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相模原事件から5カ月 二度と悲劇を繰り返さないためにどのような社会の仕組みをつくるべきか? ~各自治体が掲げる「共生社会の実現」に求めたい視点

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生きてるのって おもしろい

知らないことが いっぱいだ

これは、谷川俊太郎さんが作詞した東村山市立秋津東小学校の校歌の冒頭の歌詞です。

今年の7月26日に相模原市の津久井やまゆり園で19人死亡、27人が負傷した事件から5カ月、この容疑者は「知る」ことが足りなかったのかもしれない、と感じています。こうした悲しい事件が二度と起こらないようにするためには、どういった社会の仕組みを作るべきなのか・・・私たちは常に問いかけられているのではないでしょうか。

関東地方知事会は10月に「事件が二度と起こることのないよう、真の共生社会の実現に向けて、全力で取り組む決議」をしました。

けれどどうもピンときません。「真の共生社会の実現」に向けて本気で取り組むなら、障害の有無に関わらず共に学校生活を過ごす「教育」の実現を、当然視野に入れて、容疑者のように「障害のある人は死んだほうが幸せ」という誤学習をしてしまうことのないよう、幼少期から肌で感じられる教育に向けて具体的に動くべきですが、実際にはまだまだこれまでと変わらないというのが実感です。

どの自治体も「障害の有無にかかわらず安心して地域で生活できる共生社会の実現を目指し、周知・啓発」に取り組んでいます。それも大切なことではありますが、それと同時に、障害の有無に関わらず、共に地域で暮らす日常を、身をもって実感して知っていくことが重要です。

ある自治体の障害者福祉の実施計画策定では、福祉所管が共生社会の実現に向けて「インクルーシブな教育で共生社会に向けて人づくりをする」という計画を織り込もうとしたところ、教育委員会から頑なに拒まれたと聴いたことがあります。

「障害がある人と話すのは初めて」

「障害のある人と同じ場にいたことがない」

こうした声は決して少なくありません。「障害のある人」を「知らない」ということから生じる差別や偏見を抱いても不思議ではありません。

私自身、知的障害のある子を授かり、共に暮らしていく中で初めて、個々に応じた支援・配慮があれば、障害のある人が安心して地域で当たり前に暮らせることがわかりました。暮らせないのは障害のある人個々の問題ではなく、人を含めた社会の環境の問題であることを知りました。

また、そうした個々に応じた支援・配慮がなされないばかりに、地域の幼稚園や保育園に通園する、地域の学校で育つ、きょうだいがいれば同じ学校に通う、というごくごく当たり前の子育ての将来への道筋すら閉ざされてしまい、大きく修正をかけなければならない理不尽さがたくさんあることも知りました。

教育委員会の判断と違う選択をし、地域の学校で学ばせようとすると、まるで「子どものことを考えない親」のように扱われたり、様々な場面で学校に付き添うことを求められたりすることも少なくありません。地域の学校で育て、子どもを知っていってもらいたい、というごくごく当たり前の保護者の望みさえも、障害の有無で分けられ、大きな壁が立ちはだかります。障害のある子を育てることで、通常の子育てではありえない試練を与えられてしまうのが現実と言っても過言ではありません。

どの自治体も「子育てに伴う心理的な負担感の解消や経済的な支援を図り、子育てに喜びを感じ、安心して子育てできる環境を整備する」ことを目指しています。が、正直なところ、ここから障害のある子の子育ては取りこぼされているのが現実です。

こうした現状をみれば、障害のある人に対して偏見や差別を抱く人が育ってしまっても不思議ではないのではないでしょうか。

障害のある子の親やきょうだいのほとんどは、特別に障害について学んだ上で障害のある人の家族になったわけではありません。障害のある子に限らず多くのご家庭でも、生まれ来る未知の個性を持つ子どもの育て方をマスターしてから迎えたわけではないでしょう。それでも、家族として当たり前に日常を共にして、笑ったり怒ったりイライラしたりという共に過ごす時間の中で、想いを深め、どのように暮らせばいいのかを考えていきます。

共にいる時間を過ごすからこそ生まれる「慣れ」だと思います。

そうしたことからも、多くの障害のある子の親たちは、障害の有無にかかわらず地域の保育園・幼稚園・学校で共に過ごし、子どもの社会の中にも当たり前に障害のある人がいるという「慣れ」をもって成長していくことの重要性を実感しています。そうした仕組みをどのように設計していくか、とても大切な視点だと考えます。

