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情熱大陸への想い 承認欲求から生まれる漫画家・宮川サトシの世界観

情熱大陸愛と共に作品に込められた漫画家 宮川サトシさんの"生"への執念とは。宮川さんと共に考える「生きる」ということ。
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オモコロで連載中の『情熱大陸への執拗な情熱』が人気の漫画家 宮川サトシさん。情熱大陸愛と共に作品に込められた宮川さんの"生"への執念とは。そして、人生を変えた"死と向き合った経験"とは。漫画家 宮川サトシと共に「生きる」ということについて考えたい。

情熱大陸、そして"生"への執拗な情熱

インターネットによって漫画家が新しいフィールドで注目され始めている。オモコロで『情熱大陸への執拗な情熱』を連載中の宮川サトシさんもそのひとりだ。

自身をモデルにしたキャラクター「ミヤガワ」がTBS系列のドキュメンタリー番組『情熱大陸』出演への熱い想いをひたすらに語るこちらの作品。2016年5月19日の掲載をもって第一部が完結したが、書籍化が決定したり、第二部の予告があったりと、今後の展開を注目しているファンは多い(情熱大陸の公式Twitterアカウントが宮川さんのTweetをRTしたときは、「明日にでも"上陸"しちゃうんじゃないか」とすら感じさせてくれた)。

現在は『情熱大陸への執拗な情熱』とともに『宇宙戦艦ティラミス』の連載にも原作者として関わっている宮川さん。彼の名が世に広まるキッカケとなったのが、実の母親との死別を描いた『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』だ。

いい意味で飾り気がなく人間の本性を映す宮川さんの作品。どういう想いを込めて描いているのかを尋ねてみたところ、テーマとして掲げているのは「生きる」ということだという。なぜ宮川さんは「生きる」をテーマに描き続けるのか。そして、「人生を変えた」と話す"死に直面した経験"とは。彼の"生"への執念を追いかけてみたい。

<Profile>

宮川サトシ

1978年生まれ。岐阜県出身。大学卒業後、地元で学習塾を経営していたが、漫画家を志し上京。漫画教室『古泉智浩 池袋マンガ教室』へ通い、2012年に漫画家デビュー。代表作は『情熱大陸への執拗な情熱』『宇宙戦艦ティラミス』『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』『東京百鬼夜行』など。

mixiが切り拓いてくれた"まんが道"

― いきなりなんですけど..."死に直面した経験"って何があったんですか?

大学1年の終わり頃に骨髄の病気を患いました。白血病のような難治性の血液疾患です。入退院を繰り返しながら、就職活動もしたんですけど病気が悪化して内定は取り消し。そこからはもう人生めちゃくちゃでした。

骨髄移植して寛解に至るまで約1年入院してたんですけど、退院したら同級生がみんな社会人になっているんです。会っても「残業ばかりでさぁ」や「ボーナスなんてスズメの涙だよ」という話ばかりで、社会に出た人たちがうらやましい僕には全部自慢に聞こえちゃう。それがずっとツラかったですね。

― なぜ漫画を描くように?

漫画家になりたかったわけではないんです。映画が好きなので、ショートムービーをつくりたかった。だから、当時経営していた塾の備品やコピー用紙のウラに絵コンテ的な4コマ漫画を描いていました。

一度だけ当時流行っていたmixiに漫画をアップしたら、プロの漫画家さんが「おもしろいですね!」とコメントしてくれたことがあって。たったの一件だったけど、プロが自分の漫画を認めてくれたのは衝撃的で。ちょうど母親を亡くしたタイミングで、心配する人もいなかったし、漫画の勉強をするために上京したんです。

でも、別にビッグになりたいという気持ちはなかった。自分のなかで1本だけやりきったといえる作品があったから、それを世に出すための手段を探すための決断でした。「一本足の唐傘おばけが大リーグで活躍して、最後に一本足打法でホームランを打つ」というギャグ漫画なんですけど、いろんな人に読んでもらいたいと思ったんです。

病気して、放射線治療を受けて、髪も抜けて、肌もボロボロだった僕にとって唐傘おばけは世の中と勝負するための唯一の武器だった。まぁ、今読み返すと全然パッとしないんですけどね(笑)。

夢を追いかけてるヤツは、妬ましくて、うらやましい

― 34歳で上京。漫画の修行を始めるにしては遅い印象を受けますが...。

病気のことで、友だちから「大丈夫?」とか「安静にしていたほうがいいよ」とかよく言われましたけど、そういう気遣いがだんだんツラくなってくるんですよ。特にライバルだと思ってた友だちの気遣いは「宮川、目立ったことはしないでこのままおとなしくしてた方がいいよ」って言われてるような気もして、メチャメチャ悔しかったんですよね。なかには実際に「趣味で終わるよね」とか「夢を追いかける年齢じゃないよね」とか言う人もいて。

でも、逆に聞きたいんですけど、そもそも夢を追いかけていい年齢、ダメな年齢なんてあるのかな、と。

あれから10年経った今だから言えることかもしれないけど、当時の同級生たちは自分たちが堅実な道を歩み始めているなかで、僕のように好きなことをやり始める奴が周りにいることがちょっと悔しかったんじゃないかと思うんですよ。きっと僕も逆の立場だったらバカにしたと思います。「現実を見ろよ」って。

でも、いつだったか、友だちのひとりに最初に描いた漫画を見せたら「次描くときは俺に脚本書かせてよ、一緒に一発当てようよ」って言われたことがあって。「あ、コイツ、俺がやろうとしてることに便乗しようとしてるな...?」って思いました(笑)。すると憑き物がとれたように、他の同級生たちのことがうらやましく感じなくなったんですね。ボーナスなんて今はいらないなって。

