あの人のことば

「17歳、生まれて初めて自分の名前が書けた」 夜間中学卒を誇りに生きる男の記憶

「学ぶということは、差別と戦う『文字と言葉』を奪い返すということ」

2017年11月18日 11時21分 JST | 更新 2017年11月28日 17時27分 JST

満州からの引き揚げ中に家族とはぐれ、戦争孤児として生きてきた男が、生まれて初めて自分の名前をかけるようになったのは17歳のころ。21歳で夜間中学に入り、文字と言葉を学んだ。

男の名は髙野雅夫(77)。今でこそ、夜間中学は不登校経験者や日本で暮らす外国人たちの学びの場として注目されているが、かつては、法律で認められていないことを理由に国から廃止されそうになった。そんな動きにたった一人、立ち向かったのが髙野だ。

「俺たちにとって学ぶということは、ただ文字が書けるようになるってことじゃない。人間としての誇りと権利、そして差別と戦う武器となる『文字と言葉』を奪い返すことなんだ」。口ぐせのようにそう語る彼の生き様を、インタビューを通じて振り返る。

Kazuhiro Sekine
インタビューに応じる髙野雅夫さん=大阪府東大阪市

満州から引き揚げ

髙野は日中戦争が始まってから2年後の1939年、旧満州に生まれた。だが、これは正確ではないかもしれない。というのも、幼少の頃の彼を知る手がかりは何もなく、かすかに残る自身の記憶だけだからだ。

俺は日本人なのか、中国人なのか、朝鮮人なのか、本当のところはわからない。満人の子どもたちと遊んでいた路地裏に、赤ん坊がたくさん捨てられていた光景が脳裏に残っている。それが3、4歳のころ。もしかしたら俺も捨てられていた赤ん坊で、「タカノ」なんとかというおふくろが拾って、「マサオ」と名付けただけかもしれない。

病弱なおふくろはほとんど寝たきり。お手伝いさんのクーニャン(中国語で若い女性のこと)に育てられていた。きょうだいがいた記憶はない。

親父の記憶も全くない。あるのは1枚の写真だけ。ある寒い冬、オンドル(床暖房)のある小さな部屋で、俺とおふくろ、クーニャンの3人で親父のお通夜をやった記憶がかすかに残っている。その時、黒縁の額に入れられた男の人の写真があって、兵隊さんの帽子をかぶっていた。それが親父じゃないかと思う。それ以外はまったく覚えていない。

戦争が終わって、おふくろやクーニャンと一緒に逃げた。持てるだけの荷物を持って。途中まで一緒だった記憶があるんだけど、どこではぐれたのか死んだのか。殺されたのか。全く記憶にない。たくさんの人が歩いて逃げていて。その波にくっついて行っただけ。

昼間動くと中国人やロシア人たちに皆殺しにされるってことで、コーリャン畑の中とか小さな森の中で林の中にじっと身を潜め、夜になるとぞろぞろと歩いた。

お母さんのおっぱいが出なくなって、小さい赤ん坊が「ぎゃあぎゃあ」泣くんだけど、その泣き声で中国人やロシア人に見つかると困るってんで、男たちが赤ん坊の首を絞めて殺そうとした。そしたら、そのお母さんが「どうせ殺すなら私が殺す」って言って。

どこからあんな力が出てくるのかわからないんだけど、男たちを突き飛ばして、自分の生み育てた赤ん坊の首を絞めて殺した。死んだ赤ん坊を背負うんだけど、死んでるから首がだらんとなって。その記憶は鮮明に今でも忘れられない。

博多の孤児生活

母親らとはぐれた髙野は、人の群れに流されるように引き揚げ船に乗り込んだ。船はやがて博多に到着。先を争うように人々が降りていった。髙野もそれについていった。日本が何たるかもわからぬままに。

いわゆる戦争孤児だった。博多での生活は「野良犬のように飢えをしのいだ」っていうのがぴったりの表現。食べ物を拾ったり盗んだり。人を脅かして奪うこともあった。命を守るために5歳ごろからナイフを懐に忍ばせ、タバコをふかした。

メチルアルコールが入った酒を「ばくだん」と言ったんだけど、闇市で1級とか2級とか3級とか格付けして売っていて。そういうのを盗んでがぶ飲みしてぶっ倒れたこともあった。

