朱子学の伝統は現代社会の危機を救える

今日の私たちの課題は、朱子学の教えから無数の宝物を算出することである。

朱子学を強いて高校の教科書に出てくる言葉を借りれば、「江戸時代に近代化に反対した保守派の思想である」と定義することができる。

そして今になっては、博物館で展覧するような、我々の生活に何の役にも立たない骨董品のような取り扱いを受けている。が、それは本当にそうなのだろうか。

もちろん、男尊女卑といった、女性に対する差別や極端な親孝行思想など、問題点は多いが、現代の日本社会のような、深刻な道徳崩壊の問題に直面しており、気の狂った消費文化に溺れている病む社会では、未だに朱子学の伝統から見習う点が多々あるのではないだろうか。

それは目上の者の命令には無条件に従う、といったことなどからではなく、朱子学の最も魅力的な点である、行政、教養、道徳の融合から探し出せるかも知れない。

私たちは、まず、朱子学の遺産とは何なのか、そして、今の時代に偉大な知的伝統の価値を見出すためには、なぜ、学問的努力を傾注することが重要なのか、綿密に考える必要がある。

朱子学は南宋時代の学者、朱熹(1130~1200)によって明文化された哲学体系の総称であり、後の中国、日本では国家イデオロギーの礎を形成することになった。

朱子学は自然界、政治界、そして、倫理の領域を包括する、最も包括的な世界観を創出するために初期の儒教の教えと仏教により発展した形而上学的な言語を組み合わせた形而上学と認識論への総合的なアプローチであった。

しかし、過去、数百年にわたる東アジアの最大の失敗は、政策、政治、教育、道徳、そして、法律に即座に適用できるような、朱子学の再解釈が行われなかったことにその原因があると言えよう。

日本で教育を受けた人は、歴史の教科書に何行か言及されている以外は、新儒教に接する機会はほとんど無かったのが実情である。

新儒教の伝統は、日本が近代化を阻止するために固持した硬直で柔軟性のない社会秩序と関連していると思われ、現代化、西洋化、そして、先進化された現在の環境に到達するためには克服しなければならない対象であった。

このような議論は、18世紀の機械工学や19世紀の医学に一部、根拠をおいているが、全般的には、中国、朝鮮、そして日本では、18世紀以前にヨーロッパよりもはるかに複雑で微妙な公論の場を発展させ、政策過程においても、より平和的でより幅広い知識人を参与させることが可能だった。

さらに、ある逸話によると、19世紀以前の東アジアでの識字率は、同時代のヨーロッパよりも高かった可能性が高い。

〈時代の課題に直面して〉

今日の私たちの課題は、朱子学の教えから無数の宝物を算出することである。新儒教の伝統の多くは、現在の社会に適用できるものである。

現在の社会は今後ますます持続不可能になるであろうし、消費や衝動的な欲望に駆り立てられて断末魔的な視覚に惑わされ未来へのビジョンを明確に提示することができないでいる。

それは今日、現実から切り離せない二つの酷烈な問題をもたらしてしまった。

その一つは、西洋伝統の道徳的な崩壊である。

西洋での蒸気エンジンや航海装備などの先進的な技術や洗練された機関(世界統合貿易システムは築いたが)は、アヘン戦争時には圧倒的に強力な存在であったため、東アジア各国はあらゆる分野においても深刻な文化や制度の再考を余儀なくされたのだが、今日、このような環境はまったく変わってしまったのである。

西洋諸国は文化や科学、論理的規範に対しての懸念をほとんど持っておらず、非合理で、且つ、反科学的な、しかも強力な権力を生み出した。

そして、その新しい文化は、米国のドナルド・トランプ政権が本能に訴えかける低俗で近視眼的な政治的アプローチに最もよく象徴されている。

西洋文明はより一層、急進的な消費文化や世界戦争、そして、より深刻で陳腐な文化に結びつくことになった。

中国、日本が近代化に失敗した反面、フランス、英国、ドイツが19世紀に急速な成長を成し遂げたことの原因を探る様々な論著を読んでみると、西洋文明はアジアの相対的な平和と比較して、もっと不確実で、しかも残酷、野蛮であったように思われる。

将来的に、環境やその計画に関して、持続性や保全を重視する新しい文明のルーツを見出せる可能性が高いのはアジアである。そして、とりわけ、思いやり、倫理、政治が最も巧みに組み合わされているのは、新儒教の伝統である。

私たちは、今一度、復興された公務員試験制度を通じて、政治に新たなアプローチを提案し、社会を活性化させて西洋諸国に刺激を与える新儒教的な伝統を新たに見返る必要がある。

この制度は、現在の政治学にひどい弊害を加えてきた政治や、過激主義による危機を解決するのに大いに役立つであろう。

現代を生きる我々は、精神的な荒廢に直面している。私たちは虚無感に浸っており、無意味な消費を繰り返し、空虚な空間に暮らしている。

このような深刻な危機は、社会を改革しようとする努力を無駄にし、深刻な矛盾に陥らせている。それは、私たちは技術的で官僚的な解決策しか提示できず、社会政治の中にある精神的な問題を表現する方法を持っていないからである。

