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美術館はだれのための場所?

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WHOSE PLACE
仲俣暁生
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7月26日の日曜日は上京しているアーティストの友人二人と下北沢で会う約束をしていたのだが、東京都現代美術館でやっている展覧会「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展で会田誠の一部の作品が撤去されてしまうかもしれないと知り、だったらその前に觀ておきたいと思い三人で清澄白河まで足を伸ばした。

動機はあくまでも「撤去される前に実物をみておきたい」ということ、それ以上でも以下でもなかった。ただ、ネット上では「檄文」の画像や文面しか伝わってこず、もう一つの「安倍首相に扮したらしい映像」がどのようなものか、まったく想像がつかなかった。なので、自分としてはそれを観たいという気持ちが大きかった(「檄文」への評価はネットだけでもおおよそできたし、実物をみても変わらなかった)。

さて、実際に東京都現代美術館に行ってみると、親子連れのお客さんがかなりいるものの、恐れていたほど混み合ってはいなかった。常設展のほかに三つの展覧会が行われており、そのうち一つが会田誠も出展した「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展、ほかに子どもを対象とした「きかんしゃトーマスと なかまたち」展、そしてブラジルの建築家「オスカー・ニーマイヤー」展もやっていた。二つ以上見ると割引になったので、我々は「オスカー・ニーマイヤー」 展と併せて観た。


まず全体的な感想を述べると、「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展は、期待以上にいい展覧会だった。出展者は、ヨーガン・レール、「はじまるよ、びじゅつかん」(おかざき乾じろ 策)、会田家(会田誠、岡田裕子、会田寅次郎)、アルフレド&イザベル・アキリザン。このうち「はじまるよ、びじゅつかん」は子ども限定の展示だったので見られず、他の三者の展示をじっくり観た。

お客さんがいちばん集まっていたのは「会田家」の展示スペースで、空間配置的にも、ほぼメイン会場という扱いだった。展示作品数はかなり多く、会場をみっしりと埋めていた。「檄文」はその中央にダラっと垂れ下がったシンボリックな作品とはいえようが、まじめに読んでいる人はほとんどいなかった。たぶんお客さんの大半が、この作品をめぐる騒動を知らずに来ていたと思われる。小さな子どもを連れた親子連れがここでも目立ったが、とくに困惑している人はいなかったように見えた。

多くの人が立ち止まってずっと見ていたのが、会田誠(「会田家」のお父さん)が「総理大臣」として「国連で英語の演説をしている」つもりでしゃべっている、という問題の映像作品。じつは事前にはそれほど期待していなかったのだが、会田誠の演技はなかなかよい。壁いっぱいに大きく映像が投影されており、しかもそこで「会田誠=お父さん」が読んでいる、カタカナでよみがなが振られ、息継ぎのタイミングなどがマーキングされた原稿までが、映像の下に全文展示されるという凝ったつくりで、とても面白かった。

さて、問題とされた演説の内容はたわいないもので、政権批判などは一切ない。「お父さん」が演説で主張しているのは「グローバリゼーション」批判である。会田誠扮する「お父さん」は安倍首相に似ているといえば似ているが、あくまでも「お父さん」が拙い英語で国際舞台でしゃべっている、という設定だ。演説で 「お父さん」は、一種の「鎖国」政策を訴え、チョコレートを食べたくても我慢しろとか、インターネットを遮断しろといったむちゃくちゃをいうのだが(これは「檄文」という作品での設定と合わせてある)、最後まで観たらきちんとオチがあった。

「檄文」と映像作品の二つはたしかに会場で目を引く場所に展示されたメイン作品だが、これ以外にも複数の映像作品、会田誠自身が会場でワークショップを行ったオリジナルの「かるた」の制作風景展示、会田が顧問をつとめるオルタナティブ人形劇団「劇団死期」の展示など、そこそこ悪趣味とはいえ、子どもにも楽しめそうな作品が数多く展示されていた。映像作品はトラブルでなんども止まっていたが、そこで子どもたちが楽しそうに踊ったりする風景もあり、全体的に、なごやかで楽しい展示になっていた。


