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「幸せの国」というブランド ――ブータンの今――

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2015年2月から半年間、ブータンに滞在して現地の新聞で働く機会を得た。友人や知人に同地に行くことを話すと、判で押したように同じ質問が帰ってきたことを覚えている。「ブータンって本当にみんなが幸せなの?」

中国とインドに挟まれたヒマラヤの小国が「幸せの国」として知られるようになったのは、比較的最近のことだ。ブータンの枕詞としてすっかり定着した「Gross National Happiness(GNH、国民総幸福)」という言葉の出所についてはいくつかの説があるが、先代(第4代)国王が1979年にキューバで開かれた非同盟諸国会議からの帰国の途上で立ち寄ったボンベイで、「ブータンのGNPはどれくらいか」というインド人記者の質問に対し、「Gross National Happiness is more important than Gross National Product」と答えたのが始まりだという話がよく語られている。

言葉がいつどのようにして誕生したのであるにしろ、GNHは良くも悪くも好き勝手に解釈され、ヒマラヤの山奥にある皆が幸せな桃源郷というファンタジーのような国家イメージが出来上がった。後述するが、このイメージはある時点まではブータンの発展にとって非常にプラスに働いたと言えるだろう。

GNHを語るときに理解すべきは、この概念は国づくりの指針であるという点だ。ブータンは、政策決定に当たって経済的発展より国民の幸福を優先した政策決定を行うことを国是としている。よく誤解されているように、「GNHが高い=国民すべてが幸せ」な国であるわけではない。

例えば、ブータンは1999年に世界貿易機構(WTO)のオブザーバーとなったが、GNHの観点から加盟の是非について国内で意見が割れているため、未加盟の状態が続いている。インドとの二国間貿易が輸出入の大半を占める現状を鑑みればWTOへの参加がどこまでプラスに働くかは未知数だが、経済のさらなる発展のために悲願の加盟を果たした中国やロシアと比べると興味深いスタンスではないだろうか。

GNHに基づいたブータンの国としての理念を大まかに言うと、こういうことになる。

経済は人間の幸福において重要な役割を果たすが、物質的な豊かさだけでは国としての成功は計り得ない。精神的な豊かさ、文化の安定と繁栄、環境保全が経済と同様に重要である。為政者はこれを念頭に良い政治を行わなければならない。前述のWTOの問題について言えば、加盟すれば経済的な発展は望めるが、同時に独自の文化が脅かされたり環境破壊が進んだりする恐れがある。

では実情はどうなのだろう。ブータン人は本当に幸せなのだろうか。

bhutan

急速な近代化の弊害


この国で特徴的なのは国が非常に急速に近代化したという事実だ。ブータンは地理的要因もあり、長い間、チベットとの二国間関係を除きほとんど外部の世界からは閉ざされてきた。

1949年の中華人民共和国の成立とその後のチベット侵攻を受けインドとの関係強化が進められ、1958年には当時のインド首相ネルーがブータンを訪れたが、国内に車両が通行できる道路がなかったため馬で移動せざるを得なかったという。道路どころか、車そのものが1台も無かった。誇張ではなく、人々は多かれ少なかれ中世とほぼ変わらない生活を営んでいた。1958年(昭和33年)といえば、東京タワーが完成した年だ。

その後、道路が整備され外国資本と外国人が流入し、税制や教育制度など近代国家としての体制が出来上がり、現在に至っている。といっても近代化が本当に進んだのはここ20年程度のことで、例えばテレビ放送が始まったのは1999年だ。それまではインド国境に近い地域では同国の番組が見られたものの、テレビ受信機の所有は原則として違法だった。インターネットが解禁されたのも同年である。

今でも40代後半かそれより年配のブータン人と話すと、よく自分たちが子どもの頃と今では本当に隔世の感があるという話になる。中でもここ5〜6年のティンプーの発展はすさまじいという。

急速な近代化はもちろん多くの弊害をもたらした。首都ティンプーへの一極集中、貧富格差の拡大、そして何よりもブータン人そのものの価値観の変化。政府は地方の活性化と農業促進を目指すが、都市部での生活を知った若者は田舎に帰りたがらないし、何よりも親が子どもに農業をやらせることを望まないという。少子化も進んでいる。30代後半かそれ以上の世代では8人や9人兄弟は当たり前だったが、今では2~3人、1人っ子の家も多い。

時代の変化に伴い、国が抱える問題も変わった。貧困とそれに付随するさまざまな課題はもちろんあるが、都市部では薬物やアルコールの中毒が増加して大きな問題になっている。薬物といってもコカインやヘロインなどのいわゆるハードドラッグではなくインドで市販薬として売られている少し強めの鎮静剤などだが、中毒で人生を狂わせる若者も多い。

