「1,2,3で45度おじぎ」を徹底指導...文科省が推進するアクティブラーニングに逆行する学校現場。「子どもたちに考えさせる」という当たり前のことができない背景には何が?

「運動会で種目に勝ったときには万歳を2回する。手のひらは内側に向け、腕も指先もしっかりと伸ばすように指導。」文京区内のある小学校で実際に行われた指導です。

"立ち止まって1、2、3のリズムで45度おじぎ"を徹底させ、角度が足りないと頭を押し下げる。

運動会で種目に勝ったときには万歳を2回する。手のひらが前に向いていると「降参です。参りました」の意味となるので、手のひらは内側に向け、腕も指先もしっかりと伸ばすように指導。

いずれも、文京区内のある小学校で実際に行われた指導です。

学校側の理由は、

学校は集団が一つの単位となってまとまって行動するケースが多いため、まずは、子どもがそれぞれの場にふさわしい集団行動を知るようにモデルを示し動きの目標を定め、集団行動が安全にかつ秩序を保ち、能率的に行われるようにするため

だそうです。

こうした指導について他自治体の小学校長にご意見を伺いました。

  • 挨拶ひとつとっても形ではなく、子どもの心を受け止め心を通わすことが大切です。子ども一人ひとりの気持ちに寄り添った指導をしたいと願う先生にとっては、一律で形式的な指導を基準にしなければならないとしたら、胸が潰れるような思いでしょうね」
  • 「集団行動の安全等について子どもにどうしたらいいのか問いかけていけば、子ども達自らがしっかりと考えていくことができるものです」

とおっしゃっていました。

文部科学省が掲げるアクティブラーニング「主体的・対話的で深い学び」の実現では、運動会等の行事や学級活動などの特別活動において持つべき視点として次のように掲げられています。

①「主体的な学び」の視点

特別活動においては、学級や学校の実際の集団生活の中から課題を見いだすことに特質がある。集団生活をよりよくしていくためには何に取り組んだらよいのかということを主体的に見いだしたり、活動を振り返り、よい点や改善点を見付け出すことによって、新たな課題の発見、設定をすることが可能となり、それが次なる動機となったりする。

こうした課題の設定や振り返りといった学習過程を意識して、そこで育成を目指す資質・能力を明確にすることが求められる。

②「対話的な学び」の視点

特別活動は多様な他者との集団活動を基本とし、これまでも「話合い」を全ての活動の中で重視してきた。集団活動を行う上で合意形成を図ったり、意思決定をしたりする中で、他者の意見に触れ、自分の考えを広げたり、課題について多面的・多角的に考えたりすることが可能となる

また、異年齢の子供や障害のある児童生徒等多様な他者と対話しながら協働すること、地域の人との交流の中で考えを広めたり自己肯定感を高めたりすること、自然体験活動を通じて自然と向き合い日頃得られない気付きを得ること、キャリア形成に関する自分自身の意思決定の過程において他の児童生徒や教員等との対話を通じて考えを深めることなども重要である。

③「深い学び」の視点

特別活動が重視している「実践」を、単に行動の場面と狭く捉えるのではなく、課題の設定から振り返りまでの一連の過程を「実践」と捉え、一連のプロセスの中で、「見方・考え方」を働かせ育成を目指す資質・能力は何なのかということを明確にした上で、意図的・計画的に指導に当たることが求められる

文科省は、「あらかじめ望ましい集団があることが学習の前提となっている集団」を形成する学校教育の在り様には、強い警戒感を示しています。

冒頭で紹介した学校が言う「モデルを示し」というのは、まさにこの「あらかじめ望ましい集団があることが学習の前提となっている集団」と言えます。

ちなみに、平成28年度全国学力・学習状況調査の質問紙調査において、「学級会などの時間に友達同士で話し合って学級のきまりなどを決めていると思う」と肯定的に回答している児童生徒が、文京区は全国に比較して低いのが気にかかります。

特に、中学校は「そう思わない」「どちらかと言えば追わない」という否定的な回答が東京都23.3%、全国21.3%に比較して、文京区は26.2%と高くなっています。

教職員の中にも、子ども達自身のことは子ども達自らが話合い、決めていくことを重視したいと思っている方々も大勢います。

以前にあげた文京区立中学校の服装の校則などに対しても、生徒自らが現状の校則について見直していくこと、考える過程を重視していきたいと考えられている先生たちも文京区にももちろんいます。

「頭ごなしに勝手に決めず、子どもと共に決めていかなければ、子どもから信頼されません」

国連子どもの権利条約では、子ども自身に関わることは子ども自身が意見を述べる権利が保障されているのだから、当然、聴くべきであり、考えさせるべきだと思うし、人権を子どもたちに伝える上でもそれが基本なのですが・・・」

と嘆きの声も聴こえてきます。

しかし、そうした声がありながらも残念なことに、つい先日、文京区内のある中学校が保護者向けに配布した「防寒に関するお知らせ」には以下のような事項等が書かれています。

「防寒着としてセーターを着用する際には、男子は学生服の下に着用し、セーターのみでの生活はしない」

「女子のタイツ(80デニール以上の厚さの物)の着用を可とする。タイツの上に靴下ははかない」

こういった防寒に際するルールについて、生徒自身が考えるチャンスもないまま、一方的に周知徹底する便りが配られたわけです。

お知らせを手にした保護者からは「授業中に暑くなれば学生服を脱ぐという当たり前を許さないという校則がなぜ見直されないのか不信感が募る」

との声が上がっています。

「子ども達に関わることを子どもたちに考えさせる」という当たり前のことを当たり前にできない背景には何があるのでしょうか?

