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原発事故被災地支援の倫理について

2015年04月13日 15時57分 JST
Ken Ishii via Getty Images
FUKUSHIMA, JAPAN - MARCH 09: A view of the entrance to the ban area within 10km the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant on March 9, 2015 in Tomioka town, Fukushima prefecture, Japan. On March 11 Japan commemorates the fourth anniversary of the magnitude 9.0 earthquake and tsunami that claimed more than 18,000 lives, and subsequent nuclear disaster at the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant. (Photo by Ken Ishii/Getty Images)

福島県には、福島のことを「フクシマ」とか、"Fukushima"などと表記されることを嫌う人が少なくない。地域の問題が世界的な課題となっていること、それが見知らぬ場所で見知らぬ他者たちの議論の題材となっていることを、受け入れ難く感じている。

福島の問題の難しさの一つは、原発問題に関心を寄せるような「意識の高い人たち」と、地元で生活している住民の多くの価値観や感覚とが、大きく異なっていることに由来している。この二つは、まるっきり正反対のように見えるときすらある。

「意識の高い人たち」が抱いている空想と、その人々が福島に関わる時に(無意識的に)抱いている願望は、次のようなものだろう。私は平成24年に東京から福島県南相馬市に引っ越したが、これから書く内容は、その時に抱いていた空想の内容でもあることを、あらかじめ告白しておく。しかし私の考えは、その後に現地で3年暮らす間に、ずいぶんと変わったと思う。

「原子力ムラをめぐる空想」と仮に名付けよう。政府、電力会社、国際機関、大手マスコミ、大学などの学術機関と権威ある立場の学者や医者、大手企業、その協力企業などが作り上げている「仲間たち」が、ズルズルベッタリと結びつきながら、表面ではキレイなことを言いながらも、裏ではあらゆる策謀を張り巡らし、嘘と秘密で固めた上で、国土や国民を汚し、その富を奪い、危険にさらしている、そういう空想である。

そして「意識の高い人たち」が、福島の問題にかかわる時にさらに無意識的に連想しているのが、そのような嘘と秘密に乗せられていた住民たちが、真実に目覚めて「原子力ムラ」の人々に対して正当な抗議と闘争を開始し、やがて勝利をおさめるというストーリーであろう。

外部から原発事故被災地に関わろうとする支援者の一部には、この「偉大な闘争」において重要なポジションを占めることを無意識的に願っている人々がいる。そこにある微妙な傲慢さ(ナルシシズムの問題)が、現地の人々の心には負担となる。

ここで考えを進めるためには、「原子力ムラをめぐる空想」が真実であるか否かを判定しなければならない。しかし、この判断は容易ではない。

私個人の考えを述べるならば、ここで空想されている内容は潜在的にいつでも現実になりうるものだと思う。そして、2011年の原発事故によって実際にそれは一部現実化してしまった。しかし、「原子力ムラ」と名指して諸悪の根源のようにこれを切り捨て、一方的に断罪してこれを攻撃するだけの姿勢は、この問題の解決にはつながらず、かえってそれを複雑化して解決をより困難にしてしまう。

適切な監視と干渉は必要である。部分的には対立や闘争も必要となるだろう。しかし、それを含みつつも、多くの人々が、原子力ムラの外部として、潜在的な原子力ムラの内部の人々と社会的な関係を続けていくことが、原子力ムラを原子力ムラとして堕落させずに、それを社会的な責任を果たしうる原子力産業として成り立たせるための、必須の条件であるように思える。

現実に、事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所の廃炉の作業をやり遂げねばならないという問題がある。これは、「原子力ムラ」の人々の力が無ければ、決してやり遂げることのできない事業である。

そして、その原発に近い所に暮らしていると、現場で働いてくださっている人々へは、素直に尊敬と感謝の思いが湧いてくる(東京電力という企業の社会的な責任を考える時に、現地で苦労している人々と、上層部の責任のある管理的な立場にある人々を分けて考える必要がある)。

東京電力が、地域の経済を長年支えてきたのは紛れもない事実である。何十年にもわたって、その存在が地域に恩恵を与えてきた。そのことを心から感謝し、たとえ原子力発電所事故後に生活の基盤が奪われようとも、恩を受けた企業に仇をなすようなことをしたくはないと考える人々も、間違いなく存在している。

