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感情的被害は主観的な物で誰に決められるものでもない

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私の裁判においては、加害者はとっくの昔に裁判という『客観的な場』で有罪判決を下されている。

執行猶予5年、懲役2年ぐらいだったと思う。(年数に関してはうろ覚え)

「執行猶予期間中、加害者が事件ではなく事故を起こした場合でも、この実刑が下されます」と弁護士に説明された。とっとと自損事故を起こせ、誰にも迷惑をかけないタイプの事故を起こせと願っていた。過激だろうか。

そして世の中で「性犯罪加害者」とレッテルを貼られている人は客観的にその罪は許されない物だとして罰を受ける判断が下されている人だ。

これらについては決して主観ではない。主観に客観を加えた上での最終的判断だ。

そして私のブログは主観的だ。当たり前だ。私が書いているんだから。なぜ加害者側の気持ちを加味する必要があるのか。

そんなもん、加害者が何か言いたければ加害者が主観的なブログを書けばいい。

「被害者」と呼ばれている人、名乗っている人は間違いなく被害を受けている存在。だから「被害者」だ。

被害はいつも主観的だ。「いじめ」なのか、「いじり」なのか、主観で大きく分かたれる。受ける側がいじりと取ればそれはいじめにならず、いじめと取ればそれはいじりにならない。全ては主観だ。「嫌だ」「やめてほしい」それが被害という気持ちだ。

いじめだと訴えるべき人がいて、それを第三者が「これはいじりだからいじめなじゃないよ。我慢すべきだよ」と言われたら、我慢すべきなのだろうか?

もちろん、ここで「そうか。いじりなんだね。私、勘違いしていたよ」とでも言えば、とっても良い子に見えるんだろう。

いじめも、性犯罪も、ハラスメントも、そうした概念においてはみんな同じだ。これらの被害は感情的で主観的で目に見えない。

だから私は悪役に徹した。

人の話を聞かない自分勝手なうざいやつになった。

自分を殺して生きるぐらいなら良い子じゃなくて良かった。

そして私は客観的に法律の下、「あなたは被害を訴えてもおかしくない」と認められた。

とは言っても、もし、法律の下に被害が認められなかったとしても、私は加害者を許さなかっただろう。

それはなぜかって、自分の気持ちを決めるのは自分だから。

許せと言われたら許すのか? 怒れと言われたら怒るのか?

それだけ人に心を従わせることができたらさぞかしラクだろう。私は自分勝手だから、そんなことはできない。喜怒哀楽や肯定するものや否定するものを人に決められるのはまっぴらだ。

どんな犯罪被害に置いても、被害者本人の感覚で許す許さないを判断していい。

もしそれが客観的に見ておかしければ、被害者の訴えは裁判という客観的な目に晒された時に認められないだけだ。

「あなたは被害を受けているから訴えましょう!」と言われるまで被害を訴えてはいけない? そんなことがあってたまるか。

そんなことを言う人がいるからこの世には声を上げられない人がたくさんいるんだろう。と、思う。

私の担当弁護士が言った。「裁判は戦争です」

正義と正義がぶつかり合う。被害が確定している場合においても、相手はこちらを攻撃して、少しでも感情を揺さぶり傷を負わせ、加害者への同情を買おうとする。

「お前の被害なんてこの程度だろう! この被害妄想野郎!」というありったけの正義で攻撃される。

だから悪役に徹さなければいけなかった。

「お前が考えている以上にこっちは人生狂ってるんだよ! この鈍感馬鹿野郎!」と叫ばなければいけなかった。

裁判は、すごくしんどい。だから、おすすめはしない。

けれど、主観的に辛いと思った気持ちを客観に潰されないでほしい。

戦おうと思えるのなら、戦った方がいい。後の人生、心が健やかになるから。

たくさんのメールやコメントをもらった。

「客観に心を押し潰されて辛かった」と。

こんなにも行き場のない思いを抱えている人が世の中に溢れていたのかと思って、私は泣いた。私は励ますことしかできない。何もできないけれど。

こんな一人のブロガーの私に対してたくさんのコメントが飛んでくるぐらいだ。世の中にはもっと苦しんで悲しんで押し潰されて泣いて、死に助けを求める人がいるんだろうと思う。