しかし、障害のある子はいくつも理由を付けられ、小学校入学前から地域社会から引き離されがちです。

「その子のためには」「迷惑がかからないようになってから」「一人でできることが増えてから」・・・

そして、地域の子ども達は、その子を知ることなく育っていきます。

子どもは地域へのパスポートです。子どもが「知る」ということは、その子の成長だけにとどまらず、親や家族もまた「知る」ことにつながります。ひいては地域の人々も「知る」ことになっていくのではないでしょうか。

こうした「地域から引き離す施策」は、親を孤立させ「孤育て」という状況に追い込み、その先は、障害のある子本人もまた地域で孤立していく、というように将来に渡って大きく影を落とします。

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出典:平成25年・文京区子育て支援に関するニーズ調査、文京区障害児実態調査より

文京区の児童発達支援事業では、地域の保育園・幼稚園に通園をすることなく、週5日間療育機関で過ごす子どもたちがいます。「保育園、幼稚園等で過ごすに当たっては、療育機関で訓練をしてからのほうが生活しやすいだろう」というのが理由です。まるで、保育園や幼稚園に入園する子には資格が必要であるかのような理由です。

国は身近なところでの療育を掲げ、保育園や幼稚園でも療育の視点を盛り込んだ保育を求めており、それは個々に応じた支援・配慮を行えば良いことです。が、「〇〇できるようになってから普通のお子さん達と一緒に過ごした方がいいですよ」という、根強い考え方が根底に潜んでいることから週5日、障害児だけで過ごさせることを推し進めているのだと思います。

けれど、その結果、保護者は、「うちの子はこのままでは社会では認められない」という思いも育むことにもつながります。そして、周囲もまた、障害のある子は、別に過ごすべきなのね・・・と学びます。

また、障害のある子を育てることは、子育てと仕事の両立をあきらめるのが当たり前のように周囲に伝えることにもなります。週5日療育に通うお子さんたちは、2時には療育が終ります。「お子さんたちが疲れるから」という理由で、幼稚園や保育園でなら今や当たり前にある、預かり保育もされていない状況で、リフレッシュする少しの時間も取れないのが現実です。

療育だけに通い、地域の保育園や幼稚園に通園していないばかりに、地域で挨拶を交わす人も限られてしまい「孤育て」となっている人も少なくありません。

こうした現状は、障害のある子がいる家族は大変で、容疑者が言っていたように「本人にとっても家族にとっても死んだ方が幸せ」という偏見や差別を生む温床にもなるかと思います。

週5日療育に通うお子さんの中には、そのまま特別支援学校に入学するお子さんもいます。

地域との繋がりをもてないまま成人していくことも十分にあり得ます。本来なら机を並べていたかも知れない地域の同級生たちは、その子について、自分たちと同じように得意なことや苦手なことがあることも、どんなことが好きで、何が嫌いなのか、どんなことに困っているのか、どうすれば困り感を減らせるのかも知らないまま育つことになります。

さらには、全国的に障害のある子が小学校に入学すると、保育園や幼稚園では障害の有無に関わらず、一緒に食事をとり、遊び、読み聞かせ等に参加していたにも関わらず、「障害のある子は食べるのが遅いから」「上手に食事を食べられない、マナーがなっていないから」など、「給食指導」が必要との理由から特別支援学級での食事を余儀なくされたり、健康診断さえも特別支援学級という枠で別にされたりなど、同じ学校に在籍しながらも障害の有無で分けられることが当たり前になっています。

結果、障害がある人は、分けるもの、自分たちとは別の人たち、「近寄りがたい人」として、子どもたちに刷り込んでいってしまうことも少なくありません。

ここにもまた、根強くあるのは「"普通の子ども"に近づいてから」通常の子ども達の社会に参加させるという意識です。その背景には、学校教育の中に障害のある子は「迷惑になる」という考え方があるように感じられます。

できないことを減らして、「普通の子に近づけてから」の参加でなければならないという意識があるかぎり、共生社会の実現は程遠いと思います。

街中は障害の有無で分かれているわけではありません。日々、食事を共にすることで、どのような支援や配慮をすると障害のある仲間が気持ちよく楽しく食事ができるのか、といったことを見知っていく子ども達がいてこそ、食堂や病院、お店等々、様々なところに、障害のある人もない人もいて、誰もが暮らしやすい街づくり、つまり共生社会の実現を担う人材育成につながるのではないでしょうか。

