韓国が日本に求める「真情性」とは何か ?

今は知らぬが以前は日本の家庭で子供が親に口うるさく言われる文句は「人様に迷惑を掛けるな」だった。有名なルース・ベネディクト女史の著書『菊と刀』(1946)を紐解くこともなく、我々は向こう三軒両隣の他人様とうまく調和してやって行かなければ、家庭から放逐されてしまうという恐怖心を子供の頃から植えつけて来たことは日本人であれば多くの人々が頷くだろう。韓国はどうだろう。

(ヤング韓国原産タンポポ養農組合法人HPより)

今は知らぬが以前は日本の家庭で子供が親に口うるさく言われる文句は「人様に迷惑を掛けるな」だった。有名なルース・ベネディクト女史の著書『菊と刀』(1946)を紐解くこともなく、我々は向こう三軒両隣の他人様とうまく調和してやって行かなければ、家庭から放逐されてしまうという恐怖心を子供の頃から植えつけて来たことは日本人であれば多くの人々が頷くだろう。韓国はどうだろう。

私は韓国人と結婚し長く韓国のある族閥(と言ってもあまり有力ではないが)の一員として暮らして来たが、韓国での家庭教育はそういう公共道徳よりも個人道徳、誰に迷惑をかけようとも自分が死のうとも「自分の心に嘘をつかず、率直であれ」の一点が強調される。これが要するに日本人の義務感、つまり社会性を求める「和」の文化と、韓国朝鮮人の権利感、つまり人間性を求める「恨」の文化の出発点だ、と言ってしまえば話は簡単である。

だが、私個人の狭い見聞をもとに、広い伝記的調査もなくして、こうした民族の共同精神を説明してしまうことは粗雑な還元主義の一形式に過ぎないだろうし、そんな単純にこの世が割り切れるならば苦労はないだろう。ただ、そうした観察を両国の関係を考えるヒントとすることは無駄ではないと思う。

朝鮮日報の鮮于鉦(ソヌ・ジョン)国際部長は日本特派員の経験もある日本通であり、彼の記事はその愛国心あふれる男性的な慷慨調の筆致で人気があるが、今月25日付のコラムでは安倍首相のダヴォスでの朴大統領の講演で最前列に座って彼女の目の前で拍手したりといった、阿(おもね)るような態度を「 口蜜腹剣 」(甘言を弄し、心中の邪悪を隠す)という難しい漢語を使って表現している。

「征韓論」などという故事に類するような例を挙げながら、日本の諂(へつら)いに類する「甘い」態度に騙されてはいけない、腹の中の剣、つまり冷酷に利益を追求する現実主義を理解せねば、という内容だった。日本人のこうした対話のための和やかな雰囲気作り(少なくとも日本側ではそう思っている)が韓国の人々には二心ある疑わしい態度と見え、非難されるのはいつものことだ。要するに彼のような韓国の人々には上に説明した彼らの「率直であれ」という「正義」に照らして日本の先ずは「和やかさ」を求める態度が生理的に我慢ならないのである。

俗に、集団の政治秩序を考える場合、男性は「正義」という「抽象」と彼我の「分離」を一義とし、女性は「配慮」という「具象」と彼我の「接続」を尊ぶと言われる。これもまたヒントにしかならない印象論のようなものだろうが、一方で韓国の中央日報の若い女性であるジョン・スジン記者も28日付のコラムで上に紹介したものと同じようなテーマを扱っているが、まさに見方がそうした男女の違いを見せつけていた。彼女は昨年9月のアルゼンチンで開かれたIOC総会で安倍首相が会場やらホテルロビーで誰彼構わず愛想を振りまきお辞儀をしながらも結局は夏季オリンピックの東京誘致を勝ち取ったことを回想する。