酒については皮肉な話で、昔はアルコール類はすべて自家製だっただめ量を生産できず祭礼など特別な機会にしか飲まれなかったが、国連や諸外国からの支援で大規模な蒸留施設ができたため国産の安価なウィスキーなどが出回るようになり、アルコール依存症になる者が増えたという。

専門家ではないので確かなことは言えないが、世界の多くの国が半世紀以上をかけて経験したことをブータンはその半分以下の期間でやってしまった感がある。

それでも、ブータンは恵まれた国だ。数年前までは世界でも最貧国の1つだったが、水力発電と観光業を主軸に据えた経済政策で国は発展を遂げている。もちろん数字的に見れば発展途上国の中でもかなり下位に位置づけられる状況に変わりはないが、貧しいなりに最低限の生活は保障されている。医療は基本的に無料だし、若年層を中心に失業率は高いが、近隣国のネパールなどと違って路上で物乞いを見ることはほぼ皆無。貧富格差の拡大や犯罪率の上昇なども、発展途上国としては極めて普通の問題だろう。

だがブータンの現状を知った人は一様に「幸せの国だと思ってたのに......」と顔を曇らせる。冷静に考えれば国民全員が幸福に暮らすシャングリラなどあるべくもないのに、ブータンを思うとき私たちはかくもナイーブに、ヒマラヤの山奥にある「幸せの国」の存在を信じて疑わない。

「幸せ」を数値化する


「Happiness」という言葉には不思議な力がある。GNHという指標を打ち出した先代国王は本当に英明だった。例えば、日本は「クールジャパン」のスローガンの下にコンテンツ産業を世界に売りつけようとしているが、「クール」も「幸せ」も共に抽象的概念ではあるのに、「クールは国」がさほど魅力を感じさせないのに対して、「幸せの国」には誰もが憧れを抱く。

万人が「クール」であることを好むかというと必ずしもそうとは言えないが、「幸福」に関しては、「あなたは幸せになりたいですか」と聞かれればほとんどの人はイエスと答えるのではないだろうか。

ただそのほぼ完璧なブランドを持つブータンも苦悩している。

2007年に実施された議会制民主主義への移行後、国民によって選ばれた初の政府となったティンレー政権がGNHを前面に押し出したのに対し、2013年の選挙で景気拡大を公約に掲げて当選したトブゲ首相はGNHのプロモーションに慎重な姿勢を見せている。このブランドが経済発展に向けた施策の脚を引っ張るからだ。経済界を始め知識人の間では「GNHは諸刃の剣」という意見も多い。「貧しくても心は満たされていて幸せ」は、シャングリラを夢見る外部の人間のエゴでしかないのかもしれない。

経済発展と精神的な豊かさ。近代化と伝統。開発と自然保護。これらのバランスを取ることがいかに難しいかを改めて考えさせられる。

GNHに話を戻す。ブータン政府は国民の幸福度を測るために定期的な調査を行っている。幸福度の判断方法は多少複雑だが、大まかに説明すると「心理的幸福」「時間の使い方とバランス」「文化の多様性」「地域の活力」「環境の多様性」「良い統治」「健康」「教育」「生活水準」の9分野で33の指標を設定し、それぞれの指標の達成率を見るという手法が用いられている。

指標には「世帯収入」「識字率」「睡眠」といった数値化が比較的容易なものから、「人生の満足度」「地域社会との関わり」「政治参加」「技芸」など客観的な評価が難しく思えるものまで多岐に渡り、達成率が77~100%は「非常に幸せ(deeply happy)」、66~76%は「広範囲で幸せ(extensively happy)」、50~65%を「かろうじて幸せ(narrowly happy)」、0~49%は「幸せでない(unhappy)」と定義される。

2015年の調査では全人口の約1%に相当する7,153人を対象に対面で各人に148の質問をし、「非常に幸せ」は8.4%、「広範囲で幸せ」は35%、「かろうじて幸せ」は47.9%、「幸せでない」は8.8%という結果が出た。この数字をどう見るかは人によって異なるだろうし、幸福度の判断方法や基準についてもさまざまな意見があるだろう。

最後にひとつだけ紹介したいのは、政府はこの最下位の「幸せでない」と見なされるカテゴリーに属する国民を「まだ幸せでない人々(not yet happy people)」と呼んでいる。今はまだ幸せではないけれど、将来的には幸せになれるだろう人々。なんとまあ楽観的なと一笑に付されるかもしれない。ただ私は、「幸せの国」の秘密は案外こんな所にあるのかもしれないと思っている。この呑気というかポジティブというか、時には感心を通り越して呆れるほど前向きな姿勢が幸せへの鍵なのではないだろうか。

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