菅義偉氏は高校卒業後、板橋の段ボール工場で働いていた。「令和おじさん」の知られざる青春

安倍晋三氏の次の首相になる可能性がある菅義偉さんは、自民党幹部では珍しい「叩き上げの政治家」だ。
新元号「令和(れいわ)」を発表する菅義偉官房長官=2019年4月1日、首相官邸
新元号「令和(れいわ)」を発表する菅義偉官房長官=2019年4月1日、首相官邸
時事通信社

8月28日に辞任表明した安倍晋三首相の後任として、にわかに名前が浮上してきたのが菅義偉(すが・よしひで)氏だ。

2012年12月の第二次安倍内閣の発足に伴って官房長官に就任。以後、7年8カ月にわたって安倍首相を支えてきた。官房長官の在任期間としては最長記録だ。「令和」の元号を記者会見で発表した姿から「令和おじさん」とも呼ばれた。

そんな菅氏のことを、私たちはどれだけ知っているだろうか。安倍首相の有能な参謀として、日々の記者会見をそつなくこなす姿は日常的に見ているが、その人となりは意外と知られていない。

菅氏は秋田県のイチゴ農家の長男。世襲が多い自民党幹部の中では珍しく「叩き上げ」の政治家だ。この記事では、菅氏が政治家になるまでの歩みを追ってみよう。

■豪雪地帯のイチゴ農家に生まれて

菅氏は1948年12月6日、秋田県秋ノ宮村(現・湯沢市)に生まれた。県の内陸部にある豪雪地帯だ。

総理の影 菅義偉の正体」(小学館)によると、父親の菅和三郎さん(故人)は戦前、南満州鉄道の職員だった。終戦とともに郷里の秋ノ宮村に引き揚げた。

「これからは、米だけでは食っていけない」と、和三郎さんはイチゴの栽培を開始。イチゴ生産出荷組合の組合長として頭角を現し、雄勝町(現・湯沢市)の町会議員も務める地元の名士となった。

■段ボール工場に勤めるも「このままで一生終わるのは嫌だな」と大学受験

資料写真:集団就職列車で東京駅に着いた鹿児島県、熊本県の中卒者(1967年3月19日撮影)
資料写真:集団就職列車で東京駅に着いた鹿児島県、熊本県の中卒者(1967年3月19日撮影)
時事通信社

菅氏も、長男としてイチゴ農家を継ぐことを親から期待されていた。しかし、周囲には中学校を卒業後に集団就職で上京した同級生が多かったこともあり、地元の高校を卒業後、1967年に上京した。

高校の紹介で、板橋区内の段ボール工場に住み込みで働くことになった。

影の権力者 内閣官房長官菅義偉」(講談社+α文庫)は、「うずたかく積まれた古紙を相手にした作業は、紙の繊維が飛び散り粉塵まみれとなる肉体労働だった」と当時の苛酷な労働環境を推測している。

菅氏によると「東京に行けば何かいいことがある」と思って上京したのだが、待っていたのは厳しい現実だったという。インタビューで、当時のことを次のように振り返っている。

「それで高校に就職先を紹介してもらい、工場のようなところに就職しました。そこで初めて現実の厳しさを味わった。田舎から上京してきた人たちとしか会わないわけですよ。そこでいろいろな話をした。私は高校を卒業してきたのですが、中学を卒業して出てきた人がいました。彼らからいろんなことを聞いていて『このままで一生終わるのは嫌だな』と思うようになったんです。そこでもう一回人生をやり直してみようかなと、大学に入ろうと思いました」

(「官房長官 側近の政治学」朝日新聞出版より)

■大学の就職課に「先輩の政治家を紹介してください」と頼む

資料写真:法政大学=東京都千代田区富士見(撮影日:1963年1月)
資料写真:法政大学=東京都千代田区富士見(撮影日:1963年1月)
時事通信社

「影の権力者 内閣官房長官菅義偉」によると、菅氏はその後、昼は築地市場の台車運び、夜は新宿の飲食店で皿洗いをしてアルバイトをしながら受験勉強を続け、通常より2年遅れで法政大学の法学部に入学。

1973年に卒業後、電気通信設備会社に就職して、一度はサラリーマンになるも、まもなく政治の道を志すことになる。

政界との繋がりがなかった彼が頼ったのは大学の就職課だった。菅氏の言葉を引こう。

「そこでなんとなく、世の中を動かしているのは政治じゃないかなと思い始めるんです。ただ、政治家になろうとは思わなかったけど、政治の世界に身を置いてみたいという気持ちがあった。かといって、政治の世界では、誰も知らない。そこで法政大の就職課に行って、先輩の政治家を紹介してくださいと頼みました。すぐ近くにOB会の事務局があって、その事務局長を紹介してもらいました。その人が、法政の先輩で自民党の政治家だった中村梅吉さんの秘書と知り合いだった。その秘書を紹介されて、田舎者で、何もわからないけれども、初めて政治の道につながりを持つことができたのです」

(「官房長官 側近の政治学」より)

東北の農家を継ぐのが嫌で上京した青年が、紆余曲折を経て政治の道を歩み始めた瞬間だった。

■政治家の秘書として11年間の下積み生活。秋田に帰ることも考えていたが…

事務所で働き始めてまもなく、中村氏は政界を引退。中村氏の秘書のツテで自民党の衆院議員だった故・小此木彦三郎(おこのぎ・ひこさぶろう)氏を紹介してもらう。横浜市を地盤とする彼の下で1975年以降、11年にわたって秘書を務めることになった。7人いる秘書の中でも最も若い末端の秘書だった。

いつかは秋田に帰ることも考えていたが、小此木氏が菅氏の両親に直接会って秘書を続けさせるように直談判したことで断念した。

菅氏は次のように振り返っている。

「三十歳前後のとき、事務所を辞めて秋田へ帰る、と切り出したのです。そしたら、小此木さんが唐突に『野呂田芳成(元農水大臣)さんの参議院選挙の応援で秋田に行くから、お前もついてこい』と言って、連れていかれた。で、秋田に着いたら、お前のうちに行くって言い出した。そうして両親に会い、『もう少し鍛えさせてもらえませんか』と頭を下げるではありませんか。とうぜん両親は『お願いします』と答えるほかない」

(「総理の影 菅義偉の正体」より)

こうして菅氏は、政治の道を続けることになった。1987年に横浜市議に出馬して当選。1996年には小選挙区制度が導入されたばかりの衆院選で、神奈川区2区で初当選を果たした。このとき47歳。遅咲きの国政デビューだった。

「政治の世界に入るまでは結構ふらふらしていましたけど、入ってからは、ずうっとアクセルを踏んでいます」

(「総理の影 菅義偉の正体」より)

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