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スケープゴート現象と日本的ナルシシズム

2014年04月16日 01時03分 JST

 筆者は、現代の日本社会において求められている精神的な課題を、「ナルシシズムの克服と自我の確立」であると主張した。(「日本的ナルシシズムの克服と自我の確立」)

 ところで、これは道徳的な主張であるとか、西欧の価値観をそのまま日本の伝統の上に押し付ける主張であるかのように受け取られるおそれがある。今回の小論は、そう思われないための弁明である。「考えることの能力」という観点から、この課題がどのようなものであるのかを説明し、その内容が私たちの生活と将来に貢献できることを示したいと思う。

 私たちは、人生のさまざまな場面において決断し、選択をなさねばならない。その過程においては、さまざまな葛藤に苦しむことがある。その葛藤を自らのこころの中に抱えることは苦しみをもたらすが、これは人間が人間らしくあるために必要な出来事である。

 しかし、効率優先の現代社会では、「葛藤を抱えて苦しむ」ことにも、あるいは「苦しみの末に自らの決断に至る」ということにも、きわめて小さな価値しか与えられていない。それでも、そのような決断を積み重ねることで、「自我」というものが確立されていく。

 自分のこころの中に葛藤や感情を「抱える」ことができない時に、人はとても苦しむが、誰かが寄り添ってくれて、その人に自分の葛藤や感情を預けることができると、こころは楽になる。「愚痴を聞いてもらう」と救われるのは、そういうことである。抱えきれない思いがあふれ出る時に、社会的に問題のある言動が生じる危険性が高い。

 心理療法の学派の中には、「抱えるcontain」ことの価値を強調するものがある。自分一人ではこころの中のものを抱えきれない時に、誰かが寄り添ってこころの空間を貸し与えることを、心理療法の本質と考えている。精神的な危機においてそのように助けられることで、私たちは耐えがたいと思った記憶や感情・葛藤といったものを、こころの中に抱え続けることができるようになる。

 このように自我の成熟には時間や他者からの助けが必要であるが、現代はそのような癒しや成長をもたらす時間と人間関係に恵まれる機会が減っているかもしれない。性急な「自己決断」を求められてしまう。そのような「決断」への責任を問われた時に人は、無理をしてナルシシスティックに自分のこころを膨らまさざるをえないのかもしれない。決断する力がないのに、決断できる者であるかのように振る舞うことを強制されるのだから。

 ナルシシズムの病に苦しむ時に、人は欲求不満を感じる状況で、他人とのつながりを自ら断ち切ってしまうことがある。それは、自らの弱さを認めることや、他者が優れていることを認めて依存することへの抵抗に由来するのかもしれない。とにかく、精神的に重篤な問題を抱えている場合に、「人とのつながり」そのものに、強烈な敵意を向けていることもある。ナルシシスティックなこころが他人を求めるのは、他人を自分の優秀さを映す鏡として利用するためであることも多い。

 このような場合に、自ら他者とのつながりを断ち切った経験は、ナルシシスティックな主体にはどのように体験されるだろうか。そのことを詳細に論じたのが、次の小論であった。

 「コフートの自己心理学とビオンの『考えることの理論』」

 簡単にまとめると、抱えきれないこころの中のもろもろは、他者のこころの中に投げ入れられて、まるで自分のものでなかったかのようになる。そして、相手の欠点を道徳的に断罪することで、自分の意識を不安から遠ざけるようになる。

 日常的な言葉を使うのならば、「開き直り」「逆ギレ」という現象が近いであろう。

 これは、精神的には重度の依存である。実際に何らかの意味で精神的に依存している対象に、それにふさわしい感謝や礼儀を示さず、まったく無価値なものとして無視したり攻撃をしたりしているのである。感謝の気持ちなく他人に面倒なことを押し付ける時に働いている無意識的な感情としては、羨望を指摘できることも多い。

 このような出来事が起きている時は、人間関係における危機である。そして、昨今の社会においては、このような出来事が頻発し、人々が人とかかわることに対して否定的な感情を持ちやすい傾向が生じているのではないだろうか。

 これは、かつて善悪の判定基準であった社会的な権威がその価値を低下させているのにもかかわらず、客観的な法やルール・論理もまた社会の具体的な場面で善悪の基準として機能していない、文化的な混乱状況を私たちが生きているからであると考えている。

 さて、もし日本社会という集団全体のこころが、何らかの不安を感じて危機にあるにもかかわらず、その不安に正面から向かい合えていないとするならば、どのようなことが起こるだろうか。私は、「スケープゴートを作ってそれを攻撃する」という出来事が起こりやすくなると考える。

 将来に向けての不安や欲求不満を抱えることができない集団は、自分の弱さや悪さをスケープゴートに投影し、それを攻撃することで、自分はその弱さや悪さを克服できているかのような錯覚を抱くことができる。少なくとも、課題に直面することを先送りにすることはできる。

 もとから、日本社会では各人に「分相応に身を慎む」ことを求める道徳が優勢である。「目立っている人」が批判や攻撃に値することを説明する理由を、道徳的に説明する材料は、簡単に見つけることができる。そこには、「自分を殺して」頑張っている人々の、目立っている人への羨望も働いているだろう。

 その結果、目立った人には集団からの過度の重荷が背負わされることになる。その次に起きることは、人材がつぎつぎと使い潰される事態である。そして、その様子を知っている普通の人は、集団と本格的にかかわることを避けるようになる。集団の葛藤や不安については避け続けることが賢明だと理解しているからだ。

 残念ながら、日本社会の精神力動についての、このような集団と個人との不幸な関係性は、この数年加速度的に悪化していると思う。その結果、ますます社会全体と個人の「考える力」は弱まり、同一化することにナルシシスティックな満足を感じるようになり、取り組まねばならない課題は先送りされ続けることになる。私たちは皆、そのことの共犯者かもしれない。そこから生じる不安は、次のスケープゴートを屠ることで贖(あがな)われる。

 以上が、私が現代日本社会について感じている不安である。

 それを踏まえて主張したのが、「日本的ナルシシズムの克服と自我の確立」という課題に、各人が取り組むことの重要性であった。