彼女は腰を低くして謙遜を装いながらも決して腹を見せず最後には目的を達する日本人に対して道徳的違和感を持ちつつも、その相手への「配慮」に基づいた現実主義に感服しつつ、「正義」に拘泥しすぐに逆上しまともな交渉ができぬ自国に対して警鐘を鳴らす。彼女の言いたいことは、問題があるならば、相手と自己の関係を過去から未来への時間を通じた物語(ナラティブ)としてよく理解した上で相手と話しあうべきであって、数学のように原理原則で問題を解決しようするのは上策ではないということだ。まさに政治に対する女性的感性だと言ってよい。

この二つのコラムは日本という「敵」に対して韓国の男女二種類の考え方が如実に現れているように思える。では日本人自身は安倍首相の如才なさについてどう感ずるのか。いろんな言論を眺めてみれば概ね好評のようだ。逆に朴槿恵大統領の、日本の立場などはものともしない(譬えは悪いが)蛙の面に水を引っかけたような変わらぬ態度にイラついている日本人は多いだろう。だが、韓国人に日常で接しながら暮らす日本人にとっては彼らの心の表現に裏表のないことを旨とする生き方は日本にはない美質と映ることも確かだ。

小説『月山』で知られる森敦(1912-89)は幼少期を当時「京城」と呼ばれたソウルで過ごした。彼は韓国での生活を回想してのこんな談話を残している。

「街角にチゲクン(背負う人)というのがいて、人の荷物を運ぶんだけど、のんびり座っていて日本の赤帽みたいに"持たしてくれ、持たしてくれ"とは言わない。お客がくるまで、タバコでもくわえてゆっくり構えてる。終日そこに座ってるんです。怠け者ではないから頼むと山のように荷を積んでくれる。サボらない。一見勤勉じゃないように見えるんだけどね、どこの街角でもボーッとしてるから。」

(三寒四温と人間ののびやかさ 朝鮮育ちが語る体験的朝鮮論 『朝鮮・韓国を知る本』昭和59年より)

この談話は森が朝鮮の人々について当時言われていたように怠け者ではないということを訴えているのだが、見方によっては韓国人は人をそらさぬというような如才なさを慎むが、いったん引き受ければ相手に誠心誠意になって事を運ぼうとする道徳を身に着けていることを教えてくれる。そうなのだ。こうした韓国人の行動原則は間違いなく現在も韓国の街かどで庶民の気質に容易に発見できる。彼らは「組織」だの「空気」だのの「集団原理」に従っているのではない。だから彼らは周囲に媚を売ることはしないが、約束が成立すれば裏表なく自己責任を貫徹するその強固な「個人主義」志向が存在するのである。

もちろん、これは一長一短で韓国近現代史を見ても分かるようにこうした人々の反集団的な「砂粒のように固まらない」強い個人性のために彼らが政治秩序の確立に苦しんで来たことは周知の通りだ。この原則的には個人アイデンティティであるはずのものが自己集団の絆にも求められることで混乱をよび、その混乱収拾のために今度はそれが「正義」という名で敵対する異質な集団に適用される、つまり隣国の日本にこうした道徳が要求としてつきつけられる場合、話はこんがらがってしまうのである。

ところで上記の女性記者のコラムの話に戻るが、そこで「真情性」という韓国人が好んで使う言葉に言及している。中央日報の日本語版はそれを「真正性」と翻訳しているが、これは間違いで韓国語の「チンジョンソン」の正式な漢字表記は「真情性」である。まあ、どちらも似たようなものだがそれは英語で言えば「sincerity」(誠意)であって「authenticity」(真正性)ではない。だから、これを日本語に正確に翻訳するとすれば「誠意」とか「まごころ」という言葉になるだろう。日本や北朝鮮に向かって韓国の政府や言論が決まり文句のように使う「真情性を見せよ」「真情性を持って謝れ」というのは「誠意を見せよ、まごころで謝れ」という意味である。

