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諸岡亜侑未 Headshot

芸大生は「理解不能な」天才でも、奇人変人でもない

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※この記事は、2016/12/12にブログ「言っとこうかなと思った。」に投稿したものを大幅に加筆修正したものです。
※東京藝大に限った話ではないと思ったため、文章中、全国の芸大美大を含めた意味で「芸大」と表記しています。

藝大は「秘境」ではない。

「あなたの知らない世界」ではなく、「あなたが生きている現実」の中に、芸大生及びその卒業生たちはいるということを、知ってほしくて書きました。



|「秘境」として見られることの危険性



最近、藝大を「最後の秘境」と銘打った本が売れている。本当に売れているのか疑わしく思っていたら、本屋の入り口付近にデカデカと広告があり大量に平積みにされていて驚いた。最初読まずにこの記事を書いた。しかし読んだ方がいいという真っ当な指摘を受け、一通り読んでみたが、正直底の浅い本だと思った。しかしここで書評をするつもりはない。


わたしが言及したいのは、本そのものではない。


問題は「最後の秘境 東京藝大 〜天才たちのカオスな日常〜」というステレオタイプなタイトルに、「え?卒業生の半分は行方不明」というこれまたステレオタイプな売り文句に、実際多くの人が心を惹かれ購入したというこの事実だ。


世界的に見て、日本ではアートが売れないことは有名だ。
だけど、こうしてエンターテイメントとしては消費される。
昨年春、雑誌「美術手帖」で有名な美術出版社は民事再生を申請し倒産した。しかし「最後の秘境」は全国書店で売り上げ1位を続出している。


本屋に入るたびその事実を突きつけられるようで、わたしは悔しくて悔しくて、仕方なかった。


「奇人変人が集う東京藝大 卒業生の半分は大体"行方不明"に」というタイトルでこの本が取り上げられているニュースサイトを見た。"特別天然記念物"の"集団"だと、そこには書かれていた。やっぱり、多くの人はわたしたちを「別世界に生きる人たち」として見ているのだ。極端に言えば、檻の外から珍獣を見るような目で、見られている。
中にはこれに応えて、珍獣を演じる芸大生もいるだろう。確かにそれは注目されるかもしれない。だけど、それを喜ぶのは本質的にズレている。わたしたちが得たかったのはそういう種類の注目ではなかったはずだ。


作家は同じ時代に今生きている人たちに対して、アートを通してなんらかのメッセージや、警告、または哲学的な問いを投げかける。だけど作家が最初から「違う世界の人間」と思われている世界では、それらのメッセージは届かない。


作家は、「珍獣」としてではなく、ひとりの「人間」としてそれを為さなければならない。



|「天才だね」は褒め言葉じゃない



「へえ芸大生なんだ、天才だねすごいね、やっぱり変わってるんだね。」とよく言われる。それを聞いて芸大生は喜んでいる場合じゃない。それは褒め言葉ではない。それは、「理解できない」ものに対する、あなたとわたしは違う世界の人間なんでしょう、という線引きのための確認なのだ。

ここでもし「そうなんです、わたしって変なんですよね」と言ってしまえばどうだろう。相手は「そうかやっぱりこの人は変なんだ、理解できなくて当然なんだ」と安心するだろう。そこに「理解しなくてもいいもの」として線を引かれてしまうだろう。


だから、わたしはこう答えたい。

「いいえ、わたしは『理解不能な』天才でも奇人変人でもありません。あなたと同じ世界に生き、同じ時代に生きている、あなたと同じ人間です。何も特別ではありません。」と。

例えわたしが世界的に売れている売れっ子作家だったとしても、そう返すだろう。例え耳が聞こえなかったり先天的な障害があったり同性愛者だったり、なんらかのマイノリティに属していたとしてもそう返すだろう。むしろ強調するかもしれない。
それは謙遜でもなんでもなく、事実だし、その事実こそが現代アートにとって重要なことなのだ。


