STAP細胞問題から見えた市民と科学者の乖離――後編

前回のポストでも指摘したように科学で最も重要視されるのは論文です。学会発表は妙な内容でも可能で、物理学会では珍妙な自説を展開する怪しい人(?)たちのセッションが用意されてると聞いたことがあります。

前回のポストでも指摘したように科学で最も重要視されるのは論文です。

学会発表は妙な内容でも可能で、物理学会では珍妙な自説を展開する怪しい人(?)たちのセッションが用意されてると聞いたことがあります。

書籍は自由になんでも創作することができますし、特許も新規性が重視され、科学的な正しさの裏付けは不十分なことがあります。

では学術論文はその他と何が違うのでしょうか?それは科学者たちが脈々と受け継いできた科学の正しさを担保する制度作りにありました。ここで学術論文がどのようにして世に出て、どうなっていくのかをあらためて解説したいと思います。論文の仕組みを理解していただくとSTAP細胞問題のどこが問題なのかがすんなりとおわかりいただけると思います。

さて、あなたが科学的に新たな知見を得たら、学術論文を書かなければいけません。これは義務です。中世では科学は大金持ちの一種の道楽のようなものでしたが、現在では完全に自費で研究することはまずありません。大きな部分を国民の税金で負担しています。研究成果を自己完結、自己満足で終わらせることなく、人類共有の智として蓄積する義務があります。

■ 早速論文を書きましょう

学術論文で必要な要素を以下に挙げます。全ての科学的な論文では全てが必ず求められます。

1, タイトル


2, 著者名、所属


3, 研究によって得られた新しい知見について


4, 実験方法やデータなど、論文で主張する説の根拠となるもの


5, 引用文献のリスト

1, タイトルは突拍子もないものでなければある程度自由度が高いですが、近年では自分の論文を他人に読んでもらうためにタイトルの設定は非常に重要になっています。あまりにゴテゴテしているのは好まれないようですね。

2, 論文には必ずその研究に携わった研究者の氏名と所属が書かれます。近年ではたった一人で全ての研究を完結させることが困難になっています。自分で資金を獲得し、自ら全ての実験をこなし、論文を書き上げるというのはよっぽどことがないとできないことから、単名の論文は少ないです。

複数の研究者が関係した研究の論文では、誰を著者にするべきかという問題が発生します。資金を稼いできただけ、命令されて内容もわからないまま実験しただけ、論文作成に必要なデータを測定しただけ、など様々な立場の研究者が関わっていることでしょう。この著者の線引きは非常に難しいので禍根を残すこともよくあるようですが、厳密には研究に対して本質的に貢献があった人だけが論文の著者として認められます。ですからちょっとデータ取りを手伝ってもらっただけの四回生や、ちょとしたアドバイスだけしたようなスタッフなどは残念ながら外さなければなりません。Nature誌などでは論文のどの部分に誰が貢献したのかを具体的に示す項目があったりします。論文に箔を付けるために著名な教授をおまけで著者にする、gift authorshipなどの行為は許されません。

では次にどのように著者名を並べるのでしょうか。業界によっては完全にアルファベット順という文句の出ようがないところもあるようですが、少なくとも化学では違います。研究において最も貢献度が高い人が一番最初になります。これを筆頭著者 (first author)と呼びます。理論を思いついた人であったり、研究を主体的に行った人が該当します。例え実験全てを一人で行ったとしても、ただ先生の言うことをホイホイ聞いていただけという場合は該当しません。ですから論文に最も責任があるのが筆頭著者です。あとは研究に対する貢献度順に著者を並べるだけです。ただ、我が国では研究の統括者という意味合いでラボのボスを最後に並べる (last author)ことが多いようです。まあ実質的にはボスが研究の構想を立てて研究費をとってくることも多いですから、ボスが誰なのかというのを結構気にしています。

こちらから一部拝借\

さて実際の論文にある著者リストをみると変なマークがたくさんついていることに気づきます。単に所属の違いを表すだけのものもありますし、下の方に注釈があったりもします。よくある注釈としは、誰と誰の貢献度は同じですよというのがありますね。中国人は貢献度についてはこだわりがあるように思います(生活がかかってますから当たり前と言えば当たり前なのですが)。

それとは別にもう一つ重要なマークがあります。多くの論文誌では*(以下米)です。このマークは責任著者 (corresponding author)を表します。論文に対する問い合わせなどは全てこの著者が行います。近年ではe-mailアドレスが必ず書いてありますので、質問や共同研究の申し入れなどが簡単にできるようになりましたが、それらは全て責任著者がおこないます。上の図のように責任著者が複数というケースもあります。

■ 責任著者と筆頭著者の役割はどう違う?