彼女によれば澤田克己毎日新聞記者がソウルでの外信記者クラブでの講演でこのことに触れ、日本では「誠意を見せろ」とは「金を出せ」という意味だというようなことを述べたそうで、そんな事実も相手の立場を理解しようとしない韓国人は彼女自身も含めて知らなかったのだと嘆いている。しかし、面白いことに、彼女自身が所属する中央日報の同僚たちは彼女のコラムのほんの二日前の24日に「安倍首相、真正性(真情性)ある行動見せろ」という見出しの社説を、また同日にも「 北朝鮮、非核化に向けた真正性(真情性)を見せる時だ」といった、これも社説をぶち上げていた。まさに「真情性」のオンパレードで、中央日報のウェブサイトにその二つの見出しが並んで出ているのを見たが、もちろん一つは同族である北朝鮮に向かってのものだから問題ないのだろうが、なんだか韓国があっち向いてもこっち向いても「まごころを持て!」と吠えまくっているようで、多少あきれると同時に微笑ましいような、妙な感に打たれた。

韓国人と歴史の話をしていると彼らは自分たちが正直者であるがゆえにバカを見てきたのだと嘆く人が多い。しかし、私もやはり日本人であるから彼らに面と向かっては言えないが、その正直一番という美徳は一体どこから来ているのだと思わず胸の内で呟いてしまう。結局のところ道徳とはその者の恣意であり、自分の取り分を相手に「認知」させたいがために作った勝手な決まりだ。私は韓国の人々が個人として正直に生きていることを認めることにやぶさかではないが、その理想を異なる道徳体系を持つ人々に押し付けるのはルサンチマンというものではないか。つまり、結局のところ韓国人はその個人の意に反し集団としては「面従腹背」の屈辱を歴史を繰り返しさざるを得なかった。それゆえに傷ついた彼らの劣等感や疚しさの裏返しとして他の集団に彼らの道徳を要求しているのではないかと。

ただ、韓国人のその道徳の方向性、アイデンティティの基本類型のようなものは分かる。多分、個人が自分を規定されることを嫌い、何かの縛りから離脱しようとする志向性なのかも知れない。ロンドンの百貨店の店員は試着した客に向かってそのお召し物は似合いませんよとはっきり言うそうで、アングロサクソンの個人主義とはそういうものかと感心したことがあったが、韓国の人々にも同じようなところがある。しかし、そういう自由な国民性を纏め上げることはイギリスがそうであったようにさぞ難しく、険しい道のりを越えなければならないだろう。だから、韓国人が集団として近現代史の国民国家形成の中で「バカを見てきた」と自嘲するのはもっともなことであるし、自由な彼らが排他的民族主義という手ごろだが似合わない服に執着する理由も分かるのである。

現在の日韓の政治指導者たちがお互いの「逆鱗」に触れてコミュニケーションが途絶しているという問題、これは根本的にはお互いの集団の持つ恣意的な価値観、道徳観、つまり「規範」の違いから来る「規範問題」だ。結局のところそのお互いの「道徳」をすり合わせて多少ともお互いの対等願望を満足できる線で妥協できる新しい「倫理」を作り出しそれを法制化して目に見える形としての「現存在」とする以外方法はないだろう。現存の日韓基本条約という「現存在」に対し韓国側が不満だというならば、日本はただそれに固執することは良い方法ではないし、話し合うべきだ。そして、これは東京国際軍事裁判の結果を受け入れたサンフランシスコ講和条約体制という「現存在」に日本が不満を持つことと同じで、これも世界は再考すべきだろう。しかし問題の焦点は集団ごとに違うそうした「道徳」をすり合わすなどということが根本的に可能だろうかということだ。

