベースの冨田先生の作曲力が完璧なんだろうなと思います。

——多くの手塚アニメの作品で、冨田先生が作曲を手掛けておられます。こうした作品では絵が出来てからそれに合わせて作曲されていたということですね。すごいです。

冨田先生は特にそうされてたみたいですね。ただ、うちの場合、アニメーションが完成してからじゃ到底間に合わなくて、絵コンテの状態でカウントを取って作曲を始めていたそうですよ。

だから、冨田先生がラフな状態から動きの想像を膨らませて作られてるところはあったんだと思うんですけれど。

——それを、多額の予算をかけた映画だけでなく、テレビシリーズでも実現されたというのはすごい。

手塚治虫のアニメーションで、作曲を本格的に冨田先生にお願いしたのは「ジャングル大帝」が最初でした。

国産のテレビアニメの「鉄腕アトム」が大変ヒットして、次はカラーテレビでジャングル大帝をという構想があった時、手塚治虫自身は日本のアニメーションの地位を高めるためにも、「これからは海外に通用するものを作っていかなくてはいけない」と考えていたようです。

音楽にも大きな予算を割いたようですが、それでも足りない部分は、人間の想像力と発想力と、あとテクニック、アイデアでカバーするしかなかったんですよね。

当時のアニメーションを今見ると、技術的にはいかに稚拙かって思わされるのですが、それを当時の子どもたちは、自分たちの想像力と期待で埋めて、それで感動したり笑ったり泣いたりっていうことをしてきたんだと思うんですね。

そして、その世界観や感情を、音楽が補ってるところが多分にありました。当時のアニメーションを、音楽なしで見ると、本当にある意味、味気ないものになります。

当時のテレビアニメは、エンディングの曲や主題歌も含めて、本当に最後の最後までパッケージで一つの作品を作り上げていましたから。

初音ミクは「想像を超えるクリエイティブな存在」


——手塚るみ子さんは、初音ミクのことは10年前の誕生当初からご存知だったのでしょうか?

実は全然。何人かの知り合いが、初音ミクの楽曲関係の仕事をしているのは知っていましたが、そこまで意識していたわけでははないです。

ですから、初音ミクとの本格的な最初の出会いは、冨田勲先生の作曲された「イーハトーヴ交響曲」の(2012年の)公演にお邪魔した時でしたね。ソリストとして初音ミクが舞台に登場して、こういうことなのか、とわかりました。何となく、コンピューター上で見るものだと思っていたので、大きな舞台上で見る初音ミクは、自分の想像を超えるクリエイティブな存在でした。

なおかつ、アンコールで、初音ミクが「リボンの騎士」のサファイアに扮して登場した時は、鳥肌が立つぐらいびっくりしたのと、やっぱり、うれしかったですね。

——うれしかったというのはどういう点ですか?

冨田先生が、初音ミクというバーチャルな存在と、ご自身の交響楽をコラボレーションされたその背景に、手塚治虫とアニメーションを作ってきたことがあるのだろうと思いました。

手塚治虫の作品は、当時は2Dの、しかも初期のアニメーションですよね。だけど、音楽とアニメーションの動きを合わせて一つの舞台を作っていくということ。そしてその中に、手塚治虫に対する冨田先生のリスペクトがあって、現代のかたちで表現をされているということ。

そういったことを冨田先生からも伺って、それがかたちになったのを見た時に、そのお気持ちが、やっぱり一番うれしかったですね。

——人間を超越した存在、人間の想像力をかたちにするという意味で、初音ミクと手塚先生のアニメには共通点があるように感じます。

そうですね、既に冨田先生も手塚治虫も亡くなっているので、これは私の想像になるのですが。

手塚治虫は、ディズニーを敬愛していて、ウォルト・ディズニーのアニメーションの、何の乱れもない動きの美しさ。そして、映像と音楽の融合した世界観がどれほどの感動を呼ぶのか、という部分に一番感銘を受けていたようです。その融合で子どもたちに感動や夢を与えると。

