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指導者はどこまで個を犠牲にしなければならないのか

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シドニーから3大会連続で五輪に出場した元陸上選手と、一緒に考え、議論を深めます。議論は4月28日発売の週刊誌AERAで始まる連載で紹介します。いただいたコメントを抜粋・要約することもありますがご了承ください。

 前回は優れた才能は誰のものかということについてご意見をいただきました。とてもたくさんの有意義な意見をいただいたと思います。

 さて今回は少しテーマをずらして、指導者はどこまで個を犠牲にしなければならないのか?について考えてみたいと思います。

 学校の部活動システムも実は今、問題になっています。部活動は実は学校の教員の本業ではなく、ボランティア活動で"自主的に"教員が参加しているということになっています。表面上はそうなっていますが、新人の教員は半ば強制的に部活顧問にさせられるという側面もあります。

 もちろんそれが生きがいで、いきいきとやられている先生もいますが、そうではない先生もいます。昔はそれでも、先生にやっていただいているという尊敬がある程度ありましたが、今はそれも随分なくなり、やってもらって当たり前で時には生徒の親に文句を言われることすらあります。

 最初は先生たちが、無償で個の時間を犠牲にして職業やボランティアに精を出すとします。それは素晴らしいことだと迎えられますが、やがてだんだんとそれが当たり前という空気が出来上がり、その内にまるで仕事の一部かのように組み込まれていきます。サービス残業があれだけ批判を浴びますが、土日出勤を半ば強制的にさせられている部活動顧問の教員の労働環境にはさほど批判がありません。

 弁護士、医者など象徴的に社会の役に立つと言われるような職業では、似たような状況が起こりがちです。どんなに厳しい環境でも"だって、好きだからやってるんでしょ"と言われるだけです。確かにそれはあるのでしょうが、でもそれで個人の時間を全部投げ出せと言われると苦しいものがあるのではないでしょうか?

 前回の中のご意見の中に優れた才能を持った選手が社会に還元する理由を"義理"と呼ばれている方がいました。善意とも訳せると思います。さて、世の中の善意は本当に均等に分配されているのでしょうか?それともある一部の方だけに負担がのしかかってはいないでしょうか?そして善意は強制してもいいものなのでしょうか?

 ご意見お待ちしています!