この世の中の被害者でも加害者でもない人にお願いしたい。

どんな小さな被害でも、それを受けて苦しんでいる相手に「大したことないでしょ」「我慢しなよ」「客観的に考えてさ」とか、と言わないでほしい。

共感できれなければスルーしてほしい。

感情への被害は全てが主観だ。誰にも決められないし、量れない。

だから、スルーしてほしい。励まさなくていい。何もしなくていい。ただ黙っていてほしい。

「被害に対しての客観視を押し付ける」これもセカンドレイプのひとつだと私は考えている。

いただいたコメントには『加害者が受けるべき罰』について言及されたものが多かった。「去勢すべき」という意見が、一番だった。

今の私も、性犯罪者には去勢してほしい、ぐらいは思っている。過激だろうか。

けれど裁判をしていた頃、渦中の頃はもっと過激なことを考えていた。

去勢した上で、地雷除去が必要な地雷原を駆け抜けて地雷を除去するボランティアをして、もし終わっても生きていたら日本に帰ってきていいシステムにすればいいとか考えていた。そうすれば、人を1人不幸にした分、誰かを救える。再犯防止だけに留まらず、人を不幸に蹴落とした分、誰かを救ってほしかった。

それが無理なら、去勢した上で、一生をかけなければ支払えないぐらいの慰謝料を科して一生働き損ぐらいの人生を送ってほしいと思っていた。だから、最初に相手側の弁護士に示談を持ちかけられた時、そう伝えた。

私は一生、傷を背負って生きていくんだから、お前も何かを背負ってくれ。と願っていた。

けれど、今ではこんなことは考えていない。

こうした過激な罰が与えられないことなんて、痛いほどわかっているからだ。加害者の人権。加害者の人生。それらを守るために、過激な罰は与えてはいけないのだ。この世界では。

だから私は私を解放するたったひとつの手段として、加害者を許すことに尽力した。

今、私が私にできることはそれしかない。それしか私の心を解放する手段がない。

事件に遭って一番苦しいのは、その苦しみに心が延々と支配されることだ。

痛み、苦しみ、憎しみ、恨み。そうしたおどろおどろしいものが渦巻いて消えない。復讐するしかそこから解放される術がないという考えに取り憑かれる。気が狂いそうになる。

けれど過激な罰が許されないこの世界でもし復讐を果たせば、私はとうとう「加害者」になってしまう。加害者に関係している罪のない人を苦しめる羽目になってしまう。私が加害者になることで悲しむ人もいるだろう。

悔しいけれど、加害者にならずにそれらから解放されるためには、許すしか手段がない。今の世界は。

去勢されるようになればいいと思う。それが駄目ならせめて被害者の安楽死が認められたらいいと思う。

けれどそれらが認められない世界で生きているのだから、その中でできる精一杯をするしかない。私の心を事件の被害から解放するには、全てを許すしかない。

私はそう開き直った。開き直るまでに、かなりの時間を要したけれど。

加害者は、私の視界に入らないところでせいぜいそれなりに生きてください、と思うようになった。視界に入ってきたらどうなるかわからないけれど。

私は裁判後の環境に恵まれた。優しい夫、友人、家族。

裁判をしたら、友人は減った。私の被害を客観で諭そうとする人、説教する人、私のやっていることが理解できないという人、そういう人たちは私の前からいなくなった。

最初は悲しかった。

けれど、こうして切れる縁が切れたからこそ今の縁があり、私は幸せに生活できている。

うわべだけの付き合いは簡単だ。けれど、心の奥深くに触れなければならなくなった時、人付き合いは途端に難しくなる。

私はその奥深くに触れても私を認めてくれる友人たちに恵まれた。悪夢にうなされて夜中に起こしても怒らない優しい夫に巡り合えた。

そうした人たちと生きていくためにも、禍々しい感情を捨てる努力をした。そして成功した。私の心は今、健やかで穏やかだ。時折、フラッシュバックに襲われたり、体調によっては洋服の柄を見て気分が悪くなったりするけれど、折り合いをつけて生きていけるだけになった。だからこうして、文章を書くことができている。

そう思えず、苦しんでいる人はたくさんいるだろう。恨みつらみや復讐に心を支配されて、毎日苦しい思いをしている人がいるだろう。

性犯罪被害だけじゃない、いじめだって、ハラスメントだって、どんな事件や事故だって、被害を受けた心は簡単には癒えない。

そういう人の心が癒えやすいような世界ができれば、なんて夢想しながら今は生活をしている。

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