基本的には筆頭著者が責任著者であるべきでしょう。だって研究に一番貢献した人が色々対応するべきですもんね。でも大学院生が筆頭著者になってしまった場合、数年後にはラボにいなくて、e-mailアドレスが使用不能なんてケースも十分あり得ます。ですから筆頭著者と責任著者が一致せず、last authorのボスに米マークが付いているというのは実務的には合理的です。報道などでも米が付いている著者が紹介されることになりますので、責任は重大です。論文を引用して「2014年に誰々が何々した」などと論文に書く場合は責任著者を誰々にするケースがほとんどです。たまに筆頭著者で引用しなさいという規定がある雑誌もあります。

3, 次にようやく論文の本文です。自説について説得力のある説明をしなければなりません。

4, 論文の主張を裏付けるデータは漏れなく、正確なものを記載すること。これは論文作成における基本中の基本です。この部分を最も重視しなければなりませんので写真を取り違えるとか、詳細な実験方法を提供しないとかは本来であればあり得ませんし、あってはならないことです。

5, 科学というものはほぼ間違いなく過去の知見を基にしています。いくら突拍子のないアイディアだったとしても、何かしらの手法や理論を参考にしているはずです。もしくは既存の理論に対抗する全く新しい理論を構築したのであれば既存の理論と新理論のどこが違うのかなどを述べる必要があります。ここで重要なのは、論文のどこが新しいところで、どこが既知のところなのかを明示しなければならないということです。既知の事実や、誰がこう主張している、ということを述べる場合は引用文献として挙げていかなければなりません。引用したところを明示する書式は学術雑誌によって様々ですが、化学系は上付の数字が引用箇所についていて、論文の最後に番号順にリストが付いていることが多いです。生物系ではカッコで例えば(Yamaguchi et al. 2014)のように筆頭著者、もしくは責任著者の苗字と論文の出版年があって、引用文献リストは著者のアルファベット順に並んでいるというのが多いかもしれません。

このようにして引用文献のリストを作ることで、論文のどこに新規性があるのか、論文の主張は何によって裏付けられるのかなどを明確にしなければなりません。これが無いと過去の論文のもっともらしい部分を継ぎはぎするだけでそれなりの論文が書けてしまいますし、後述しますが論文の審査にも大きく影響してしまいます。

■ 完成した論文を学術雑誌に投稿

論文の草稿が完成したら、著者全員がその内容について吟味する必要があります。全員の同意を得て初めて論文は完成します。後になって名前を貸しただけだから内容は知らなかったなどとしらを切ることは許されません。

そして完成の暁にはどの雑誌に投稿するのか。ここが悩ましいところです。当然ですが全くの異分野を扱う論文誌は避けるべきですが、論文は審査を受けなければなりませんので該当分野であればどこでもいいということはありません。もし、世紀の大発見なのであれば、NatureやScienceなどの一般にも広く読まれるような雑誌がいいでしょう。影響力は絶大で、新聞記事でも取り上げてもらい、一躍スター研究者になれるかもしれません。ただし採択率は10%以下と厳しい審査が待っていることに注意しなければなりません。ですから、これらの雑誌に論文を掲載すべく世界中の研究者が鎬を削り、インパクトファクターという意味不明な指標で翻弄されています。採択率がザルな粗悪な論文誌もあるので、そういった論文誌には注意が必要です。

ここで指摘しておきたいのは論文は研究者が所属している機関を通していないということです。STAP細胞騒動における論調として理研は何をやっていたのかというのが見られますが、いちいち所属機関は投稿する論文に目を通したりしません。そんなことを誰がどうやってできると思います?専門もバラバラ、内容も新規なものばかりです。それらにねつ造があるかないかなんて判定することができる人なんているわけがないのです。研究機関でできることと言えば研究者のモラルについて教育するくらいです。それでも悪意を持った研究者がいたら発覚の後に解雇する以外どうすることも出来ません。

