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必然かポリコレか?年末年始米”メリークリスマス騒動"と日"ブラックフェイス問題"について考えた

この問題で、感じるところのあった方は、ぜひ日本に共に住むアフリカ系住民の方の声に耳を傾けてください。

2018年01月12日 13時43分 JST | 更新 2018年01月12日 13時43分 JST
Grigory Dukor / Reuters

寒波の続いた年末年始の米東海岸。クリスマスツリーも軒並み片付けられ、Happy New Yearも寒波もひと段落して、やっと1月9日火曜日から平常運転。今週末は月曜日の祝日「キング牧師の日」(Martin Luther King Jr. Day)と合わせて3連休です。ちなみに、アメリカの祝日になっている人は初代大統領ジョージ・ワシントンと、クリストファー・コロンブスだけなのだそうです。

さて、年末からこの間を振り返ってみると、アメリカでは年末年始もトランプ大統領が相変わらず話題の中心。その一つが日本でもお馴染みの「メリークリスマス」に関する騒動です。Yahoo!ニュースでも「『メリークリスマス」忌避なぜ」という記事で、この騒動が紹介されていましたので、ご存知の方も多いかと思います。こちらの記事を引用し、まずは騒動の背景をご紹介します。

クリスマスのあいさつは「メリークリスマス」が当然と思われがちだが、米国人は昔ほど、この言葉を使わなくなってきている。例えば、年末商戦では、買い物客に対し「メリークリスマス」ではなく「ハッピーホリデー」と呼び掛ける店が増加。友人や知人、会社の同僚、取引先などと交わすクリスマスカードのあいさつ文からも「メリークリスマス」の文字は消えつつある。

 (中略)

 背景にあるのは、2001年の同時テロ以降に出てきた、文化や宗教の多様性を認め合おうという米社会の流れだ。本来、キリストの誕生を祝福する意味の「メリークリスマス」は、イスラム教徒や仏教徒、ユダヤ教徒などには使うべきではないとの世論が徐々に勢いを増すのに伴い、とりわけビジネスや公共の場では、宗教色のない無難な「ハッピーホリデー」が好まれるようになった。

(「メリークリスマス」忌避なぜ(猪瀬聖) - Y!ニュース より引用)

そんな中、トランプ大統領は選挙中から公約として「再びメリークリスマスと言えるようにする」と訴えており、実際に支持者の集まる集会でそれを実行してみせたということです。

さて、実際にワシントンD.C.近郊に住んでいると、「使わなくなって来ている」どころか「ほとんど使われていない」といった方が感覚に合っているほどメリークリスマスは聞かないし、見かけません。具体的には、私のみた範囲ではキリスト教会で宗教行事として使われている以外は、年配の白人の方で賑わうフランス料理店一店を除いて、学校やお店はもちろん、近所の方との挨拶やパーティー、果ては生活困窮者がドネーション(寄付)を求めるカードに到るまで、あらゆるところで"ハッピーホリデー"でした。

そんな中でも最も驚いたことの一つは、娘が幼稚園の「ホリデープログラム」に向けて練習している歌を歌ってくれた時でした。日本でもお馴染みの「ウィー・ウィッシュ・ユー・ア・メリークリスマス(We wish you a Merry Christmas)」を、なんと「ウィー・ウィッシュ・ユー・ア・ハッピーホリデー」と歌っているのです!日本なら「クリスマス会」となるところが「ホリデープログラム」であるだけでなく、会の最後にみんなで歌うこの歌の歌詞までハッピーホリデーになっていたのです。ワシントンD.C.にほど近い街にある娘の幼稚園は、世界各国にルーツを持つ多様な生徒が通っており、生徒の6割が英語を第一言語としない子どもたちだそうです。そうした中で、多様な子どもたちやその家族が共にこのシーズンを楽しむためには、学校としても必然的な配慮だろうと感じました。