「苦労したでしょう」って人からよく言われるんだけど、悲しいとか苦しいとか辛いとか、そういうふうに思ったことは一度もない。涙を流したこともないし、もちろん死のうと思ったこともない。

何を見ても、例えば花を見ても、すべて食えるか食えないかとか、人を見たらこいつは敵なのか味方なのかとか。人間が持っている悲しいとか辛いとか、そういう感情まで奪われている状態だった。

「ゴンチ」の事件がその後の人生の分かれ目だった。あれがなかったらそのまま飢え死にしているか、喧嘩で殺されているか。あるいは相手を殺しているか。

ゴンチ。俺と同じ戦争孤児で、本名はわからない。2つぐらい年上で、腕っ節が強くて。こいつにくっついていけば飢えをしのげると思っていた。俺たち2人は野良犬のように肌をすり寄せ、暮らしていた。

15、16歳ごろ。みぞれが降るある寒い冬。ヤクザでもない愚連隊でもないチンピラでもない、さらにその下の奴らと喧嘩になったことがあった。そんな奴らにも縄張りがあって、前にいざこざになった連中で。ばったり出くわして。

奴らはナイフを振り回してきて。そしたらゴンチが俺をかばって、ばっと目の前に出てきて刺された。バタンと倒れて。血がバッと飛び出て。背中が2、3回、「ピクピク」ってけいれんして亡くなったんだ。

人間の命のあっけなさというか。それまでは殺されたらどうなるとか、死んだらどうなるかとか、考えたこともなかったのに。

例えばおまわりに捕まって、「お前は生きているだけで世の中のためにならんから、早くおっ死んだほうがいい」って言われて、軍人の靴みたいな硬い靴で蹴飛ばされても、死ぬとか生きるとか考えたこともなかった。だけど、ゴンチが殺された時、怖くて体の震えが止まらなかった。そんなことは初めてだった。

「神様」との出会い

髙野は逃げた。金も持たずに汽車に飛び乗った。無賃乗車で途中降ろされてもまた乗り込んで。やがて汽車は上野駅に到着した。

「俺も殺される」って思って必死だった。汽車に乗ったらどっかに行くだろうって思って。終点だったので仕方なく降りたんだけど、そしたらそこが上野だった。

東京がどんなところか全くわからなかった。上野公園や地下道で野宿して水ばっかり飲んでいた。お腹がペコペコになってものを盗んでやろうと思った。だけど、どういうわけか、殺されたゴンチの顔が浮かんできて、盗めなくなった。

何が何だか分かんないんだけど、博多でやっていたような生き方ではなくて、身代わりに殺されたあいつの分まで何としてでも生きていきたいと思った。

だけど、何をどうやったらいいか、当時の俺の頭ではわからなくて。ふらふら歩いてたどり着いたのが山谷だった。

玉姫公園ていうところだったんだけど、その時俺は99.9%死んでたと思う。「おーい、おーい」って声が聞こえてきて、あの世からお迎えが来たのかと思っていたら、ボロボロのシャツを着た小さなおじいさんが立っていて。リヤカーに乗せてくれて、公園の隅っこに連れて行ってくれた。

おじいさんはテントを張っていて。ドラム缶に穴を開けて、かまどがわりにしていた。そこに鍋を置いて、煮込みうどんを食わしてくれた。

今から考えると、犬の飯か猫の飯かわからないようなものだったけど、その時の味は今でも忘れられない。死んだ人間が生き返るってのはこんなもんなんかなぁ、と思って。なんか、頭のてっぺんから足のつま先まで新しい血が、どく、どく、どくって流れるみたいに。

そのおじいさんが、いわゆる「バタ屋」さんと言って、今で言う廃品回収の仕事。俺も手伝うようになって。俺がリアカーを引いて、おじいさんが後ろから押して。

おじいさんは朝早くから夜遅くまで黙々と働いた。寡黙で、声かけてもほとんど何も言わない。

あるとき、おじいさんが俺のために名前の書き方を教えてくれた。「タカノマサオ」って音では知ってるけど、書けなかった。少年院とかでも蹴飛ばされて馬鹿にされたこともあった。

おじいさんはごみの中から、いろはかるたを拾ってくれて。たこの絵で「た」、カニの絵で「か」、のぼりの絵で「の」、鞠の絵で「ま」、猿の絵で「さ」、桶の絵で「お」と並べて、「これがお前の名前だ」って。

