カメラを託して…バングラデシュの山奥へ支援物資を届ける

写真では伝えきれない、本当に美しい光景です......。

Happy New Year 2018! 明けましておめでとうございます! 今年も変わらず、バングラデシュとチッタゴン丘陵地帯で、頑張ります。

愛するものは変わらないけれど......私の在り方は少しずつ変わってきました。愛するものに合わせて。

年末に、ある記事で答えたように(「Camera took me here」リンク)、バングラデシュへはドキュメンタリー撮影の目的で来始めて(2010年)、後に住み始めた(2014年)のも撮影が主な目的でした。しかし当時はそれらがうまく運ばない事情があり、その都度泣いたりもがいたりしていましたが、次第に「ここにいたい」という気持ちが一番になっていったことで、小さなプロジェクトを重ねて現在に至ります。

当初の目的を見失ったわけではなく、私にとってこの国や場所が、大好きな人たちと一緒に歩む、もっと大切なものに変わったということなのだと思っています。

2017年のラストは、チッタゴン丘陵地帯の奥の村々へ冬用毛布と教材を届けるプロジェクトに携わりました。そこで、ようやく今回の記事タイトルに辿り着くのですが、私はこのプロジェクトで、物資だけでなく、自分の役目であったはずの「カメラ」も仲間たちに託しました。自分がここに来た目的の象徴「カメラ」を預けられる、それほどに信頼できる仲間ができた喜びを感じます。

私は支援先へ行けなかったものの、仲間たちが想いを紡いでくれたプロジェクトについて、お伝えします。

支援の呼びかけ、ミーティング、出発

Natsumizo

昨年12月、「バングラデシュ・チッタゴン丘陵地帯へ、温かい冬のための布と子どもたちの教材を届けよう!- Warm clothes & Educational materials Distribution Project 2017 -」と題して、Facebook等で支援を募らせていただきました。

この活動自体は、ダッカ大学(日本でいう東大にあたる)のジュマ学生有志(ジュマは、チッタゴン丘陵地帯の11民族の総称)が冬期に行っているもので、今年で7回目となるそうです。

バングラデシュにおいて少数民族は、国境沿いのリモートエリアに暮らしていることや、母語と母国語が異なる理由(母語は各民族語、母国語はベンガル語)などから、進学や就職面でも少し不利な境遇にあるのですが、こうしてひと握りの学生がダッカ大まで進んでいます。そんな彼らは結束力があり、「故郷のために僕らが」という使命感も強く、色々な行事や取り組みを行っていて、いつからか、私もそのほとんどに参加しています。3年前、ジュマ学生と初めて出会ったのも、ダッカ大キャンパスの芝生の上、こうして円になってでした。

今年はどの村へ支援を届けるかは、こうしたミーティングでジュマ学生たちの出身地状況を共有したり、一年のうち災害や襲撃・暴動(チッタゴン丘陵地帯の抱える問題)が起きた地域などを中心に検討します。また、寄付の集まり具合でも、行ける場所や人数、物資の量が左右されてきます。

そんな中、嬉しいことに今年はこれまでで一番支援が集まりました! 今年はチャクマ王妃の声がけがあったこと、また日本の方からの支援が加わった、という理由で例年の2倍もの支援が集まったのです。チャクマ王妃は、王妃になって間もないですが、彼女のフィールドワークを私もいつも尊敬しています。

今回日本の皆さんに呼びかけさてもらったのは、支援に大変困っていたというよりは、彼らの活動を小さなサークルだけに留まらせたくない、遠く離れた場所とも互いに繋がってほしい、といった想いからでした。実際、この活動を続けているジュマの彼らも、この支援の将来について壁に直面しています。遠く離れた日本からの応援が加わったことで、これからまた彼らの活動が良く展開していくことを願います。

話は戻り、今年の支援先は3ヶ所に決まりました。バンドルボン県タンチ郡でふたつの村、そしてランガマティ県ラジャストゥリ。しかも多くの支援が集まったことで、これまでは6~7人が代表して行っていたのを、バンドルボンに13人、ランガマティに8人が向かい、活動や引き継ぎをすることができました。

私もバンドルボン組として準備を頑張ったのですが、タンチという場所は非常に奥地にあたり、入域許可証を持っていてもポリスの同行が必要とのことで、行くのを断念しました。少数民族の村人にとって好ましくない存在のポリスや軍人を連れて行くことは私にとっても不本意なので、悩んだ末での決断でした。

恒例のようにまたちょっと泣いたけれど、支援先に向かうバスを純粋な気持ちで見送れたのは、心も物資もカメラまでも預けられる、信頼する仲間ができたからなのだと思います。

朝靄から現れる、タンチの村

Natsumizo

ダッカからバンドルボン県まで約8時間。そこからタンチまで、小さなトラックで約3〜4時間。標高は1000mを下回りますが、バングラデシュでは最も高いエリアにあるタンチの村は、朝、まるで雲の中から現れるように存在します。

写真では伝えきれない、本当に美しい光景です......。日本の原風景のようにも思えます。写真右下の竹造りの家を、ジュマ学生の友人のひとりは「ゴールデンハウス」と呼んでいます。

タンチの家族の風景

Natsumizo

こちらは、タンチに暮らすムロ民族の一般的なお家の風景です。気温は低く、寒いはずなのに、なんだかあたたかく見えるのは、きっと家族の温もりが溢れ出ているからですね。

教材配布

Natsumizo

お揃いの温かなニット帽、セーター、ノートや鉛筆などの教材をもらった子どもたちのはじける笑顔! ここからまた、ダッカ大学ジュマ学生有志のような故郷想いで、少数民族の将来を担う子が出て、繋がっていくのでしょう。