実際に、このシーズンを過ごしてみて感じるのは「ハッピーホリデーという言葉って"便利"」ということです。こちらでは、近隣の人たちや商店の店員など、新年なら「ハッピー・ニューイヤー」、ハロウィンなら「ハッピー・ハロウィン」など、季節ごとの挨拶を交わし合います。そうした日常の中で、同じアパートに住む人たちや管理人などのスタッフ、近隣の商店の店員や、各国からきている隣人・友人たちなど一人ひとりがキリスト教なのか否か考えて適切な挨拶をすることは実質不可能です。D.C.の中心地にあるグローバル企業で働く友人は、あまりに多様な国から人が来ているため、いちいち出身国を聞かない、と言っていましたが、そうした環境下では「ハッピーホリデー」という挨拶は、極めて便利な言葉でしょう。隣人や同僚、友人とパーティーを開くときも同様で、どこに行っても「ホリデーパーティー」です。

またビジネスにとっては一大売り出し期間でありますから、キリスト教徒以外の人が多く住むこの地域で顧客にアピールするには、「メリークリスマス」より、当然「ハッピーホリデー」の方が間口が広くなります。挨拶をする店員にとっても、非常に便利でしょう。また、こちらでは、地下鉄の中や路上でよく生活困窮者がよく寄付を求めている姿を見かけるのですが、みなさん「私はシングルマザーです」と言ったような各人の事情を書いた文を、電車内なら小さなカード、路上ならみやすいプラカードにしています。12月にはみなさん「ハッピーホリデー」と添えてあるものを多く見かけました。これも、多様な人が住むこの地域ですから、キリスト教徒だけにアピールする言葉より、全ての人に伝わる挨拶の方が間口が広がって良いのでしょう。

このように多様な人種・民族・宗教等の人たちが住む都市部では、「ハッピーホリデー」は便利で、必然的な言葉だろうと思います。

一方で、アメリカ国内を旅してみると、地方の小さな街では、白人以外の人を全く見かけないような街も存在します(こんな街では、アジア系の私はなんだかちょっと居心地が悪いのです...)。こうした街は、都市部に比べて圧倒的に流動性が低いでしょうし、比較的等質な人たちが、長く住んでいて、お互いをよく知っているでしょう。また、地元に住み続ける人たちは変化を嫌い伝統的な生活を続けていきたいという志向性を持っている人が多いかもしれません。こうしたコミュニティに、突然外から「メリークリスマスは良くないから、多様性に配慮してハッピーホリデーと言いましょう」などというキャンペーンがやって来ても、住民にとっては、全く必然性のない話で、自分たちが続けて来た暮らしを否定されるような感覚を持つでしょう。そうなれば、まさに「正論」は「ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)」でしか無くなります。こうした人たちが「もう一度メリークリスマスと言えるようにする!」というトランプ大統領を支持するのは当然のことかもしれません。

今、「メリークリスマス」に限らず、アメリカ国内では、「これが正しい・正義だ」と主張する人たちと、ポリコレにはいい加減疲れたよ」という人たちが、こうした生活環境や志向性(そして、これらは「多様性」の一つとして、守られるべきもののはずです)の違いを無視して、空中戦のように、対立しているように感じています。

さて、そう考えると、この年末年始、日本で起こった「ブラックフェイス」論争も、同様に空中戦の様相を呈しているように見えます。

黒人(以下、主にアフリカ系と表記)の方々と共に暮らす中では、こうした問題はリアリティの高い話です。私が、娘のクラスメートであるアフリカ系の友だちやその家族に、いつも娘を可愛がってれる隣人に、ボランティア先で一緒に働くメンバーに、「日本のこのお笑いのネタ、面白いでしょう?日本人は黒人をリスペクトしてるのよ」なんて言えるか、と言ったら当然言えないわけです。「黒人差別」に当たるのかということを意識しアメリカに住む者として恥ずかしくない振る舞いをするということも重要な問題ですが、同時にジェシカやテイラーやリサやジョーやジョナサン...との個別の人間関係の問題であるからです。アフリカ系アメリカ人が差別されて来た歴史、そして今も差別や貧困に陥りやすい社会構造が根深く残っていることを少しでも知っていたら、ブラックフェイスの歴史がどうといった具体的なことを知らなくても、「それはやっちゃいけないことかもしれない」という想像ができるところです。(日本のいじめや差別でも、相手の真似をしてふざけたり、嫌がらせをする、というのはよくある形ですよね。)

