BLOG

韓国にノーベル賞を生む風土があるか?

2015年10月19日 14時43分 JST | 更新 2016年10月18日 18時12分 JST

一般的に「個性」という言葉は単に「他と区別するような特徴的な性質」という意味に留まらず集団が望む自己像に抗し自己の望む自己になろうとする志向性、自己形成力という広い意味で捉えられているのではないだろうか。例えば「個性教育」のような言葉がそうだ。私個人はそんな言葉で唱えられるような個性万能を礼讃するような価値観に疑問を持つ、伝統や道徳は必要ないのかと。だがそれでもその「個性」が少なくとも「創造」という面で近代化の一つの武器となったことは否定できないだろう。

これは個人に対して集団からの同調圧力の高い日本社会でも言えることなのだが、韓国社会では家庭から国家にいたる集団のどこでもその「個性」はあまり歓迎されない。当地において「個性が強い」と言えばほとんど「わがまま」「変わり者」「偏屈」に近いどちらかといえばネガティブな意味が強い。周囲を見回しても少なくとも見かけは良き父、良き母、良き国民の聖人君子を演じている人が大多数で、自分に正直で個性的な人はよほど実力がない限り孤立している場合が多い。

こんなことは日本も同じだと思われるかもしれない。だがそのレヴェルが違う。個人や集団のアイデンティティ形成という面で言えば日本ではあくまでも「同調」であり個人は個と集に間で力のバランスが求められるが、個はどこまでも温存される。そのジレンマの葛藤というものが日本人に特徴的に見られる。しかし、韓国の場合は同調ではなく完全な服従に近い個の集への「一体化」が求められるのだ。そこにはジレンマはなく個は無視され捨て去られその「恨」のみが残るということになる。

「日本人はやっぱりすごいね。ノーベル賞二つも取ったそうじゃない? 」と時折散歩で立ち寄る近所の公園で知り合いの男性に声を掛けられた。彼こそがその韓国の「個性派」の見本のような人である。

金のない者に行き場のない韓国では街の公園は老人たちや失業者のたまり場だ。彼も公園の常連で市が設置した運動器具で日がな一日運動している。その粗末な服装となりふり構わない様子で一見で家庭に恵まれない中年の独り者と分かる。しかし、小柄だが筋骨隆々、運動するその動作が跳んだり跳ねたりまるで軽業師か、はたまた木々を飛び交う猿か何かのように人並みはずれ恐るべき敏捷さである。それに加えてどこか残忍さを湛えた面持ちで、時折ニヤニヤと一人笑っていたりするので、公園にたむろする男女は気味悪さ半分で面白がって、あれは北の間諜だとか、特殊部隊出身者だとか、はたまた泥棒の前科者だとかなどとお互いに囁き合っているのを私は耳にはさんでいた。

その彼が以前、私の日本なまりの朝鮮語をどこかで耳にしたのか近づいて来て「あんた日本人か?」と尋ねられて以来ときおり会話を交わす仲となった。「運動神経すごいですね・・、特殊部隊御出身だそうで・・・」と私が聞くと苦笑いしながらとんでもないというように手を振った。彼の話によるともともと釜山に生まれ子供の頃に何かの事情で親と別れ浮浪児のように彷徨った末に軍隊生活をしその後も流れ歩いて結局大邱に居着いたのだが、食うためにあらゆる力仕事を渡り歩いて運動神経だけは人並み以上になったとのことだった。本当のところどんな人生行路を辿って来たのかはよく分からない。しかし結局のところまともに学校教育も受けたことのない彼は今も半失業者のような身の上だ。ときおりどこかで夜警のような仕事をしてるらしい。

「多少すばしっこいとか腕っぷしが強いなんて言っても、俺みたいな人間はこの国じゃカンペ(チンピラ)の頭目にもなれんよ、金とコネがなきゃな。」彼は自嘲気味にそう呟き「日本はいいよな、力があれば認められて、いくらだって上に行ける、ノーベル賞だって貰える」と付け加える。内心、ノーベル賞というのはちょっと飛躍ではないかと思ったが、それでも同じ韓国社会に生きる者として彼の鬱屈はよく分かった。

隣国でのノーベル賞連続受賞の報は韓国のメディアを駆け巡り、それに触発されてこのところ韓国の言論その他でやっかみ半分の論議が続いている。その多くで「韓国では後発追随的な発展はあっても先発先導的な独創が生み出されないのはなぜか?」ということが問われている。制度的な問題など表層的な分析が多く根本的に疑問に答えるものは多くない。ある新聞の社説では韓国社会を「浮遊社会」と称し、そこに原因を求めていた。それは人々が政治的な権力争いに熱を上げてそれぞれが落ち着いて実力を蓄える余裕のない社会という意味でこれには私も「なるほど」と頷かされた。

韓国ではいろいろな社会集団から国家にいたるまで、人々は中心権力に向かって絶え間ない上昇運動を繰り返している。グレゴリー・ヘンダーソンというアメリカの政治学者はこれを「渦巻き社会」と呼んだ。会社や学校においては仕事や勉強というものは個人的な能力を高めることに目的があるのではなく権力に近づくための手段の一つに過ぎない。

自分の能力に対するこだわりや自負心もあまりなく、お墨付きさえもらえばそれで終わりだ。人生の主題は政治闘争である。国家においても人々は抵抗にしろ便乗にしろソウルの中央権力への求心的アプローチを激しく試みるのみで、その中央権力と距離を置き遠心的に地方の足下を固め実力を養い拮抗勢力を作ろうとはしない。個人や小集団はその能力を権力の中心へのアプローチの手段の一つとのみ認識し、その独自的な蓄積や開発に関心を向けないということだ。人々は権威という想像的な力にはひれ伏すが、異能という可視的な力はどこまでも軽視する。たぶんこれも韓国の歴史的な経路依存の一つだろう。

個性という差別化された自己能力の開発の有無が直接的にノーベル賞という世俗的な結果に繋がるかどうかははっきりとは分からないが、創造と革新という大きな流れには確実に関わって来るのは確かだろう。「自由からの逃走」で有名な心理学者エーリッヒ・フロムに倣って言えば、権力に対して遠心的な、自己に備わる「ある力」、つまり個性は創造を生み、それがどこかでカリスマ性を帯びて求心的な「持つ力」の上昇志向に結び付いた時に革新が生まれる。

今後も日本社会は多少の創造はあっても同調圧力によってそれが減殺され革新に繋がらない状態に苦しむ一方で、韓国社会は革新への上昇志向はあってもいつまでも創造という内容が伴わないことから常にその模倣や輸入に頼らざるを得ないジレンマに悩みつづけて行くことだろう。東アジアから本物の革新が生まれるかということに多少希望があるとすればこうした二つの社会が協力すればひょっとすると・・・。しかし今の日韓関係を見ればこれは幻想に近い。

ブログ「鏡の向こう側 The Other Side of Mirror」より