こうした問題を「実証問題」として、相互利益という前提の上で「戦略的」に考えることも一つの方法ではあるかもしれない。ゲーム理論的に利益を最大化しようとするならば「信頼」という名の元に「道徳」という非合理的な信念を引っ込めて現実的利得を中心に据えて妥協を繰り返すことが合理的となる。しかしその一時的に引っ込められた「非合理性」は必ずいつか再びその鎌首をもたげ、その妥協を破壊しようとするだろう。なぜなら根本的に人間は動物と違って「非合理的な自己の信念を相手に認知させるために命を捨てて戦う」存在であるからだ。お互いの腹が満たされたとしても、この認知への欲求がある程度満足されない限り問題は絶対に解決に向かわない。そして、もともとこの非合理な信念こそが逆に個人間や集団間の秩序を守る原動力となっていると言える。人々が合理性の虜となり自己利益のみを図ればその集団は結局のところ「万人の万人に対する闘争」の無法地帯となり滅びるだろう。だから、対話して一定の秩序を作りたければどうしても異なる「道徳」のすり合わせが必要になるである。

韓国の日本に対してのその「真情性を見せろ」即ち「誠意を見せろ」という叫びは一体何を我々に欲しているのか。たぶんそれは謝罪でもなければ金でもない。やはり「誠意」すなわち「まごころ」である。それならば、日本人のまごころはどこにあるのか。安倍さんに「まごころ」があるのではない。あちこちの有権者の意志で動く彼にそれを要求するのは酷といったものだ。やはり「まごころ」は「和」にあると人は言うだろう。我々は一体何のためにこれほどに「和」に拘るのであろうか。その「和」という道徳もまた我々の恣意であることには変わりないだろう。李明博前韓国大統領が竹島に上陸した後、教育者を集めたある私的会合での「天皇の謝罪」についての発言が日本人を憤激させたことは記憶に新しい。一国の元首であった彼のそうした発言に軽率の謗りは免れないだろうが、その発言の意味に就いて我々は韓国人の心を推し量ろうとすべきだし、また我々自身についてなぜこれほど感情的になったのかについても再考すべきだ。

我々の「和」という「まごころ」は我々なりの「唯一性」への信仰を基礎としている。韓国人の道徳の基礎が個人の「離脱」を志向するものならば、日本人のそれは逆に集団の「唯一性」を志向するものだ。それは、例えばルソーの言うような集団の一般意志とか、手っ取りばやく言えば民族の同質性、血統のような他と変えられないものと言えばいいだろうか。ともかく、そういう「唯一性」を核とした集団アイデンティティを原動力にできたおかげで我々は近代化を達成できたし、その反面として個人の意志が軽んじられてきたことの疚しさをも日本人は共有し、そのルサンチマンを解消するために他国にまで「和」という自国の道徳を押し付けようとして来たのだ。

はっきり言えば明治の昔に大久保利通とか山縣有朋といった人々の手で、我々のアイデンティティの志向性に適合するように作られた「天皇制」という唯一の血統をプライドの基礎とする体制に、我々は今も集団の安定感を見出していることは否定できないだろう。ならば、その「同質性神話」の主人公であり唯一性の象徴であるところの「皇室」が、韓国の指導者層ではなく「離脱する」韓国大衆に何らかの方法で胸襟を開いて手ずから親しく「日本のまごころ」を説明するより他に方法はないのではないだろうか? 早く言えば、天皇の韓国訪問と韓国民衆との直接のコミュニケーションぬきに現在の事態の打開はないと私は思う。「唯一性」を尊ぶ日本人にそうしてできた新しい国際秩序に従わぬ者はいないだろうし、またそうした「離脱する」個人一人ひとりへの問いかけを拒む韓国人もいないだろう。それはなぜかと言えば少なくともそこに互いの「認知への欲求」が満足される可能性があるからである。

話を最初に戻せば、ルース・ベネディクト女史は日本人の国民性を「上から」丹精込めて作った観賞用の「菊花」に譬えた。韓国人のそれは「一片の丹心、タンポポよ!」という韓国の俗諺もあるように、踏まれても摘まれても地深く根を伸ばし季節が巡れば大地の隅に「下から」小さな花を咲かせる「二心なき真心」の象徴である韓国原産タンポポだ。私はそうした互いの「宿命」や心の成り立ちを心静かに見つめることで必ずや両者の対話が実現できると信じている。

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