先日、乙武洋匡さんがハフィントンポストで「『障害者』という個人は存在しない」というブログを書かれており、

そもそも「障害者とはどのように接したらいいのか」という発想自体が間違っていると思うんです。いまあなたの目の前にいる相手が何を望んでいて、どう接してほしいのか。それを探ってほしいんです。健常者が相手だと、みんなそれを自然にやっているじゃないですか。

(ハフィントンポストブログー乙武洋匡 「『障害者』という個人は存在しない」より

と仰っていましたが、同様に「『黒人』という個人は存在しない」のです。

そして、アメリカの「クリスマス騒動」で考えれば「『イスラム教徒』という個人」や「『ユダヤ教徒』という個人」や「『仏教徒』という個人」は存在しないのです。ただ、アメリカにおいても問題は「目の前」に異なる人種・民族・宗教の人が居ない、あるいは居ても関係性が形成されていない人たちが沢山いるということであり、こうした日々の生活環境の違い、その背景にある地域性や個々人の志向性、思想信条、そこに潜む差別意識など様々な問題をどう乗り越えて一つの国を形成していくのか、アメリカという国の分断は思った以上に深く、長い歴史を持ち、乗り越えるのが難しい局面にあると感じています。これをどう乗り越えていくのか、アメリカはその答えを模索しています。

日本はどうでしょうか?外国にルーツをもつ住民は増えつつあり、労働力不足の問題に伴ってもっと増えていくでしょう。オリンピックの際には、多くの訪日観光客がやってくるでしょう。そうした中で、私たちの意識や言動、ビジネスのあり方を転換していけるでしょうか?それとも、変化に対応できず、分断社会が訪れる(深刻化する)のでしょうか?人権かポリコレかと空中戦をしている間にも、現実は刻一刻と変化していきます。

日本では、まだまだアフリカ系住民と接する機会のない方も少なくないでしょうか、実際に今回の日本に住まれているアフリカ系アメリカ人Baye McNeilさんが声をあげてくれたことや、昨年11月の山本幸三衆院議員の「あんな黒いの」発言にアフリカ系日本人の若者が語ってくれた「あんな黒いのが好きなのか」山本衆院議員の発言にアフリカ系日本人のティーンズたちが、衝撃を受ける」(「ハフィントンポスト 2017年12月10日 NEWS)という記事等は大変貴重な発信だったと思います。この問題で、感じるところのあった方は、ぜひ日本に共に住むアフリカ系住民の方の声に耳を傾けてください。

そうそう。冒頭に来週の月曜日はキング牧師を記念した祝日だと書きましたが、ワシントンD.C.には、キング牧師の記念碑があります。実際に行ってみると、記念碑は、東京都がアメリカに日米友好の証として送った桜の並木の中にありました(National Cherry Bolossom Festivalのマップでも確認できます)。きっと桜の頃には、桜並木の向こうのキング牧師の記念碑はとても美しいでしょう。今から楽しみにですが、全米から集まる桜祭りのその頃に「黒いの発言」「ブラックフェイス問題」に続く、黒人差別問題が日本で起こってアメリカでまた報道される、なんて事態になりませんように...。

※この記事は、筆者のブログ「鈴木晶子の若者困窮者支援日記」'必然かポリコレか?年末年始米"メリークリスマス騒動"と日"ブラックフェース問題"について考えた"を改変したものです。