おそらく冨田先生は、その手塚治虫の思いをきちんと受け止められていたんでしょう。アニメーションの動きの面白さに音楽を加えることで、必ず、一つのアートとして、その芸術性を高めてくださっていた。

その発展形が、初音ミクだと思うんです。ですから、現在の映像で作られた新しいアニメーションのかたちと、冨田サウンドを融合させた時に、どれだけの感動を人に与えられるかということにチャレンジされたんだと思います。

そうして日本人が新しく作り上げたものを、21世紀に、冨田先生ご自身が、今のクリエイターの方々と作り上げて、全く新しい感動を日本発信型で世界に持って行こうとされたんだろうなと。ウォルト・ディズニーから脈々と受け継がれてきたものだと思います。

手塚作品を発展させ、現代に受け継ぐという使命


——今回のCDもそうですが、手塚るみ子さんは、手塚治虫作品を発展させ、現代に受け継ぐ役目を果たしておられますね。著書『定本オサムシに伝えて』には、手塚先生が亡くなった後でそれを決意したというエピソードを書かれています。悲しいけれど、グッとくる話でした。

そうですね、私は大きな置き土産をもらいました。

手塚治虫が生前、何よりも嫌がってたのは、「自分が古典として忘れ去られること」だということなんです。それが、私たち、子どもたちに預けていった意志だと思います。

やっぱり歴史はどんどん変わっていってしまいますし、新しい方々がどんどん新しいカルチャーを作っていきますよね。

だから、手塚治虫をリアルタイムで知らない人が、何をきっかけにして関心を持つかということを、自分なりに考えて発信できればと思ってやってきています。

大層なことはできないですが、たまにこうやって、かたちを変えてある種の二次創作的なものにして、若い人が関心を持ちやすいかたちに変えて、手塚治虫の世界観を合わせ持つものを出していきたいなとは思っています。結果的に、原作に行ってもらえば最高ですね。


日本コロムビア
初回限定盤ジャケット

——手塚先生が「古典になって忘れ去られるのが嫌だ」とは。一体どんなタイミングで言われていたんですか?

晩年ですね。「自分が死んでも3年は内緒にしておけ」って周囲の人間に言っていたらしいですから。

それぐらい、亡くなったらすぐに忘れられちゃうとか、本が売れなくなるとか、結構、気にしていたみたいですね。忘れられて、自分の作品が読まれなくなるのが何よりもやっぱり怖かったんじゃないかなと思います。

手塚治虫も、若い才能のある作家に負けじと、自分の作品を発表してきたんですけども、晩年はだんだん体も弱ってきて、量産もできなくなりましたから。やっぱりもう自分が描けなくなるっていうことが何よりも作家として恐怖だったんじゃないかと思うんです。そこはもう作家の業のようなものですよね。

——あれだけの方でもそう思うのか、と不思議な気持ちです。

今にしてみれば「そんなことないよ」なんですなんですけども、その思いで晩年は結構焦っていたんじゃないかなと思います。

——初音ミクなど音楽方面でのコラボレーションだけでなく、手塚プロダクションでは、絵の方でも手塚作品の「二次創作」を積極的に支援するような活動もされていて、それが独特ですよね。

いわゆる、コミックマーケットのような二次創作は、本当に日本の独特なカルチャーの発展形ですよね。ファンの間で創作を楽しみ合えるという、ある種の「祭り」ですから、それも本当に一つの新しい発信のかたちだと思うんですよ。

日本コロムビア
通常盤ジャケット


——『ブラック・ジャック』のパロディ漫画を描いていた「つのがい」さんを「公認作家」として手塚プロのお仕事も任せているというお話も聞いて、大胆だなと思いました。今回のCDジャケットの手塚タッチの初音ミクも描かれているそうですね。

SNSで拡散されたつのがいさんの絵を見て、本当に手塚そっくりのタッチだったので、驚きました。手塚がどこかで描いたものが、ネットに出回っているんじゃないかと、間違えるぐらいのものでしたね。