ちびた鉛筆で、たった6文字を書くのに何日かかったかわかりゃしない。当時17歳。生まれて初めて自分の名前が書けた時、心臓がドキンドキンって高鳴り、手が震えた。

そのうち俺は「漢字の名前も教えてくれ」って頼むようになった。そしたらおじいさんが、拾った辞書で「髙野雅夫」って教えてくれた。

「髙」という字、古い辞書だったから旧字体の「はしご」の「髙」を使ってる。だから普通の「高」の字を書かれると、俺ではないと思う。

「髙」の字にはおじいさんの歴史と俺の命が込められているから、絶対的にこだわっている。だからはんこも、作った戸籍もみんなこの「髙」。

Kazuhiro Sekine
髙野さんはよく、自らメッセージを書いたTシャツを着る

一番ショックだったのは、そのおじさんが周りから「あいつ朝鮮人だ。朝鮮人だ」とか言われて差別を受けてきたこと。当時は全く意味がわからなくて、「朝鮮」という名前の人なのかなぐらいに思っていた。

だけど、この世の中に神様がいるとしたら、このおじいさんこそ俺の神様。俺に字を教えてくれたわけだから。黙々と仕事する後ろ姿が輝いて見えた。

そんなおじいさんが突然、亡くなった。ある朝目が覚めたら、いつもは早起きのおじいさんが寝ていた。「あれっ」と思っておじいさんに「行こ。バタやん行こう」って言ったんだけど、もう体が冷たくなっていた。

みんな「ぽっくり病」って言ってたけど、今で言ったら心臓麻痺だろう。前の晩まで元気だったし、ちゃんと仕事もやっていた。

「おじいさんが死んでる」って俺が騒いだら、近くの交番からおまわりさんがやって来て。区役所の奴らも飛んできた。

「仏様」の体だからさぞ大事に運ぶんだろうなと思っていたら、粗大ごみを運ぶような、ちっちゃなクレーンが付いたトラックが到着して。おまわりさんも役所の人も、誰もおじいさんを触らない。まるでごみのように釣り上げて、ボーンと荷台に落とした。

「俺の神様に何しやがるんだ」って叫んで暴れたら、おまわりさんに手錠をはめられて羽交い締めにされて。トラックはどっかに行ってしまった。生まれて初めて涙を流した。それまで野良犬のように、感情もなく生きて来た俺が。

その時、誓ったことがある。俺の「神様」を虫けら以下の、ごみのように扱った奴らに、社会に、この恨みを絶対晴らしてやると。

今から思えば俺にとっての「人間宣言」。そのためには、何としても勉強して、文字と言葉をちゃんと読めるようになって。ちゃんと書けるようになって。どもらず、ちゃんとしゃべれるようになっておこうと。

そんな人間になって、絶対におじいさんの恨みを晴らすと。その思いは今でも変わらない。そういう思いが、俺のその後の53年間の人生を支えていたと思う。

夜間中学に入る

「神様」が亡くなった後、髙野は人生を見失っていた。

おじいさんが亡くなった後しばらくは、いろはかるたを一生懸命に地面に並べていた。例えば「ころしてやりたいやつがいる」とか作って。いろは48文字を何とか書けるようになっても、これから先どうやっていいかわからなかった。

そんな時、ふと思い出したのが、おじいさんがまだ生きているころに、「こんな夜の中学があるぞ」って見せてくれた本の切れっ端だった。ごみの中から拾った「夜間中学生」という本だった。

のちに恩師となる夜間中学の教師が書いたものだった。中学校というからには10代の若い子しか入れないとあきらめていたんだけど、どうしても入りたいと思った俺は、それを握り締めて、本に出てくる荒川区立第九中学校を探しに行った。

いざ学校に着いてみると、怖くて入れなかった。役所の窓口とかでもそうなんだけど、どもってうまく話せないもんだから、何か聞かれるのが怖くて。

学校の周りを2、3周うろうろ歩いて。ズボンのポケットにナイフを忍ばせていて、どうしても入れてくれなかったらそれで脅かしてでも入れてもらおうかと思った。今から考えると馬鹿みたいな話なんだけど。

ようやく、「くそっ」って思って、勢いをつけて「夜間中学に入りたいんですけど」って言ったら、「誰でも入れますよ」って言われて。何歳でもいいって言うんで。その時、「おじいさん、やったぞ」って思った。