「意識の高い人」として現地に入った私は、そのような事情に大変困惑した。「恩を受けたことに感謝して、自分の分をわきまえて大きなことには関わらないようにし、不平や不満を言って他人を攻撃しない」のは、一見すると道徳的であるが、社会的な責任を負うことを実は回避しているのではないだろうか。地域の将来、つまり原発という産業にはもはや頼れず、農業や漁業も大きな打撃を受け、高齢化や医療や教育の立ち遅れという課題が山積している状況では、道徳的ではあるが受身的な姿勢を脱却し、批判精神を含んだ能動的な姿勢を身につける必要に迫られているのではないだろうか、そのような疑問を感じてしまった。

ある時期、地元の人々とどのようにかかわってよいのか分からなくなった。

今は、震災後でたくさんの復興関連の予算が投入され、人的にも多くの応援に恵まれている。だからこそ、将来を見据えて地域を構築していく戦略的な行動が必要なはずである。しかし、地元の人々の一部は、目の前の利益や名声に惑わされているのではないだろうか、そんな風に感じてしまった。

賠償金の存在が、さらに物事を難しくしているように見えることがある。

その額に差がありすぎることが、地域の分断を招いている。震災によって生活の基盤が失われて混乱している時に、急激にそれまで手にしたこともないような高額の現金を手にすれば、それを適切に管理できない人が出てくるのも必然である。「お金によっておかしくなってしまう」人もいるだろうし、「お金があるために変な人に狙われてしまう」ことも起こり得るだろう。

持ちなれない現金を持った人が派手な振る舞いをするのを見れば、それに周囲が反感を持つことも避けがたい。

私のそのような「意識の高さ」が、時には地元の人々をとても不愉快にさせ、イラつかせていることも感じ取れた。そして私は、ついに悟った。今の日本に暮らす人の中で少なくない人々が、特に年配者の多くは、「原子力ムラ」として戯画的に描かれるものの現実を決して見ようとしないし、その帰結について反省することも責任を取ろうとすることもなく、その中にどっぷりと浸かりながら、それを批判する者には手厳しい報復を与える反応を死ぬまで続けるということを。

そして、私はそれを受け入れなければならない。その現実の中に生きていくのが、今の時代に生きる日本人として適切なことであると思った。

そうであるとするならば、そのような人々とどのような社会的な関係を構築して生きていくのかを考えねばならない。

そして、そのためには自分の「意識の高さ」の中にある傲慢さ(ナルシシズム)の問題に、直面しなければならない。

「原子力ムラ」と戯画的に描いたもの、受身的に体制の中にどっぷりと無批判につかり、その枠の中でより良い地位を得たいと望むような心は、どこかの他人の中にだけあるのではなく、自分の中にこそある。その受け入れたくない現実を、他人に投影しているだけなのかもしれないのだ。少なくとも、今の日本に暮らして物質的に豊かな生活を享受しているものは皆、「原子力ムラ」の恩恵を受けてそれを支えている一部ではないだろうか(敢えて言うのならば、私たちは皆、被害者であるのと同時に加害者でもある)。

「意識の高い私」は、傲慢にも自分が主体的で能動的であり、将来を考えていると高ぶり、「原子力ムラ」に社会的・経済的に飲み込まれている人々を受動的で現在にのみ拘束されていると見下すかもしれない。しかし、見方を変えれば逆である。

「福島の問題」は第一義的には福島の現地に暮らす人々の問題である。たとえ外から見て依存的に見えても、地元の人々が必死に何十年と生きていた中で、主体的に作り上げてきた生活である。それを他人が簡単に批判することや、貶めることはできない。

逆に、支援者や評論家とは何だろうか。私を含めてそのような人々は、自分の人生に主体的にかかわるのを避けて、福島の問題に自分の問題を託して扱おうとしているのではないだろうか。少なくとも、私は自分が日本社会とのかかわり方が分からなくなっていたことを、「南相馬市を支援する」と称して、何とか解決しようとしていた。これはしかし、「他人の褌で相撲を取る」依存性、もっと言えば剽窃ではないだろうか。

以上を踏まえて、私は原発事故被災地における支援者の倫理は、次のようなものであると考えるようになった。

地元に密着しすぎて飲み込まれるのでもなく、批判的に攻撃するのでもない。

他の誰でもない、公共の高い理念でもない、自分が自分としてちゃんとするように努力を続けること、その上で現地に留まり、適切な社会的な関係を周囲と構築していくこと。

つまりナルシシズムを克服して自我を適切に確立することを、不断に求めていく姿勢こそが倫理的なのである。