■ そしてピアレビュー

投稿された論文は、書式が整っていればまず編集者のもとに送られます。編集者は投稿されてくるたくさんの論文から、審査(査読)に回すかどうかを判断します。Nature誌などでは研究の内容が優れていても一般受けしないからという理由でこの段階で拒否されることもあります(社交辞令かもしれませんが)。

論文の審査(ピアレビュー)は通常2-3人の当該分野の研究者が行います。審査員は論文著者が候補者を数人挙げる場合と、編集者が任意に選ぶ場合があります。当然ですが候補者を挙げることができる場合は、該当分野で業績があり、自分に好意的な研究者を選ぶべきでしょう。事前に審査の候補者になってくれないか打診しておくのもいいですね。

審査員は論文の内容をじっくり吟味します。自分の専門から照らし合わせて論文が主張している内容が妥当であるか、もっとこんなデータが必要なのではないかなどをコメントし、編集者に対して雑誌への掲載に値するかどうか進言します。

審査意見には大きく分けて4つあり、適しているので受理 (accept)、内容はいいが軽微な修正が必要 (minor revision)、内容は悪くないがデータの補足など大きな改訂が必要 (major revision)、こりゃダメだね (reject)です。ここで数人の意見が編集者に寄せられますのでその意見を元にして編集者が論文の採否を決定します。英語の修正なんかも指摘されたりするので、一発で受理というのはまれだと思います(筆者だけ?)。

最終的には論文の採否の決定権は編集者にありますので、審査員の意見が割れたときなどは編集者の裁量で決まります。筆者も審査員がどちらかというとネガティブだったのに受理されたり、逆に審査員が好意的でもrejectされたこともあります(だったら始めから審査に回すなよな)。

改訂が必要と指示された場合は、審査員のコメントに対して一つずつ回答していきます。修正に応じるか反論するかは著者にゆだねられており、必ずしも全て審査員の意見に従う必要はありません。「細胞生物学の歴史を愚弄している」などという辛辣なコメントがあったとしても、それに対する反論し、それを編集者が認めれば受理されることもあるでしょう。大幅な改訂の際はもう一度同じ審査員が再審査をおこなうケース、軽微な修正であれば編集者の判断で終わるケースなど色々あります。また、この再審査を何回も行ったり来たりするケースもあり、最初の投稿から1年以上かかってやっと受理ならまだしも、やっぱり却下なんてケースもありえます。

■ 査読の実態は?

筆者も度々論文の審査をしておりますので、実情をお話ししてしまいましょう。

まずはどうしても論文の著者を見てしまいますね。信用のおけそうな研究者かどうか、ここでバイアスがかかってしまうことは否めません。

次に要旨を丹念に読みます。著者が何を主張したいのかは論文の要旨に書かれているので、意図をくみ取ってから本文を読みます。全体として筋が通っているか、その証拠に不備はないかを読んでいきます。最後にデータを吟味して間題が無いかどうかをチェックします。例えば化合物の合成であれば、過去にどのような合成法があったのかを調べたり、類似の化合物の物性を調べたりします。矛盾があればデータを詳細に見返して何が問題なのかを考えます。

審査に要する時間は論文の長さにもよりますが、丸一日以上、へたすると数日かかる場合も少なくありません。特に引用文献の不備などの調査は時間がかかりますし、物性を吟味するのはかなり骨が折れます。そもそも何が言いたいのかよく分からない論文や、軽微な間違いが頻発している論文などはノーコメントでrejectしてしまいたい衝動に駆られます。しかし、人のこと言えるような身分でもないですし、論文を書いたであろう人の事を想い、真摯なコメントをつけるよう心がけています。

ここで理解してもらいたいのは、論文の査読においては投稿されたデータが全て適切なもので、どこかから写真を切り取ってきたなんてことは全く想定していないということです。論理的に正しいかどうかは判定しますし、科学的に正しいかも判定しますが、悪意のあるなしに関わらず、それらしいデータを提示されてしまえば判断のしようがありません。

筆者の専門は有機化学分野ですので、この化合物が95%で合成できたと言われれば、実験項にある数字を再計算して確認するくらいしかできることはありません。本当は30%しか取れてないんだけど、「生成物がとれた量を盛ってしまえ」とか、本当は反応の選択性は3:1なんだけど、「20:1ということにしてしまえ」なんてやられたらそれを見抜くのは不可能です。また論文の文章がコピペされているかどうかまでは調べたこともありません。そのような事は全員がやらないという前提でなければピアレビューの制度は崩壊すると思います。今回の騒動でもNature誌に掲載された論文なのに審査員はなにをやっていたのか、などという論調を見ることがありますが、それは酷というものです。最近ではGoogleの画像検索とか、コピペ判定ソフトのコピペルナーなんていうIT技術も出てきていますので査読の前に機械的な審査が入る時代がくるかもしれませんね。