わたしたちの創造しているものは、(例え一見難解な作品に見えても)ごく一部の洗練された人達にしか理解できないようなものでは、決してない。一見とても難解にみえる作品が、ときほぐしてみると実はとても日常的なことをきっかけに作られていたり、とても普遍的な感覚だったり、今の時代性をテーマに考察され作られているものだったりする。

もちろん、それらを無理に理解しろとは言わない。中には理解できないものだってたくさんあるだろう。それはそれでいい。だけどそもそもの初めから「理解できないもの」として距離を置かれてしまうのは違う。


当然だが作品をつくる作家だけがいてもアートは成り立たない。

それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品はアートとして成り立つ。作家がどれだけ頑張って作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない。
李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomのビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアンハーストのサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、デュシャンの泉はもちろんただのトイレになる。

理解してくれと、駄々をこねるつもりはない。だが、「わからない人はわからなくていい」と突っぱねたって、理解してくれる人がいなくなれば必然的にアートは死ぬ。
作家はそのことを忘れてはならない。



|アートがわからないという人へ



「アートがわからない」という人たちの気持ちが全くわからないわけじゃない。
わたしだって、わからないな、と思う作品はやまほどある。興味がないものも、たくさんある。でも別にそれでいいのだ。わからないと思うなら、わからないと思ったその気持ちを大事にしてほしい。いつか全然関係ないときにふとわかる時がくるかもしれないし、一生全然わからないかもしれない。

理由がわからなくてもいいから、どれを好きだと感じ、どれを嫌いだと思うのか、まずはその自分の気持ちを大事にしてほしい。好き嫌いを感じるということは、食べ物で例えれば少なくとも口には入れている状態だ。咀嚼していくうちに、味がもっとわかることもある。年を重ねて、味の好みが変わることもある。だけどとにもかくにも口に入れてみないことには始まらない。


芸大生は(もしくは芸術家は)自由でいいね、とよく言われる。あなただって自由でいいのだ。作品を作る側が自由にやっているのだから、見る側だって自由に見ればいいのだ。作品を見ることに正解なんてないのだから、自分の気持ちに素直になればいい。誰がなんと言おうとあなたがその作品を良いと思ったら良いのだし、よくないと思ったらよくないのだ。

しかし、いきなり自由に見ろと言われたって、どうしたらいいかわからないと思うことももちろんあると思う。作るだけ作っといて、さあどうぞ自由に見てください、なんて無責任だ、そういう意見もあるだろう。真っ当な意見だと思う。
だから作家は常に、「わからない」という人に対してどうアプローチするべきか、考えなければならない。作るだけが作家の仕事ではない、わたしたちは自分の作ったものに対して責任を持たなければならない。



|行方不明じゃない



最近ブルータスやポパイなどの雑誌で「現代アートと暮らしたい!」とか「僕の好きなアート。」といった特集が組まれている。こういった特集はすごくポジティブでかつ現実的でありがたい。何が現実的ってブルータスには「今なら買える!」作品のカタログまでついている。お金の問題ではなく、そもそもアートを買うという発想がなかったという人は多いと思う。こうした特集をきっかけにアートのマーケットがもっと開けたものになればいいなあと思う。

ただ、冒頭に言った「最後の秘境」という本からは、どうしてもそうした記事に繋がっていかない。それは、本の中では結局卒業生は半分が行方不明で終わっているからだろう。

彼らは行方不明ではない。ちゃんと彼らの行方は、そのブルータスやポパイ、あるいは美術手帖などの雑誌に載っている。しかし今の所これらの雑誌と「最後の秘境」が一緒に並べられているのは見たことがない。


「日本でアートで食っていくのは無理」と言われるのが理解できてしまう。就職せず作家を目指した人々はすべて「行方不明」として扱われる、それが今の日本の現実だ。


もちろん作家の道を歩まないひともいる。企業に就職する人もいれば先生になる人もいる。それはそれでいいのだ。それぞれの人生なのだから。どっちが勝ちとか負けとか言う人がいるみたいだが、そういう人は最初から負けている。自分の人生は他人の人生と比べて勝ち負けを決めるものではない。
ただ問題は、広告に「え?卒業生の半分は行方不明。」というコピーがデカデカと書かれているように、そしてそのコピーが実際ウケたように、世間的には芸大の卒業生には「行方不明であってほしい」のだ。自分の現実と違うところで生き続けてほしいという願望が、世間にはある。