入るためには住民票とか戸籍謄本とかが必要だと言われて。そんなものがあるはずないし、そもそも言われてる言葉の意味が全くわからなかった。

それで夜間中学の先生に保証人になってもらって、まず今住んでいるところの住民票を取って。外務省やら厚生省やら法務省やらを回って。

その時わかったんだけど、引き揚げ先だった博多とか舞鶴とかの港に受付名簿みたいなものがあって、そこで登録されたんだろうとばかり思っていたら、それぞれの本籍地がある役所で登録する必要があったらしい。

だから俺たちみたいな身元がわからない戦争孤児はその網にかからなかった。全然記録もなくて、一から戸籍も作って。それで手続きは2年以上もかかった。

とりあえず仮入学という形で通い始めて。それが21歳のころ。最初はとにかく偉くなって、日本一の金持ちになってやろうと思った。そのためには大学に行こうとも。大学が何たるかもわからないくせに。

生まれて初めて学校の机に座った。生まれて初めて差別のない社会を知った。

大学に行くためには勉強だってんで、それはもう1週間も10日も寝ないで勉強した。そしたら睡眠不足でぶっ倒れたりなんかして。

先生に「朝まで学校で勉強しちゃだめか」って言ったこともあった。そしたら「お前らが帰らなきゃ俺たちも帰れないだろう」と先生から追い出された。

がむしゃらな状態が落ちついて1年近くたったころ、初めて周りを見回した。17人いた同級生のほとんどが13歳から15歳までの学齢児。俺なんか3番目に年寄り。俺から見たらみんな弟か妹のたぐい。そこで疑問がわいてきた。彼らは何で昼間の学校に行かないんだ、と。最初は、みんな不良なのかとも思った。

担任の先生について行って、彼らの職場や家庭訪問に同行することにした。薄暗い小さな工場で真っ黒になりながらプレス作業をしている子や、身体中が塗料まみれになって働く子。学校では元気いっぱいにはしゃいでいた同級生たちが、まるで別人のように黙々と働いている姿を見て愕然とした。

俺が酒をあおり、タバコをふかしていた間に、彼らは昼間、必死に働き、夜学び、自力で生きてきたわけだ。

日本には憲法とか教育基本法とか学校教育法とかがあって、人間の生きる権利と学ぶ権利が保障されているってことを初めて知った。だが、そのとき怒りがこみ上げた。だったらなぜ、彼らは夜、学校に来ているんだ、と。大学に行った奴らがのんびり勉強していた時、俺たちがどんな思いで生きてきたのか知ってるのか、と。

あれほど大学に行くぞと信じていた夢は、虚しさへと変わった。夜間中学を出て定時制高校で4年学び、大学でも4年。8年もかけてちゃんとした会社に就職して、暖かい家庭を作って。俺を殴った奴らに「どうだ、俺も大学を出て立派になっただろう」と言ったところで、それがどうしたんだと。そんなことでゴンチやおじいさんたちの恨みを晴らせるのかと思った。

1964年、髙野は夜間中学校を卒業した。卒業記念にもらった辞書にこう書き込んだ。「同情を憎み、矛盾に怒れ」。このとき24歳。新生活をスタートさせた矢先、髙野の人生を左右する出来事が起きた。

(敬称略。インタビューは後編に続きます)

Kazuhiro Sekine

夜間中学

中学校の2部授業という位置づけで、正式には「中学校夜間学級」。戦後間もなく、戦争や貧困などで義務教育を終えられなかった人たちの学びの場として各地に開設された。

1966年、当時の行政管理庁(現・総務省行政管理局)が「夜間中学生が昼間の学校に通学できるよう保護措置が必要」などと文部省などに対策を要請。同時に、夜間中学の早期廃止を勧告したことがあった。

現在、公立の夜間中学は全国で31校ある。今は形式的には義務教育を修了したものの、不登校などの事情で満足に学べなかった人たちが学ぶ。中には日本に暮らす外国人もいる。

こうした人たちの支援を強化するため、2016年に教育機会確保法が成立。各都道府県は改めて夜間中学の設置の必要性を検討しており、埼玉県川口市と千葉県松戸市が2019年に夜間中学を設置する予定だ。

公立の夜間中学のほか、民間が運営している自主夜間中学もある。

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