それだけ大変な作業ですから審査員の審査意見もかなり適当なケースもあります。本当に読んだのかな?と感じることも多々あります。杜撰な査読は科学の崩壊にも繋がるので避けてほしいところです。逆にものすごくきちんと細かいところまで指摘されると、ネガティブな意見であってもすがすがしい気分にさえなるものです。

■ 遂にaccept!

めでたく受理の通知が来ればそれでお終いという訳ではなく、実際の論文として印刷するための校正があります。ここではもう論文の内容改訂などはできません。最近ではまずwebに掲載され、その後具体的なページ番号が決まり出版となります(電子ジャーナル専門誌も増えてきました)。ページ番号が決まったところでもうやることは無くなります。世に出て、世界中に影響を与え始めるのです。興味がある研究者から共同研究の打診を受けることもあるでしょうし、誤りを指摘されるかもしれません。

■ 論文に誤りがあったら・・・

自ら気づいて、もしくは他人から指摘されて論文の内容に誤りがあることが後日明らかになったらどうすればいいでしょうか?軽微なスペルミスなどはあまり訂正しませんが、化学だったら構造式が間違ってるとか、データの数字が間違っているということはしばしばあります(本当はあってはなりませんが)。あり得ない構造を提案してしまったりもしばしば起こります。その場合、編集者に対して訂正を申し出ます。著者の責任で誤った場合はCorrigendum、編集側の誤りはErratumとして掲示され、読者に注意を呼びかけます。

論文の主張に対する致命的な誤りが見つかったらどうなるでしょうか?それが意図的であれば悪質ですが、著者の思い込みやデータ解釈の誤りによって論文の主張が成り立たなくなる場合がありえます。その場合は訂正ではなく論文の撤回 (retraction)を編集者に申し出る必要があります。ただ、どんな指摘を受けても、明らかなねつ造であってもなかなか撤回しようとしないのが通常です。一度撤回してしまうと、大々的に話題になってしまい、経歴に傷が付いたり、研究費の申請に悪影響があったりといったことを恐れるからです。

ある調査によると論文撤回のうち70%程度が著者自身によってされていますが、編集者や、出版社による撤回も30%程度あります。ですからSTAP細胞論文でも著者の同意がどうのこうのいうのはあまり意味がありません。

■ 言い古されてきた科学者のモラル

科学は論文の存在によって互いに影響を及ぼし合っています。一つの論文が多くの科学者のその後の研究の方針を変えてしまったり、まったく無駄な研究に莫大な資金や人的リソースが浪費されてしまったりすることは十分考えられます。誤りが明らかになった場合は速やかに訂正、撤回を行うことが科学者としてのモラルだと思います。

Nature、Cell、Scienceなどの著名な雑誌に論文を載せることが次のポスト、研究費の獲得に直結してしまうのが世界的な実情です。そのためには多少の不正をもいとわないという研究者が出てくるのは仕方のないことなのかもしれません。しかし、このままでは科学の世界が市民に認められることはないでしょう。見つからなければ、逃げ切れればなんとかなるなどという考えを起こさせない、小さな不正でも割に合わないのだという風潮にならなければなりません。科学者という人種は市民からは変わった世界にいる人たちだと思われているように感じています(科学者も当然一市民ではありますが)。閉鎖的であることで守ってきた伝統もありますが、科学者の数が爆発的に増加するにつれ様々な問題が持ち上がってきています。市民と科学者の意識のギャップを少しでも小さくしていかなければなりません。そのためには少なくとも科学の作法についての理解を深めてもらう努力が必要だと考えます。

以上ここまで長文にお付き合いいただき誠にありがとうございました。

個人的な見解も多分に含まれていますので誤りなどご指摘していただければ幸いです。

Author: ペリプラノン

【関連記事】

(2014年3月22日Chem-Station「化学者のつぶやき」より転載)

%MTSlideshow-236SLIDEEXPAND%

注目記事