教職員の方々が置かれている環境に目を向けてみると...

文部科学省がまとめた「教職員のメンタルヘルス対策について」には、「学校教育を充実するためのメンタルヘルス対策」として以下のことが書かれています。

出典:文科省 教職員のメンタルヘルス対策検討会議「教職員のメンタルヘルス対策について(最終まとめ)」

学校教育は、教職員と児童生徒との人格的な触れ合いを通じて行われるものであることから、教職員が心身ともに健康を維持して教育に携わることができるようにすることがきわめて重要である。また、児童生徒に対する影響だけではなく、教職員自身にとっても、意欲的に職務に取り組み、やりがいを持って教育活動を行うことが重要である。(同5ページ)

もしかすると、子どもたちに向き合う先生たち自身が、意見をしっかりと汲み取ってもらえる経験をしてこなかったことや、学級経営でいっぱいいっぱいになってしまっても、一人で抱えこまざるを得ず、学校がチームとなって子ども達一人ひとりを応援する体制になっていないこと、などが影響しているようにも感じます。

教員は、同僚の教員に対して意見等を言いにくいことがあり、言いたいことが言えない雰囲気が、ストレスの原因になっていることもある。

また、自分たちの指導等にあまり干渉されたくないという気持ちがあり、職場における人間関係が持ちにくい場合がある。職場での良好な人間関係が十分に形成されず、対人関係上のストレスがある場合には、職場において孤立するようになり、職場における業務やコミュニケーションについて、うまく対応できない状況が生まれやすい。(同9ページ)

学校には、自分のクラスのことは自分で対応したいとの思いから、教員同士がそれぞれの担当業務に関わりを持ちにくい風土があるが、校長が早めに進んで関わっていくような学校は、メンタルヘルス不調が生じることが少ないと考えられる。

一方、たびたびメンタルヘルス不調が生じる学校は、校長が各教員の状況を十分把握していないこともある。(同10ページ)

学校には、校長等のリーダーシップの下で、いろいろな他機関と連携をするような風土、気風が求められるが、学校の中で問題が発生したときに、外に助けを求めるのが全体的に遅い傾向がある。(同10ページ)

受診のきっかけとなった一番の要因については、生徒指導が最も多く全体の 35%を占めている。続いて同僚・校長等との人間関係が多く(26%)、以下、校務(10%)や学習指導(9%)が続き、保護者との関わりについては 3%と比較的少ない状況にある。(同13ページ)

教職員の間にも仲間外れや、子ども達の目の前で管理職が罵倒するという様ないじめもあります。

そうした環境は、子ども達の心に寄り添い、子ども達を信頼して考えさせるという、いわば「心をかける指導」を行う余裕をなくさせている一因とも考えられるのではないでしょうか。

子育てでも同じだと思うのですが、子どもの成長を促す大人の側には、子どもが考えて主体的に何かを表現するまで「待つ」という「辛抱」が求められる場面が多々あると思います。

待てずに手を出してやってしまったり、答え(のようなもの)を決めつけて教えて(押し付けて)しまったり、といったことをついついしてしまいがちで、その方がその場は楽に過ぎていくように感じてしまいます。大人の側に「長い目で見る余裕」がないと、なかなか「待つ」という「辛抱」ができません

とは言っても、学校の先生方は教育の専門家であり、プロです。

プロであるならば、常に最高のパフォーマンスを発揮できるような環境を作らなければなりませんし、「余裕がないから」などという言い訳は通用しません。チームプレーであれば、お互いを補い合って、チームとして最高の成果を上げられるような体制を構築するのが当たり前です。

このように考えれば、校長先生はチーム学校の「監督」のようなものです。プロの教育者という「プレイヤー」一人ひとりの状況を把握し、意見や考えに耳を傾け、支え合う仕組みを作り、質の高い教育を提供していくチームとして、それぞれが切磋琢磨しつつもお互いを高めあっていく組織文化を築いていくことが使命であり、存在意義ではないでしょうか。

ましてや、子どもたちへの「教育」を目的にしている「チーム」である以上、監督の独裁のような運営で、その目的である「教育」をゆがめてしまうようなことがあるとしたら、監督失格となるのではないでしょうか。

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