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メディアを巡る「恐ろしさ」とその解消に向けて

2013年05月10日 16時23分 JST | 更新 2013年07月09日 18時12分 JST

私は日本を拠点に、主にインターネットを活動の場としています。フランスの高校とアメリカの大学を卒業して日本に移り住んでもう10年ほど経ちますが、日本の新聞やネットメディアに加えていまだにフランス語と英語のものも日々目を通しています。そうした中でいつも感じるのが、マスメディアというのものの役割の大きさです。

マスメディアは社会の「現実像」を醸成する役割を担うジャーナリズムを支える、最大の装置です。現代社会で忙しく生きる私たち先進国の人間は、マスメディアで流れる報道を生活の合間で受け取り、社会の実像を頭の中で描き出します。極論すれば、各紙がこぞって「これは黒だ」と報道すれば、私たちはなんとなく「そうなんだ」と思ってしまう。そうしたことが集積して、私たちは社会の全体図をイメージしています。

このようにマスメディアは強大な力を社会に対して及ぼしています。その力は一歩間違えれば真実でさえ虚威になってしまうような恐ろしいものです。そしてこの恐ろしさは、自分がその状況に直面しなければなかなか気付くことさえも難しいという意味で、二重に恐ろしいものです。しかし、直近でいえば、2011年3月以降、日本に住む人々はこの恐ろしさに直面したのではないでしょうか。

ここで少し個人的な話を書いてみたいと思います。

2011年3月11日の直後に、私は自分なりに何かできることはないかと考え、有志と共に原発事故を巡る海外記事の翻訳するブログの運用を開始しました。

Genpatsu-福島原発事故に関する海外メディア報道

このブログでは10数人の翻訳者や海外在住の方にオンラインで参加頂いて、英語、フランス語、ドイツ語、中国語などの海外の有名紙やネットメディアの記事、そして海外の原子力系研究機関のレポート等を日本語に翻訳していました。その動機を書いた文章を以下に転載します:

日本在住の市民は現在の非常時において、原子力発電所に関係する利権団体・機関によって国内マスメディア関係機関に投下されている資本力の影響を被って、公正な情報アクセスが制限されています。そのため、利害関係の希薄な海外メディアの報道がより公正な情報源として認められる場合も少なくないと考えています。

ここからも読み取って頂けるように、このブログを開設した最大の動機の基には、マスメディアと日本政府に対する不信がありました。

当時はこうした情報を必要としている人々にスピード優先で届けたかったので、元記事の権利者には無断で翻訳しているものが殆どでしたが、そのことは日本国著作権法が定める権利制限規定が定める「翻訳、翻案等による利用」(同43条)を遵守する形で、適性な二次利用を行っているという認識でいます。もちろん、元記事の権利者から苦情が届けば、残念ですが当該の翻訳文章の掲載を停止するつもりです。(現在のところ、どこからもクレームは届いていません)

このブログは2012年1月まで積極的に運営していましたが、様々な理由で停止してしまいました。まずはかなりの労力が割かれる活動なので、無償で続けることに限界を感じたことがあります。加えて、他のブログやメディアなども同様の翻訳公開を行うところが増えてきたということもあります。そして徐々に日本のマスメディアや関係機関からも透明性の高い情報配信が増えてきたという実感もありました。

しかし、2013年5月現在、改めて現在の日本のマスメディアやネットメディアの状況を見た時、果たして本当に信頼に足る状態にあるのか、再び疑問に思っています。人間には「慣れる」という能力が備わっています。それはポジティブにもネガティブにも作用します。いまだに福島第一原発が収束からほど遠く、東北の被災地も復興の真っ最中で様々な問題に直面している中、私も含むその他の地域の市民は早くもこの状況に「慣れ始めて」しまっています。もしくはマスメディアの報道に懐疑を抱き続け、真実を追究したり、社会の諸々の問題に関する議論を行うことに疲れてしまっている、という表現の方が正確かもしれません。このことは努力が足りないとか、思いやりが薄いというような属人的な問題ではありません。人間の身体的な限界に起因している、より根深い問題かと思います。

このことは恐ろしいことだと思います。特に、私は昨年に子供が生まれてから、このような社会で彼女が成長することが本当に恐ろしいことだと強く思う様になりました。しかし、恐ろしいからといって希望がないわけではありません。問題のあるシステムがあれば、その問題点を浮き彫りにし、解決策を試行錯誤しながら実行していけば良い。このようなエンジニア的な発想が今日ほど求められていて、かつ、実践できる時代はこれまでもなかったと思います。

今回、ハフィントンポストジャパンからブログ開設の依頼を受けて、承諾した背景にはこのような問題意識がありました。この記事を読まれている方はご存知の通り、ハフィントンポストは独自の記事も執筆し、ブログも集め、外部コンテンツを集約する機能も合体させ、アメリカで成功しているメディアです。いわば、従来の新聞編集体制の力と、インターネットによるイノベーションの力の双方をあわせて活用して成功している数少ない例です。私も個人的に新旧いずれかに偏るのではなく、活用できる点は新しいものでも旧いものでも使うべきだと考えているので、ハフィントンポストのこの設計思想に共感しました。

アメリカにはもう一つ尊敬しているニュース配信団体として、プロパブリカという非営利組織があります。プロパブリカは社会の公正性を監視するという趣旨で運営されていますが、彼らが配信する全てのニュース記事の、非営利目的での複製と共有を認めています。ブログやFacebook、もしくはその他の方法で自由に記事が転載されることによって、メディアとしての存在感を増すことに成功し、メディアとしてもピューリッツァー賞を2度も受賞するまでに成長しました。

プロパブリカが二次利用を許諾するライセンスを提供するNPOが、私が日本での普及活動を行ってきたクリエイティブ・コモンズです。このハフィントンポストジャパンでの私のブログ記事にもクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを付けるので、クレジット表記を行って、どなたにでも自由に、営利目的での利用も含めて、転載、複製、共有、翻訳して頂いて結構です。ご利用になりたい場合は、私やハフィントンポストジャパンに連絡する必要は一切ありません。私としては、自分で書いたものが様々な形で利用されれば嬉しいです。こうして、自分の作品を不特定多数の人がお金を払ったり、許諾をとらなくても利用することができるようにするインターネット上の運動を「フリーカルチャー」と呼びます。プロパブリカの例からも、フリーカルチャーの観点がジャーナリズムを今後とも進化させていく可能性があると考えています。

私はジャーナリストでもないですし、政治家でもありません。しかし、あくまで一市民として、NPO活動家として、そして起業家として、ジャーナリズムと政治を巡る問題、ひいては私たちの社会と文化をより良くするために何かできることはないかということを考え続け、自分の仕事のなかで微力ながらも貢献していきたいと考えています。このブログでも、ただ評論するだけではなく、自身の活動を基軸に考えていることを書いていきたいと思います。

ハフィントンポストジャパンが、まだ(特に日本の)ネットの世界が夢見てやまない、「建設的なコミュニケーションの場」として醸成されることを祈っています。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この記事は クリエイティブ・コモンズ 表示 3.0 非移植 ライセンスの下に提供されています。

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