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満州に初恋を置いてきたおじいちゃん

2015年07月10日 15時08分 JST | 更新 2016年07月07日 18時12分 JST
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大学を辞めてみたら、そこには夢がなかった。

緑まぶしく蒸し暑い夏、市立図書館まで何度も歩いた。頭の中には確かこんなスケジュールがあったと思う。

朝 勉強

昼 楽器屋でバイト

夜 バーでバイト

深夜 勉強

特に夢もないフリーターである自分が図書館で手当たり次第に本を読むことを、私は「読書」ではなく「勉強」と呼んでいた。そう呼ばなければ自分を許せなかったのだ。歴史、料理、天文学。あらゆる本が棚に分かれて整然と並ぶこの図書館の、どこかにきっと自分の進むべき分野があるんだと、そう信じなければ自分を許せなかったのだ。

2005年、18歳で入学した音大は、入学式の祝辞でこう言われるような場所だった。


牧村朝子(まきむら あさこ)

1987年生まれ。タレント、文筆家。2010年、ミス日本ファイナリスト選出をきっかけに、杉本彩が社長を務める芸能事務所「オフィス彩」に所属。2013年、フランスでの同性婚法制化とともに、かねてより婚約していたフランス人女性と結婚。現在はフランスを拠点に、各種媒体への執筆・出演を続けている。将来の夢は「幸せそうな女の子カップルに"レズビアンって何?"って言われること」。著書『百合のリアル』(星海社新書)、マンガ監修『同居人の美少女がレズビアンだった件』(イースト・プレス)。

Twitter:@makimuuuuuu

「新入生諸君、君たちの中で音楽で食べて行けるのは100人に1人くらいのものだろう」

まじふざけんな、と思った。勝つのは私だ、と思った。

"100人に1人"に入るのは私だと他の学生たちをにらみ回した結果、真っ先に敗走したのは他ならぬ自分だった。

退学後すぐに楽器屋で働きはじめたのは、「もう音楽で食べてますから」と退学面接で言い放つためだ。ただ、それだけのため。それでも"契約社員登用あり"の文字に、私はほのかな希望を抱いた。それから半年くらい経った頃だっただろうか。「ウチでは高卒だと正社員にはなれないのが暗黙の了解だよ」と言われたのは。

そのうち、図書館でも、本の内容が頭に入らなくなった。

図書館でしていたのは「本を読むこと」ではなく、「本を読むような自分でいること」だった。開いた本に縦書きで並ぶ文字の上を、私の視線が右から左へこういう軌跡を描いて流れていく。

← NNNNN ←

それはもう「読む」じゃなくて、「本の上に右から左へ無数のNを描くようにして視線をすべらせる」っていう行為にすぎなかった。なんかエライ人がスゴイことを書いた本を、閉じることも分かることもできずにぼんやりと見つめた。ただ意味もとれないままに、並ぶ文字ばかりを眺めながら。

平日の朝10時だった。

市立図書館にあまり人影はない。それでも思い思いに本を広げている人たちが何人かいて、私は、ついつい、こう思ってしまった。

読むべき本があってうらやましいなあ。

そう思った瞬間、自分がとってもみじめになる。私は何を読みたかったんだろう? 私は何を読むべきなんだろう? 私は何を読めばいいんだろう? 私は、私は、どうしてここにいるんだろう?

恐くなって、席を立った。恐くなったということから目を背けながら、私は、バイトの時間だからと自分に言い聞かせて出口へ向かった。途中、痩せてメガネをかけたおじいちゃんが見えた。机に中国語の本を積み上げ、なんだか熱心にノートに書きつけていた。私は、そんな彼の姿を見ていっそう足を早め、1時間830円で楽器屋のレジに立つために図書館を出た。

バイトまでには、まだ2時間くらいはあったのだけれど。

おじいちゃんの姿が頭から離れなかった。

80歳で中国語を勉強しておじいちゃんは誰と話したいんだろう?

私にも、そこまでして話したくなるような誰かが欲しかった。楽譜を発注し、売り物のピアノを磨きながら、私はぼんやりとあの中国語のおじいちゃんの姿を思い浮かべていた。

80歳で中国語を勉強しておじいちゃんは誰と話したいんだろう?

そこまで強い想いになるような何かを、私が触れてきたマンガやドラマや小説や流行りの歌の歌詞なんかはみんな、こう呼んでいたような気がする。「好き」。18歳の時の私に好きな人がいたかどうかは思い出せない。ということは、いなかったんだろう。たとえば相手が中国語しか喋れなかったとして、必死で勉強してでも話したい、分かりあいたいと思えるような誰かはきっといなかったんだろう。ただ、おぼろげにこう感じたことだけは覚えている。

おじいちゃんは満州に初恋を置いてきたんじゃないだろうか?

満州の桃の花咲く下で、キャンディの「小梅ちゃん」のパッケージみたいな女の子が、ぽっと頬を染めて長いまつ毛を伏せるところを思い浮かべた。少年だった日のおじいちゃんが、君の名は、と話しかける。でも満州の小梅ちゃんに日本語はわからなくて、おびえたように首をふるだけ。ふと、彼女が顔を上げまっすぐな目でこう言う。「○#ェ+*ゥ」。そう中国語(であろう何か)で一言言い残すと、彼女は背を向けてどこかへ行ってしまう......あの時の一言がわからなくて、わかりたくて、それから何十年に何千回も心の中であのシーンばかりを繰り返して、おじいちゃんは中国語を勉強しているんだ。何度も何度も心の中でやり直し続けるためだけに、おじいちゃんは中国語を勉強しているんだ。きっとそうなんだ。

涙が出た。誰のための涙なのかわからないままに。

「満州」に本当に桃の花は咲くのか。日本の少年と満州の少女との言葉の通じない初恋が史実上ありえるのか。そういうことはよく知らなかった。

なにしろ、勉強ができなかったので。

おじいちゃん、今も中国語を勉強していますか。

私にも、言葉が通じなくたって話したい人ができました。あれから10年が経ち、28歳になって、私はいまこの文章をなんとフランスから書いています。そうです、書くことが私の仕事になったんです。何を読むべきかわからないまま何も読めずに読むフリだけしていたあの時の自分に向かって、たぶん私は書いている気がするんです。人生って、本当にわからないものですね。やめなくってよかったです。

あなたが本当に満州に初恋を置いてきているのかどうかは知りません。でもそれは少なくとも、私の頭の中では本当なんです。それがあなたにとって本当かどうかは、はっきりいって私にとってはどうでもいいことなんです。

あの時あなたが机にかじりついて中国語を勉強していた、視界に飛び込んだ一瞬のその姿を、私はどれだけうらやんだかわかりません。もしかして心のどこかで、あの時のあなたがうらやましくて、私は妻に――青い目をしたフランスの女の子に――あの時声をかけたのかもしれないとさえ思います。「素敵ね」って。

すごいでしょう。あなたにとってはただ図書館で中国語の勉強をしていただけでも、私にとっては10年後の今もこうやって思い出すような姿になって焼き付いているんですよ。このことをもちろんあなたは知らないでしょう。だから、伝えたいと思うんです。80歳になっても図書館で中国語の本を積み上げて、ノートへ必死になにか書きつけていたあなたの姿を、この文章を通して、私の知らない誰かにも。そんなイメージが、これからどこにどう伝わって何を起こすのか、私はまたぼんやりと想像しています。

あの時みたいに、ただ意味もとれないままに、並ぶ文字ばかりを眺めながら。


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