結果として自分ひとりでがんばる覚悟が決まったので、編集部に漫画を持ち込んで、編集者や先輩の意見を聞きまくりました。そして、漫画に反映させる。10代の頃から描いている他の漫画家とはバックグラウンドが違いすぎるから、プライドは捨てて。そして、なんとか連載が決まりました。

― 連載をつかみとるまでにそんな道のりがあったとは...。連載を持てる漫画家ってごく一部ですよね。

なぜひと握りかというと、大変で誰も最後までやらないからなんですよね。がむしゃらに"最後まで描ききれば"掲載が続いて、連載まではこぎつけられるんです。僕は結婚したばかりだったけど、妻に「バイトは絶対にしないで、漫画に集中してほしい」と言ってもらえて...。妻の支えもあり、全力でやり切れたから"ひと握り"になれたんだと思います。

でも、大事なのは"ひと握り"から"ひとつまみ"になれるかどうか。要は本が売れるかどうかです。ありがたいことにWeb上では「おもしろい」って言ってもらえますけど、本と違ってタダですからね(笑)。

承認欲求を否定するな

― 連載もあるなかで、お母さまとのエピソードを描こうと思ったのはなぜですか?

東京へ出てきて、母親のことを思い出す機会は確実に減りました。母親を亡くしたときの気持ちをずっと携帯にメモしていたんですけど、ときどき忘れてしまうことがあったんです。でも、僕は絶対に忘れちゃいけないと思ってた。思い出して、もっとツライ気持ちにならなきゃ供養にならない、と。それで漫画にしたんです。自分のために。

― 人に見せるつもりはなかった、と。

はい。たまたま連載していた新潮社の担当に「今度Webサイトで漫画始めるけど、どう?」と声をかけてもらって、ちょうどそのとき書いていた母親の漫画を見せたんです。それが思っていた以上に伝わったようで掲載が決まりました。

自分のために描いた漫画だったのが結果として良かったと思うんですよね。誰かを泣かそうということを意識していたら、迎合してしまっていたかもしれない。泣かせにきてる漫画や映画って、あんまり好きじゃないんです。自分の魂を削って、しんどくても記憶を掘り起こして描かなきゃ意味がないと思っています。

― "自分のため"だった漫画が、いつの間にか"読んでもらいたい"に変わっていった。その背景には何があるんですか?

うーん...承認欲求ですかね。

Webライターのヨッピーさんともよく「承認欲求を否定しちゃダメだ」って話をしているんですけど、何かをつくって、誰かに見てもらう行為自体は崇高なことだと思うんですよね。たった8ページだけど自分の漫画が掲載された雑誌が発売されて反響があったときは、「生き続けたい」「死にたくない」という欲が出てきました。自分が生きる意味を見出だせたっていうのかな。だから、母親の漫画もみんなに見てもらいたいと思いましたね。

生きるって面倒くさい

― 承認欲求のお話をうかがうと、情熱大陸の漫画の見え方も変わってきますね。

あの漫画は"怒り"なんです。怒りのベクトルが向けられているのは『情熱大陸』へ出演した僕の同級生ワタナベではなく、地元で「アイツすごいよな」「地元の星だ」とか言っている他の同級生たち。ワタナベの成功を素直に認めることも大人の対応なのかもしれない、でも、それでも「お前らはそれでいいのかよ?」「何でそんなに納得できるの?」って思うんです。

僕はこのまま人生が終わっちゃうなんてまっぴらごめんだから、必死でもがいているわけです。歳を重ねたときに、もっと冒険しておけばよかったって後悔したくないじゃないですか。

説教くさいかもしれませんが、あの漫画の根底にあるのは「みんなで情熱大陸に出ようよ」という気持ちなんですよ。全員で『情熱大陸』に上陸して、幸せになって、承認欲求を完全に満たして棺桶入りたい。

たしかに僕も病気をせずにフツーに就職活動して働いていたら、こんなことは思わなかったかもしれない。でも、僕はみんなと一緒には進めなかった。それならそれで、欠如してる社会経験、それによって抱えてしまった自分のモヤモヤを世に伝えていきたいと思いますね。

『情熱大陸への執拗な情熱』の原画

― 宮川さんにとって「生きる」ってどういうことですか?

僕は一度大きい病気にかかって人生を1回リセットしているから、「別に自分がいてもいなくても世の中に誤差なんか生まれないんじゃないか」という気持ちもありました。

でも、僕は生き残りました。骨髄移植した日を専門用語でデイゼロって呼ぶんですね。新しい誕生日を迎えてからの経過日数を記録するために、カルテにデイゼロ、デイワン、デイツーって書かれていくんですけど、担当医に聞いてカッコいいと思ったんですよ。血液型も変わって生まれ変わった気がして、自分が思っていることをカタチにしたくて漫画を描き始めた。その漫画を誰かがシェアしてくれたことで、生きたいという欲につながったわけです。

そこからペダルが回転し始めて、子どもをつくりたいとか家を建ててみたいとかって気持ちも生まれて。自分には負荷がかかるけど、それでも面倒くさいことをやることが「生きる」ってことなんだと今は思います。

― 実は情熱大陸出演のオファーが来ているんじゃないですか?

どうでしょう。そうだったらいいですね(笑)。

― 承認欲求って、冷やかされたり、バカにされたりすることもあるけれど、もっと素直に向き合うべきだし大事にしてあげていいものなのかもしれませんね。いつか"上陸"するのを楽しみにしています。今日はありがとうございました。

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