ブランケット配布

Natsumizo

ジュマ学生と村長の手から、村の家族へブランケットが配られました。

今回集まったご支援で、タンチ(写真上)の2地域で、ブランケット200枚、セーター300着、ニット帽300個、ノート600冊、鉛筆・ペン300本が配られ、ラジャストゥリ(写真下)では、ブランケット100枚が配られました。

ラジャストゥリでは、ジュマ学生である写真の女の子(トンチョンギャ民族)の村を訪れ、ダッカ大に進んだ彼女からこうして家族たちに贈り物が手渡される光景に、私も胸がキュンとしました。

初めてのピクニック

Natsumizo

すべての配布を終えてから、ジュマ学生たちと村の子どもたち20人ほどで、1日ピクニックへ出かけました。

ふだんは近所で遊んでいるだけの子どもたちからしたら、少し離れた場所まで遠足するのはとてもワクワクすることだったでしょう。以前もここでピクニックの記事(過去記事リンク)を書いたように、このジュム畑(焼畑畑)から食材現地調達・調理することができる彼らは本当に素晴らしい! ピクニックをしながら、故郷を愛することも、子どもたちはお兄さん・お姉さんから学んだことでしょう。

道なき道を

Natsumizo

到着した先の美しい風景やまぶしい笑顔を伝えた後ですが、バングラデシュの中でも、チッタゴン丘陵地帯はインフラ整備が行き届いておらず、危うい道や暮らしづらい場所が多いのが事実です。

それで民族独自の伝統や暮らしが守られる部分もあるなら、それはそれで良いとも思います。ただ現実は、政府の要らない支援や設備ばかりが入って来て、本当に助けてほしい時やモノに関しては助けてもらえない......という嘆きのほうを私はよく耳にします。

写真上は、ラジャストゥリに行った学生組が道中の写真を撮ってくれたものです。

写真下はランガマティ県ロングドゥという地域で、昨年6月にベンガル人入植者(先住民ではない住人)と少数民族(先住民族)であるジュマ住人とのあいだで諍いが起き、結果ジュマ側の村が焼け落ち、避難民が出た......といった事件の場所です。当時私もFacebookなどでお伝えし、ご支援いただいたことがある村なのですが、覚えている方いらっしゃいますか......?

ロングドゥにはダッカ大生ではない友人(前回の記事で、一緒にロヒンギャキャンプを訪れたチャクマ民族の女の子※リンク)が行き、レポートしてくれました。ランガマティは、カプタイ湖を渡らねば行けない地域が多く、こうしてボートでブランケットは運ばれたそうです。

ロングドゥの今と望まない支援

Natsumizo

先述の、ランガマティ県ロングドゥでのベンガル人入植者と先住民族との諍いが原因で起きた火災、そして同時期に大雨による土砂災害が起きた時にご支援くださった日本の方々に、この機にもう一度感謝とご報告をしたいと思っていました。

ロングドゥへ12月に冬用毛布を届けに行ったチャクマ民族の友人のレポートによると、あの時家を焼失してしまった少数民族の人々は、現在2家族でひとつの家に暮らし、ここ2ヶ月間は月に30kgの米が政府から配給されているそうです。

一家屋で30kg。想像しづらいかもしれませんが、日本と比べて家族人数は多めで、また3食共お米を食べる文化であることを考えると、もう少し必要だろうに......と正直思います。賠償金はまだ約束のぶんを受け取れておらず、今も待ち続けているとのことでした。

前回ロヒンギャキャンプを訪れて(過去記事リンク)、私がそこまで飛び抜けて暮らしづらそうに感じなかったという意味合いで書いたのは、こういう状況を知っているからです。

ロヒンギャ問題は国際問題として広く知られていて、バングラデシュ政府もロヒンギャキャンプに関してジャーナリストの入境を拒否していません(むしろ広めてほしい姿勢)。そのため注目も支援も多く注がれますが、チッタゴン丘陵地帯に関しては、バングラデシュ政府は外国人に入域許可書を要することで遠ざけて、そのせいで伝えられない苦境がこうしてまだたくさんあるのです。

それでも諦めず、この場所の美しさも悲しさも、私は伝え続けたい。何かを通して繋がって・繋げていきたい、と思っています。

Ambassadorのプロフィール

Natsumizo

Natsumizo

1985年、宮城県女川町生まれ、青森県育ち。日本大学藝術学部映画学科在学時に、ドキュメンタリー制作のためバングラデシュを訪れる。卒業後、Documentary Japanに務める。2014年、学生時代作品への心残りや日本よりも居心地の良さを感じていたバングラデシュに暮らし始めることにし、作品テーマや自分の役目(仕事)を再び探すことに...その中で出会ったこの国の少数民族に魅力とシンパシーを感じて、彼らと共に生活していきたいと思う。ドキュメンタリー作品『One Village Rangapani』(国際平和映像祭2015 地球の歩き方賞および青年海外協力隊50周年賞受賞 http://youtu.be/BlxiN2zYmjE)、カメラ教室、クラウドファンディングや写真集『A window of Jumma』の制作などを行ってきたが、この地で映像作品制作を続け、この先は映画上映会(配給)や映画祭などの企画にも挑戦していきたいという夢を抱いている。

注目記事