ネパールにおける医学教育システムの概要

医学部卒業生を如何に国内に留めるかは、ネパール政府にとって非常に深刻な課題になっています。

2016年7月、2度目の日本への短期留学の機会に質問頂いた、私の母国ネパールにおける医学教育システムについて日本の皆様に向けて解説します。

ネパールでの医学教育の歴史はまだとても浅いものです。正規の医学教育が始められたのは、たった38年前に過ぎません。看護や初歩的な保健の教育コースを提供する機関は1971年まで非常に限られており、医学の勉強は外国に行く位しかほとんど選択肢がありませんでした。

1972年になって医学研究所が設立され、医療補助の資格のための基本的な保健の教育コースが実施されるようになりました。そして1978年になってトリブバン大学傘下の医学研究所となり、漸く最初のMBBS教育プログラム(内科学外科学学士) が開始されました。

それ以後、医学教育が受けられるのは医学研究所が唯一の組織でしたが、1994年になって更に2つの医科大学が設立されました。その後は雨後の筍の如く次々と医科単科大学が出来、現在ではMBBSと歯科の教育コースが21の大学で受けられるようになっています。しかし、総合大学としてはまだ2つしかなく、トリブバン大学医学研究所及び、医科単科大学と連携しているカトマンズ大学が、ネパールを代表する医学教育機関となっています。

毎年、大学での医学部入学試験が開催されますが、医学教育を受けたいと希望する学生は10+2年の理科水準教育(高等学校教育)まで終了し、受験資格には少なくとも物理、化学、生物で50%以上の得点を満たすことが必要とされています。この入学試験は、マルティプル・チョイス方式のテストの中でも最も難関なものの一つであり、基本的に物理、化学、生物の問題で構成されています。

3つの国立医科大学では、入学試験で推薦枠の資格が得られた場合は奨学金支給があります。その他の私立医科大学でも、10%の学生には奨学金枠が設けられています。ただし、推薦枠に入る競争は非常に厳しく、例えば医学研究所では60人の枠に毎年1万5千から2万人の受験生の応募があります。

私立医学部の場合でも、大学入学試験で最低でも50%の得点がなければ入学資格は得られません。まさしく試験得点ランキングが高い学生から奨学金を獲得して行きますが、医学教育をどうしても受けたい学生は私立医学部への入学を目指します。

しかし、私立医学部の学費はとんでもなく高額化しており、全コース修了には4〜5百万ネパールルピー(注:1ネパールルピーは約0.97円、ネパールの平均年収は3万6千円程度とも)もかかります。入学試験で資格が得られなかった学生は、国外に向かう場合が多く、中国が主要な行き先になっています。その他には、バングラデシュ、パキスタン、フィリピン、インド、キルギスタン、ウクライナなどが選択されています。

MBBSプログラムの医学教育期間には5年半から6年がかかります。ネパールでのレジデント初期研修は3年、さらに専門医として3年の期間が充てられます。教育学習活動は英語のみで行われ、学習教材も標準的な英語の教科書が使用されます。

2012年のネパール財務省報告によれば、現在1万2千人の医師、及び2万人近くの看護師が活動しており、毎年、国内外合わせて2千5百人の医師が新たに養成されています。それにもかかわらず、人口当たり医師数はまだまだ少なく、おそらくアジアで最小の人数だと思われます。

現在、人口千人あたりの医師数は0.17人となっており、世界保健機関(WHO)の推奨する人口千人あたり2.3人より遥かに少ない医師しかいません。看護師数も少なく、人口千人あたり0.5人しかいません。医師看護師の労働時間は8時間とされていますが、レジデントの場合は驚く程の長時間労働が当たり前になっています。

ネパールの医学教育水準は、ネパール医学委員会という組織により担保されています。イギリスやインドの医学委員会を模範とし、1964年にネパール政府(当時はネパール王国)により設立されました。委員会は、医学教育水準を担保するだけでなく、医師登録や医師国家資格試験実施の役割も担っています。

医師国家資格試験は年2回実施されており、2千から2千5百人の受験生が参加します。資格試験合格のためには、マルティプル・チョイス方式の試験問題で最低50%は得点する必要があります。合格率は60%程ですが、国外で学んだ学生の多くは不合格となっているようです。

多くの国と同様に、ネパールの保健システム上の主要課題は、医師や看護師が地方での地域医療実施に積極的でないことです。賃金が低く、仕事上のチャンスにも恵まれにくく、地理的なハードルや不十分な設備といったことが原因となっています。その結果、ほとんどの医師が大都市に集中しており、首都カトマンズが最も人気のある就職先になっています。政府やWHOは公平な医療サービスを提唱していますが、残念ながら地方の住民は良質な医療機関に受診することが困難です。

さらに、近年のネパールの医療システムに大きなダメージを与えている主要な問題は、医療における頭脳流出です。多くの医学部卒業生が、よりよいキャリアを求めて海外へと出て行くため、ネパールの医療システムが危機にさらされているのです。2012年のツィンマーマンらの調査報告によれば、医学部卒業生の半数以上が国外移住をしているというデータもあります。主要な移住先はアメリカ合衆国で、その他、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどが挙げられます。

医学部卒業生を如何に国内に留めるかは、ネパール政府にとって非常に深刻な課題になっています。この国外脱出(エクソダス)を防ぐことは出来ないにしても、もし政府が時宜に適った政策を打ち出せば最小限に留めることは出来るでしょうし、さも無ければネパールの医療システムは大変な脅威に晒されることになります。

さらに、医療人材の確保に留まらず、大都市や中小都市、その近郊や地方に、医療人材を公平に分配し一極集中を避けることは、医療システムを機能させ保持して行くために重要なことだと考えています。

最後になりますが、日本の医師や医学生の皆さんには世界から多くの期待が寄せられています。欧米の先端医療だけでなく、国内外で医療資源が不足している地域にも目を向け、訪問したり働いたりする経験を積んで頂ければと思います。機会があれば、是非ネパールにも来て下さい。

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