残念ながら、今日の経営や政治に関する議論は、実際の経験とは無関係であり、「革新」や「リーダーシップ」についての陳腐な論議しかなされておらず、心理的、もしくは精神的な課題は探求できない。

新儒教は精神的な自己修養に焦点を当てているが、これは宗教ではなく、政治と実践的な管理の問題と密接な関係がある。その故、新儒教が今の時代には重要な資産になりえるのである。

なぜならば、新儒教は現代宗教の自己耽溺と他の世俗的な特徴を遠ざけるからである。また新儒教は排他的ではなく、他の宗教的・哲学的な信仰をあきらめることは要求しない。

むしろ、新儒教は現代社会に誤って分離している3つの重要な要素、すなわち、自覚、倫理、善政を一つに結集する役割をしている。

このような伝統の側面は、現代社会と緊密に関連している。私たちは現代社会が多様化したせいで、日々の暮らしにおいて社会的な変化による心理的・精神的な様々な影響に対処していかなければならないが、宗教性を帯びた対処は自制する必要がある。

新儒教の伝統は政治的な問題だけでなく、人間の経験による心理的・精神的な側面においてより幅広い議論の可能性を提供する。また道徳的な問題にも関連している。

新儒教の伝統においては、政治や人間関係は単に効率性や創意工夫だけの問題ではない。

政府が運営され、家族が形成され、そして、社会が進展する方法は、常に相互論理の問題であり、常に全ての構成員の相互体系的な献身を伴うため、儒教体系には一方的な消耗が起こることはない。

新儒教の伝統は、現代社会を変革させてきた急速な技術の発展について驚くべき指針を提示している。テクノロジーの進化が今の世の中をどのように変化させてきたかは、到底計り知ることができない。

なぜなら、テクノロジーの進化は人が認識するありとあらゆる手段に影響を及ぼし、実質的には見えない基本的な水準にまでも影響を及ぼしているからである。

私たちを取り巻く社会を効率的に理解するためには、全ての現象の根底にある、より深い原則の形而上学に従事し、意識する必要がある。

私は、この問題について長く考慮する時間をもてなかったが、それでも新儒教の伝統は技術革新における人間社会の対応や他の伝統にはない人間社会での未来計画を適切に議論するために必要なスキーマ(解法)を持ち合わせていると確信しているのである。

私たちは、テレビやインターネットで再現されるイメージがいかなる基本的な原則や形而上学よりも権威や重要性を帯びるデジタル時代に生きている。

私たちは、世の中を最も表面的に理解する基準に束縛されており、世界はデジタル革命によってフラットになった。私たちに欠けているのは、観察する現象の背後にある根本的な形而上学の感覚である。

近代的な経験によりこのように弱体化してしまった部分は、まさに、新儒教の伝統の中では効率的に対処できる。

物事の表面的な部分とは反対に、内在する仕組みや根底にある原則に関心を注ぐことは、まさに、今の時代にはとても必要な要求である。物事の表面的な部分だけが全てを表す現代では、この洞察が非常に重要なのである。

実際に、新儒教の伝統は、世界を捉える方法として観念的でありながら、形而上学的な分析やより高い啓蒙状態に達するためにはどのように心身を訓練するべきなのかについての処方箋を提示している。

技術革命が現実社会のイメージ混乱を招き、それにより社会の中に混乱を作り出して、観念的な原則やテキストとは対照的にイメージに不健全な依存をすることになってしまった。

しかし、新儒教の伝統には、このような未曾有の課題へ対応できる新しい慣行と政策を提示し、そして適応させることのできるものが多くある。

〈退廃への挑戦〉

今の時代に生きる私たちは、次のような現状に直面している。今日の最大の脅威は、テロリズムでも景気の減速でも個々の政治家の行動でもなく、文化が退廃してきたことである。

個人は国家の未来には関心が希薄で、飲食、酒、性的快楽、休暇やスポーツ等が溢れる文化の中で暮らすことを優先するようになった。

人生の目的は目先の満足となり、犠牲は価値の領域から消滅してしまった。これが典型的な敗退の様相である。

残念ながら、現在の社会は市場への需要を創出するために間違った努力を費やし、人間本来の原始的な力を開放して、若者には表面的(ファッショナブル)な経験としての欲望を促進させた。