かくいう私も今年の春、スーツを着て普通に就職活動をしていた。そして私が、就活してるんです、というとショックを受ける人たちがいる。彼らは口を揃えて「就活なんてしないでほしい、君のやりたいことを自由にやって生きていってほしい」という。就職の決まった友達は、それを報告したら「なんで夢を諦めちゃったの?」と残念がられたそうだ。そういった発言はあまりに無責任で失礼だと思う。そういうなら、あなたは私の人生に責任を取れるのか、生活費でも恵んでくれるのか。

そもそも私も友人も「夢を諦めた」つもりなんてさらさらない。やりたいことをやるために就活しただけの話だ。彼女はやりたい仕事を見つけたし、わたしは仕事をしながら作家活動を続けるつもりだった。誰かに言われて就活したのではなく自分で選んでしたのだ。はっきり言うけれど、ここで彼らが言っている「君のやりたいこと」や、「(諦めちゃった)夢」は、わたしたちのやりたいことでも夢でもなんでもない。彼らがわたしたちに「やってほしいこと」であり「追いかけてほしい夢」である。


自分の夢を人に背負わせてはならない。自分の夢は自分で背負ってください。それはとても重たいものですから。


ただ、こうした卒業生の行方云々の話は世間の目だけの問題ではないし、芸大内にもいろいろ問題はある。そこは長くなるのと少し話がそれるので割愛するけれど、とにかくそれぞれがそれぞれの形で自分の人生を選びとっているのだ。「あなたの知らない世界」ではなく、「あなたが生きている現実」の中に、芸大生及びその卒業生はいるということを、知っていてほしい。決して、行方不明ではないということも。



|最後に



わたしが6年間ずっと感じていたことを文章にしました。本のことは、ひとつのきっかけでしかありません。あの本がでる前から、ずっと感じていたことです。この文章は最初はてなブログに投稿し、そこで多くの反響を得ました。コメント等をできる限り全て読み、友人とも話をし、改めて考えた上で、加筆修正したものをここにはあげています。わたし自身、作る側として反省するべき点も多く、その点も踏まえながら書き直しました。

「わたしたち」という主語を使っていますが、これはわたし個人の意見であり、大学を代表するものではありません。ただ、わたしだけの問題ではないと思ったので、そのような言い方にしました。そして、音楽学部の方からも反応いただけたことが個人的に嬉しかったのですが、どうしても美術の話ばかりになってしまって、申し訳ないです。

また、わたしのブログ記事を読み、「最後の秘境」の読書ログを消したくなった、という人を見かけました。その必要はないと思います。あそこに書いてあること自体に嘘はありません。ただ、わたしの記事を読んで、あの話にはもっともっと先があるんだ、ということを知ってもらえればいいなと思っています。


わたしたちは作品を作ることを「仕事」と呼びます。わたしは「美術作家」は一つの職業だと思っていますが、なぜか日本ではそういう認識が薄いように思います。それどころか、日本人はゴッホが好きすぎるせいなのか「作家は生きているうちは評価されず、死んでから評価されるもの、それが美徳」といったような認識がかなり強いように思います。実際によく言われます。
 
しかし、美術史に名を残している人で、生前から評価の高かった人は決して少なくありません。ピカソにしろロダンにしろミケランジェロにしろ、生前からその評価は高いものでした。もちろん彼らも「仕事」として真摯に美術に取り組んでいたことでしょう。

「美術作家」自体はアウトサイダーなものではなく一つの職業としてあるのだということ、みんなと同じ社会の中で、わたしたちも仕事としてそれに真摯に向き合っているのだということを、少しでも多くの人に知ってもらえればと思っています。

そして何よりわたしたち作る側がそれをしっかり意識しておかなければならないと思っています。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


諸岡亜侑未