日野原重明氏が遺したメッセージ「命とは、人間が持っている時間のことです」

「十歳のきみへ」に書かれていること。

聖路加国際病院の日野原重明・名誉院長が105歳で亡くなって半年。医師として診察にあたる傍ら、シニアの新しい生き方を提案し、子どもたちにいのちの授業をしてきた。その内容を盛り込んだ「十歳のきみへ 九十五歳の私から」(冨山房インターナショナル)は、亡くなった後に改めて注目されている。私は出版された2006年、日野原先生の授業を取材した。当時のエピソードや、親交のあった人たちの話を紹介する。

日野原先生の自宅を訪れた山内さんと医師の仲間
日野原先生の自宅を訪れた山内さんと医師の仲間
聖路加国際病院提供

●命とは持っている時間のこと

日野原先生は、自殺やいじめの報道に心を痛め、90歳ごろから「10歳の子たちに思いを伝えたい」と出張授業を始めた。私が取材したのは、関西にある小学校の5年生の授業。94歳の先生は、すたすたと歩いて登場し、立ったまま話した。そのパワーに驚いた。

先生はレモンや玉ねぎを並べて、心臓の大きさはどのぐらいか問題を出した。こぶしぐらいの大きさだと説明し、子どもたちは聴診器で心臓の音を聞き合った。

「心臓は生きるために必要だけど、そこに命があるわけじゃない。これから一番、大切なことを言います。命とは、人間が持っている時間のことです」(日野原先生)

そして朝から何をしたか、子どもたちに聞いた。ご飯を食べた、勉強したと声が上がる。「どれも自分のためだけに時間を使っていますね。これからはだれかのために時間を使ってください」と語りかけた。

参加した子に感想を聞くと、「妹ともっと遊んであげたい。お母さんの手伝いをしようと思う」とまっすぐに話してくれた。

●子どものけんかと戦争、わかりやすいたとえ

「十歳のきみへ」で、こうした話をわかりやすくまとめている。先生が10歳の頃、母が病気になって死ぬのではないかと不安になったこと。医学生の時、結核にかかり寝たきりで過ごして時間を失ったと思ったけれど、「痛みを知る」という医師として大事な経験をしたこと。

「今日きみが失敗して、みんなに笑われてなみだをこぼした体験は、いつか友だちが失敗したときに、その気持ちをだれよりもわかってあげられるためのレッスンなのかもしれません」

日野原先生がずっと伝えたかった平和についても、ページをさいている。関西の授業でも、「50年たってみんなが60歳になったら、戦争のない平和な世界になるように、いまから考えてください」と訴えていた。

「相手にこぶしをふりあげるのを、ちょっと待ってください」

「争いの根っこにあるにくしみの感情。それをコントロールできるのは自分だけです」

子どものけんかと世界で起きている争いを結び付け、「自分はこんなに痛い思いをした。でも、相手も深い傷を負っていたんだと気づくことができれば、和解の第一歩になると信じています」と説く。

「にくい相手をゆるす。その勇気で、争いを終わらせることができます」

「知るということをもっと大事にしてください」

●「きみたち、よろしくたのみますよ」

私が日野原先生の授業を取材してから10年ほどの間にも、国内外で争いや災害があった。私は親となり、20年勤めた会社を退職し、様々な感情を味わった。

昨夏はドイツでイラクやシリアからの難民に出会い、東北を応援する記事も出している。いま日野原先生のメッセージを読み返すと、痛みを知ること、想像することの大切さが大人にも響く。

「戦争の経験のないきみたちには、いまも世界の各地で続いている戦争で、人々がどれだけ多くのものをうしない、深い悲しみのなかにあるのかを想像するのはたしかにむずかしいことかもしれません」

「けれども、きみ自身が感じる、痛いとか、つらいとか、悲しいとか、苦しいといった感覚や感情をたよりにしてほかの人のことを深く察するのに務めてみてください」

本の最後は、このメッセージで締めくくられている。

「きみたちならば、わたしたちにできなかった平和を実現してくれると信じています。どうか、きみたち、よろしくたのみますよ」

●晩年まで出張授業へ

本書から教科書に収められた章もあり、73刷となった。英語版も出版されている。版元の冨山房インターナショナル・坂本喜久子さんによると、亡くなった後も注文が相次いだ。

「日野原先生とお付き合いして感じたのですが、人間は10歳までにおおよその生き方ができあがるのではないでしょうか。親や祖父母も含め、保育・教育に関わる大人たちが愛情を注いで導いてあげたら、その後の思春期を上手に渡っていけると思います。日野原先生の命へのまなざし、相手を許す教えは、そのために大事です」(坂本さん)

●ミッションを持っていた

本の装画・挿絵を担当したはらだたけひでさんに、思い出を聞いた。

「先生のゲラを読み、触発されて描きました。やさしい文に即した柔らかい、カラーの切り絵です。私は絵本も出していますが、一番、凝りました。当時の先生は忙しさの絶頂。それでも完成を見て、ありがとうと言われました」

一貫した命への問いかけに、はらださんも共感してきた。「先生はよくミッションと言っていました。私自身、50~60代になり、死や老いとリアルに向き合うようになりました。いつでも死を受け入れられるよう、自分ができることに力を傾けて一生懸命に生きたいと思っています」

●長く生きるのが希望ではない

日野原先生は、出版してからも出張授業の問い合わせに丁寧に対応し、104歳まで足を運んでいたそうだ。私は2016年の年末、聖路加国際病院内で開かれた職員による「第九」の演奏会を取材した。日野原先生が車いすに座って現れ、演奏をほめたたえた。歌のドイツ語にちなんで「ダンケ・シェーン!」としめくくり、会場を沸かせた。

同病院ブレストセンター長の山内英子さんは、外科医として駆け出しの頃から日野原先生と交流があった。

「先生が10歳だったのはすごく前なのに、子どもに対してもニーズがわかる。ご自身の経験も大事、その上に時代に合わせてお話を組み立てるのがすごい。私たちが講演をお願いすると必ず来て、メンバーに合わせて即時にメッセージを出してくださいました」

若年性乳がん体験者の会で、日野原先生は「一分一秒、長く生きることが希望ではない。いつか命は尽きるけれど、与えられた時間を人のために使い、最後の瞬間まで神様に用いられることが希望」と話した。「その通りの生き方でした。かなうかどうかは神の手に委ねられているけれど、もう一度、講演に立つという希望を持っていました」

山内さんは病院の仲間と、延命治療を選ばず自宅で過ごしていた日野原先生を訪問。「私はクリスチャンとしてつながりがあったので、一緒に賛美歌を歌い、祈りました。先生が大事にしていた『患者に愛を与える』という理念は、病院のスタッフに受け継がれました。それぞれが自分の役割を体現しようと頑張っています」

冨山房インターナショナル

なかのかおり ジャーナリスト Twitter @kaoritanuki

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