伝統的な儒教の合理性や自己統制、思いやりなどを野放し状態の野獣と履き違えてしまったのである。

行儀悪く食べ物を口に詰め込んだり、テレビをつけると20年前ならポルノとして禁止されていたはずの衣装をまとった半裸の女性が出てくるCMが平気で流れている。

このような戦略は製品の販売促進のためなら効果的かもしれないが、社会的なあらゆる分野において道徳的な退廃をもたらす結果となってしまった。

その結果、政策は国家福祉、安全保障、価値観の確立ではなく、富や権力蓄積のための単なる機械と化してしまったのである。

社会全体がこのように退廃してしまった場合、これらの問題を経済政策や技術政策などでは解決できないといおうことを認識しなければならない。

新儒教の伝統は、このような部分に多くの提言をすることができる。文化や健全な習慣の回復、退廃の性質とその治療法に関しては多くの事が述べられている。

特に、新儒教の伝統は、道徳的行動の原動力として羞恥の重要性を力説している。その意識の喪失こそが現代社会の悲劇を招いたのである。

伝統的な社会では、特定の行動が高齢の親を捨てるのと同等な、恥ずかしくて間違った行動だと考えられてきた。道徳的な義務が内面化して、深い羞恥心として現れていた。

儒教の表現として、「君子は独りを慎む(君子慎其独也)」という言葉があるように、倫理というものは誰かに監視されているという以前に内面から出てくるものでなければならない。

伝統的な羞恥の感覚を喪失すると、人は子どもの世話や職場の任務を遂行することだけで自身は道徳的な行動をしていると感じてしまう。

そして、社会全体のために自身の行動を倫理的に考慮したり、周囲の人々の行動を考慮する必要性を感じなくなるのである。

したがって、新儒教は、崩壊してしまった教育システムにも多くの提言をすることができる。

今や教育はこれ以上、価値を生むことが出来ない産業となってしまい、知識に対する倫理的・精神的な側面が未開発地として残ってしまった。

むしろ、卒業証書は仕事を見つけるためだけの前提条件になり、子どもたちが受ける教育はただ抽象的な労働力の価値を高めるだけのものになってしまった。

しかし、新儒教の伝統としての教育は、それ自体が教師や学生にとっては道徳的な行為であり、教師は製品を提供するためではなく、また、潜在的な労働力の価値を高める必要がないことを示唆している。

教師や学生の間には人間的なつながりが必要で、多くの場合は関係が一生続くように発展するものなのである。

いかなる学習や教授の場合でも、新儒教の伝統においては精神的な意味を持つ尊敬という概念がその学習や教授の主材となる。

学習という行為は、共に学ぶという共同体を作り出し、今日、私たちが失ってしまった倫理的な統治に関する共同体の合意を促進させた。

〈意識と環境〉

最後に、新儒教の伝統は、今日の消費時代に多くの提言をすることができる。儒教の伝統は、製品を消費したり自然を破壊することなく、活動的で現実参加型の人生を送るための一つの方法を提示している。

儒学者の生き方や暮らしぶりを思い出してみればいい。彼らは本を読んだり、手紙やエッセイを書いたり、古典をより深く理解するために朗読をした。彼らは非常に少ない資源を使って非常に質素な暮らしをしていた。

また、彼らは人生の深みや意味を探すため、どこかに行ったり、何かをしたりする必要はなかった。

彼らは表面的なものではなく、内在された原則に関心を持っていたため、古典を読むことを通して真実と満足を得ることができたのである。

おそらく、今の世界が直面している最も重要な課題は、裕福な国家に生きる特権的地位を擁する人々が浪費している、とてつもなく大量の天然資源の無駄を減らすことである。

車を所有したり、豪邸に住んだり、必要以上の食糧を食べようとする過分な欲望を抑制して行動する必要がある。幸福への道だと確信しながら、過度な消費という悲惨なサイクルに陥っているのである。

また、このような消費は環境を破壊し、人類の未来を脅かす。

消費文化の危機やそれに伴う気候変動に直面した際、幾つかの本や論文の中で見出した儒学者たちのモデルが示唆する内容は、非常に魅力的である。

今日の環境への莫大な被害の大部分は、裕福な先進国に住み、過度に資源を消費する人々に起因している。私たちが真剣に消費を減らさない限り、子孫には持続可能な世界を約束することが出来ない。

環境破壊の背景にあるもう一つの要因は、デジタルが代弁する時代の動向と、私たちを取り巻く、絶えず変化するイメージとの因果関係に対する認識の低下である。

我々自身が毎日無造作に繰り返しているある行動が、周辺諸国で起こっている事にどんな因果関係があるのかを、明確に知ることさえ出来ないでいる。それどころか、両者は全く関係がないと考えることも、しばしばある。

紙やプラスチックが環境にどのような影響を与えるのかも考えず、カフェでコーヒーを飲んではその紙コップを捨てる。カフェでサービスを提供する人に対する態度が自国の文化をいかに卑下させるのかも考えずに彼らに軽率、且つ、無礼な態度で接する。

儒教の伝統的な核心に戻り、何よりも自分のすべての振る舞いが、窮極的には道徳的な行為である、という事実を認識する必要がある。

本を読んだり、食事をしたり、友達と話をしたりすることなど、すべての行動が社会に肯定的な影響を与えることができるのである。

日常生活における、道徳的な行動の意義を再確認することで、健全な政治文化を創造することができるのである。

人間の本性は変えることができないが、あらゆる面で高い道徳的な行動を要求する文化を確立することで、政治家に圧力をかけることができるのである。