どのように障害が重くても、日常を共にする。障害の有無に関わらず、下駄箱やロッカーも登校する教室も一緒、と学校生活は少なくとも分けずに、そこから「行ってきます」「行ってらっしゃい」と声を掛け合い、必要な教科は、習熟度別学習の一つの形式として個々に応じた学習をすればいいだけです。そして、「ただいま」「お帰り」と誰もが給食を一緒に取る。帰りの会を共にして、「さよなら」と教室を後にする。そうした当たり前の日常こそが共生社会への確実な道だと思えてなりません。

障害のある人は、大きな声を突然あげて怖い。

何を言っているのかわからなくてどう接したらいいのかわからない。

それは、共に過ごす時間が短すぎることから来る「知らない」こと「慣れていない」ことから生じる「不安」に思えます。

現在の国の障害児への教育施策は、中学までは特別支援学級を通常の学校に設置しているものの、大人にさらに近づく高校生時期には、障害の有無ではっきりと分かれていきます。障害が軽度でなければほぼ特別支援学校、という選択肢になります。それは「共生社会の実現」にとって、実にもったいないことではないでしょうか。

例えば、文京区内にはいくつかの国立大学や付属校もあります。都立高もあります。そうした国公立の大学には作業所等の障害者施設の設置、高校には特別支援学校高等部の設置を義務付け、地域の障害のある人や子どもたちが通えるようにすればいいと思うのです。日常で障害のある人と接する仕掛け作りです。

体育館や学食などは大学や高校のものを共に利用する。そうした日常があるだけでも大きく違ってくるのではないでしょうか。アメリカでは、学校内にあるスペシャルクラスのサポートをすることで単位にもなると聴きます。

障害者の施設建設には周辺住民からの反対運動がおこることもまれではありません。

東京都の学校教育費は、児童生徒一人当たり、平成27年度小学校約98万円、中学校約119万円、全日制高校約140万円。これに対して、特別支援学校は約660万円となっています。

平成27年度(平成26会計年度)地方教育費調査報告書
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/toukei/27chikyohi.htm

学校施設費も入っていますが、ほとんどは人件費です。と考えると、この特別支援学校にかかる費用を、地域の学校を選択した場合には、児童生徒ひとりあたりの経費を市区町村に渡していき、特別支援学校と同等の人員配置や環境整備をして個々に応じた指導を実現すれば、地域から離れた学校に行く必要はなくなっていくと思えます。

大災害が日本列島を襲う度に、障害のある人と家族の孤立が課題となります。

地域でつながりがある障害のある人への支援は速やかだったものの、地域とのつながりがなかった障害のある人への支援は届きづらかったと聴きます。

地域とのつながりの有無が、生きやすさや生きづらさに関係するのだとしたら、障害のある人が生きていく上での「障害」は地域社会の側にあると言えるのではないでしょうか。

障害のある人に対して「知らない」「慣れていない」ことなどから来る不安ゆえに、実は自分たちの側が適応できていないことに想いを馳せずに、「障害者が社会に適応していない」と決めつけて、問題を当事者に押し付けてしまい、分け隔てて、「もっと自分たちと同じようにできるようになったら入れてあげるよ」という社会のあり方は、共生社会の対局にある現実でしょう。このような「同質性」や「同調性」から成る社会は、障害の有無に関わらず、いつ誰が「排除」されてしまってもおかしくない「不寛容」な社会と言えるのではないでしょうか。

誰もが排除されることなく、当たり前のようにそこに居て、尊重し合う社会は、誰のためでもなく、すべての人にとって、自分自身がいかなる状態にあっても尊重され大切にされ、安心して希望を持て、生きることが喜びをもたらす社会であり、それこそが目指すべき共生社会ではないでしょうか。

社会にとっての障害のある人は、「真の共生社会の実現」を目指す上である意味とてもわかりやすい試金石だと思うのです。幼い頃から、当たり前のように「自分とは違うけれどいろんな人がいる」ことを「知る」こと「慣れる」ことは、理屈ではなく日常の経験からこそ育まれていく「人間力」だと思います。

子どもたちに「知る」経験を十分に提供する社会の仕組みを築くことが、「共生社会の実現」を目指す上での私たち大人の責務ではないでしょうか。

皆さまにとって、「知る」ことの喜びと、生まれてきて良かったと、ひとつでも多く実感できる新年となりますように。

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