さて、この展覧会全体を見て思ったのは、まずもって「おとなもこどもも考える ここは誰の場所?」展は、海外招聘の2人と、こども限定の岡崎作品にくらべても、格段に会田誠の扱いが大きかったということだ。ある意味、「会田誠(会田家)展」といってもいいと思う。それだけ、作家側が展示に力を入れていたようにみえた。

海外招聘の二人の作品は「現代美術」としてみた場合、小奇麗ではあるがいささか弱く、「おとな」と「こども」がともに「現代美術」の展覧会を体験するということが企画の趣旨だとすれば、岡崎の展示はこども限定なので、やはり会田誠の起用が展覧会のコンセプトの中心にあったとみなすべきだろう。そしてそこまでは、チーフキュレーターである長谷川祐子も了解していたはずだ。

展示を実際に観ても、現代美術館側が問題とされている作品の「撤去」なり「改変」を求める理由が、作品の内容からは、私にはどうしても理解できなかった。なぜならこれは「子どもだけを対象にした展覧会」ではなく、「おとなも」「こどもも」考える展覧会であり、さらにいえば「ここはだれの場所?」ということを「考える」展覧会だからだ。むしろ会田誠は、「考える」ための契機を、本気で提供しようとしたのだと思う。

会田誠が展覧会のテーマに添ってきわめて誠実に作品を制作し、あるいは選択したことは、展示を実際にみてみればわかる。ことさらに露悪的だとは感じられず (多少は露悪的な部分はあるが、会田誠はそういう作家なのだから仕方ない)、むしろコンセプチュアルなだけで面白みが欠ける嫌いのある「現代美術」作品というものを、インスタレーションを工夫することによって、(たとえ中身がよく理解できなくても)目に留めたくなる展示にしていたのは見事だと思った。


では、問題とされている二つの作品は、会場ではどのように見えただろう。

「檄文」のほうは、檄文という言葉の意味も形式もわからない大半の人(大人も子どもも)にとって、パッと見た感じ、「下手な子どもの習字みたいな字で、なにか文句がくどくどと長く書いてある」、という印象ではなかったか。そして、実際その受け止め方でいいのだと思う。あれをわざわざ全部読む人はいない(いてもいいが)。「檄文」「文部科学省に物申す」という大きな文字も、壁に投影された映像ほどのインパクトはなく、「汚い字だなぁ」「子どもの字みたいだなあ」と、とくに子どもなら思ったはずだ。「これがアートなの?」と。

また映像のほうも、「子ども」が見れば「総理大臣の真似をしているへんな人」以外の何ものでもなかっただろう。政権批判や風刺以前に、下手な発音で、どもりながら手元のペーパーを読み上げる「お父さん」(そういう設定だと説明がされてある)は、ただの「へんな人」に見えたはずだ。けっこう面白いことを会田誠はやっているにもかかわらず、大人からも、ほとんど笑いがとれていなかったのは残念だったが。

こうしてみると、会田誠が二つの作品に込めたと思われるユーモアは、少なくとも「大人」の客にはうまく伝わらなかったようだ(「子ども」にとってどうだったかは、大人の私にはわからない)。

でも「会田家」の展示スペースは「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展でいちばんにぎわっていたし、多くの人が長い時間、ここにとどまっていた。展覧会というより、お祭り広場みたいな感じだったからだ。作品の意図がどこにあったか、それが理解されたかどうかは別として、そこはまぎれもなく 「オーディエンスのための場所」だった。

美術館はだれのための場所か。それはもちろん、オーディエンスのための場所である。一人のクレーマーのための場所ではない。


10月12日まで続く会期の最後まで、問題とされた二つを含めたすべての作品の展示が続くといいなと私は思う。途中で作品の入れ替えや、展示方法の 変更を行なう場合は、なんとしてでも作家と美術館側が合意した上で行い、またこの展示をすでに観た「おとな」と「こども」が、撤去の理由についてきちんと「考え」られるよう、経緯とプロセスを公開し、それ自体も会期中に展示すべきだと思う。

たった一人(と報道されている)からのクレームを口実とした東京都の介入により、「展示作品の撤去」という最悪の事態となってしまえば、「ここはだれの場所?」というせっかくのとてもよい問いかけが、ただのブラックジョークで終わってしまうのだから。

(2015年7月26日「【空游記】 | Swayin' in the Air」より転載)

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