ちょうどそのタイミングで、うちとしては、手塚治虫のアシスタントをしてくださっていた方々がだんだん高齢化してきていて、若い描き手を探していたんですよ。だからお声がけして、全くのアマチュアの方だったんですが、うちで描いていただくことになりました。

変な話ですけどね、つのがいさんは2月生まれなんですよ。ちょうど父が2月9日で亡くなっていて、ちょうど同じ年のちょっと前に生まれているんですよね。

だから、父が、自分の体はもうどうしようもできないんで、つのがいさんが生まれた時に、「ああ、ちょっとこの子の体借りようかな」って思ったのかなとか。そんな風に思っているんですよ(笑)。バトンを渡す感じでね。

——それは、ちょっとSF的ですね。

つのがいさんはもちろん、手塚治虫を知らないで生まれてきて、実はそんなに漫画も読んできてないそうです。ただ、名前は知ってる、「アトムの人だ」ぐらいの感覚でしかなくて、見よう見まねで、ブラック・ジャックを描き始めたんだそうです。

そういう方が見つかったのも今だっていうのは不思議な縁を感じています。2018年には手塚治虫が生誕90周年を迎えますので、ちょっといろいろ描く気になってる、とかね、きっと色々あるんだと思うんですよ。そういう方々のお力も借りて、さまざまなかたちで手塚治虫を知っていただくきっかけ作りに取り組んでいきたいですね。

※手塚治虫の"塚"の字は、正しくは旧字体(塚にヽのある字)。

手塚るみ子氏・プロフィール

プランニング・プロデューサー。漫画家・手塚治虫の長女。成蹊大学卒業後、広告代理店 I&S に入社。その後 フリーとなり、手塚作品をもとにした企画・タイアップのプロデュース、コーディネーション活動を始める。音楽レーベル「MUSIC ROBITA」を設立し、『Electric-Brain feat.ASTROBOY』はじめ、システム7『PHOENIX』な どをリリース。また手塚治虫記念館での『忌野清志郎展』、都内ギャラリーにて『手塚治虫美女画展』や『手塚治虫文化祭~キチムシ』など新機軸の企画展をプロデュースすることでも話題。著書に『定本オサムシに伝えて』、共著『ゲゲゲの娘レレレの娘らららの娘』がある。現在は㈱手塚プロダクション取締役。

手塚治虫

本名・手塚治。1928 年、大阪府豊中市生まれ。大阪大学医学専門部卒業。医学博士。1946 年に 17 歳で四コママンガ 『マアチャンの日記帳』でデビュー。翌年、単行本『新寳島』が大ヒットとなり、以来、日本のストーリーマンガの確立に尽く す。また、1961 年、アニメスタジオ「虫プロダクション」を設立。1963 年、国産初の本格的なテレビアニメシリーズ『鉄腕アト ム』の放送を成功させ、アニメ界にも大きな業績を残す。代表作に『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『火の鳥』 『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』等がある。1989 年逝去。

冨田勲

作曲家、シンセサイザー・アーティスト 1932-2016 年。慶応義塾大学在学中から NHK で音楽の仕事を始める。1963 年、大河ドラマ第 1 作「花の生涯」を担当、 計 5 本の大河を手がける。TV アニメ「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」など手塚治虫作品の音楽を作曲。日本におけ るシンセサイザーの先駆者で、「月の光」が日本人初のグラミー賞にノミネート。"世界の TOMITA"と讃えられる。晩年は 初音ミクを起用した「イーハトーヴ交響曲」を作曲。逝去の1時間まで創作に取り組んでいたスペースバレエシンフォニー 「ドクター・コッペリウス」は、追悼公演として東京で上演され、大きな話題となった。

初音ミク

クリプトン・フューチャー・メディア株式会社が開発した、歌詞とメロディーを入力して誰でも歌を歌わせることができる「ソフトウェア」。大勢のクリエイターが初音ミクで音楽を作り、インターネット上に投稿したことで一躍ムーブメントとなった。「キャ ラクター」としても注目を集め、今ではバーチャル・シンガーとしてグッズ展開やライブを行うなど多方面で活躍するようにな り、人気は世界に拡がっている。