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樋口朝霞 Headshot

高野病院を支えると決心した看護職員の思い

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私は都内で勤務する看護師だ。年末に唯一の常勤医であった院長が亡くなり、存続が危ぶまれている「高野病院を支援する会」のメンバーでもある。先日、高野病院を訪問し、50代女性の看護職員に話を聞くことができた。

震災で高野病院に看護師が不足しているという報道をきっかけに20年勤めた製造業を退職し、准看護師を志した。自宅のあるいわき市の准看護学校に通いながら、週末は高野病院でアルバイトをした。高野英男院長の計らいで奨学金を受けた。そして、准看護師となった。

勤務を始めて3ヶ月、夜勤がはじまった。夜勤では一人で28人の患者をみなければならない。責任の重大さに驚いた。「初めは嫌で仕方なく、毎日泣いてました。看護業務がこんなに大変だなんて知りませんでした。看護の仕事をなめていたのかもしれません。」という。

看護師は子供の頃に憧れた仕事だった。震災の報道をみて「医療職が足りていない、特に原発の近くは若い人は行かないから、私みたいな歳をとった人が行かないで誰が行く」と思ったそうだ。

子供が結婚して、子育てがひと段落した矢先の震災だったので、夫婦でやりたいことをやろうと決めたらしい。夫も長年勤めた仕事を退職し別な仕事を始めた。そのため家族は反対しなかった。

今は夫と姑と3人暮らし。高野病院への通勤は車で片道1時間半かかる。日勤は朝6時過ぎには家を出てこなくてはならず、月に4、5回の夜勤もこなしている。「50歳を超えての体力のいる仕事には辛く思うときもあるが、何とか3年続けてこられた」という。それには「高野院長の存在が大きかった」そうだ。

患者さんのことで電話すれば24時間いつだって病棟にきてくれる。「本当に365日休みなしで、高齢の体に鞭打って、本当に尊敬してやみません。彼の方はまさに超人と思います」という。高野院長との思い出を聞くと、「院長はとにかく声が小さくてね、院長の顔に屈んで耳を近づけていつも指示を聞いていました。」と懐かしそうに笑みを浮かべて話した。

「患者さんは毎週の院長の回診をとても楽しみにしていました。とにかく患者さん思いの先生で、ナースステーションで患者さんのことで議論しているとベッドサイドに行きなさい。」と、いつも叱られたそうだ。

認知症で転倒を繰り返す患者には、ときに体をベッドから動けないようにする抑制が必要になる時がある。認知症に限らず不穏で点滴のルートや尿道カテーテルを自己抜去してしまう可能性が高い人には、本人または家族同意の上で抑制をしている。

そうでなければ、誰かがが付きっ切りで見守るしかない。抑制には床ずれを作る、不穏を増強するなどのリスクもある。しかし、スタッフの人数が限られる体制ではときに患者の拒否が強くても抑制することもある。

高野院長は抑制を、なかなかよしとしなかったという。院長に抑制の許可をとるのに苦労したそうだ。この過程で、「本当に必要な抑制かを検討したことが、結果的にいい看護に繋がった」と話している。ところが、今やその議論する院長はいない。「張り合いがない」と冗談げに話す。

高野病院では、高野院長はエースで四番のような存在だった。「院長が亡くなってしまい、この病院はどうなるんだろう」と不安に思うことも多いという。震災から6年が経ち、家族の勧めで自宅に近い病院に再就職を考えたこともあったそうだ。しかし、年末に院長が亡くなり、「こんな状況でやめられない。患者さんも同僚も置いて行くなってできない」と考え、高野病院に残って院長の代わりに患者さんを守ると決心したという。

「万が一、この病院が存続できなくなったらどうするか」と聞くと、「(患者さんには)よく看てもらえる所に行って欲しい」と答えた。そう話す彼女の姿は、家族のことを言っているようにも見えた。少ない人数で患者をケアしているので一人一人に完璧にはできない。「ちゃちゃっとやるしかない日もあり日々反省なんです」という。

私も看護師だ。日々の勤務に追われているとケアの質の上限を勝手に決めてしまっていることが多い。「ここでできるはこの程度まで」と。ある意味必要な考え方だが、彼女はそれに毎日納得できずに次はもっと良くしようと考えている。私は、その姿勢にとても感動した。

高野病院には、2−3月に常勤を勤める医師が来てくれたが、4月の以降の医師にようやく目処が立ちつつある。そうは言っても多くのスタッフが将来の不安を抱えながら、日常業務を行っている。医師の事ばかりが取りざたされているが、このように他の職員もそれぞれに強い思いを抱いてこの病院を支えていることを知ってほしい。